皿が割れる

鍍金 紫陽花(めっき あじさい)

皿が割れる

「あの娘、あんたを狙ってるよ」


 放課後の校舎では陸上部の掛け声が聞こえる。規則正しいオーエスに心地よく感じて、靴を手にした時だった。


「え、何?」


 その知らない女性は苛立たしげに眉を潜めた。右手が伸びて叩かれると身構えたけど、その細い指は教員室を指差す。


「木佐(きさ)。貴方の友達」


 教員室の扉で頭を下げる女性。夢乃の友達である木佐だった。

 耳を出した髪型に、日焼けした肌。長いまゆに黒い瞳。引退しても足は黒い。

 彼女は元々陸上部だった。二年に上がって引退し、夢乃と仲良くしている。


「陸上部をやめた理由、聞いてないの?」

「は、はい」


 相手の女性は夢乃と同じ色のリボンをつけている。胸元には井上と書かれていた。


「アイツ、先輩を告白してキモがられたんだよ。あんたも気をつけて」


 井上という女性は満足したのか溜め息をはいた。すると、夢乃に背を向けて靴箱から離れる。


「え、あの……」

「ん、夢乃。靴を持ってどうしたの?」


 木佐は夢乃に提出物が遅れていると言い訳をした。その紙にやる気を無くす作用があると熱弁する。


「ね、ねえ。木佐」


 自身のローファーを床に置いた。友達は既に履き替えている。かかとは曲がっていた。


「なに?」

「何でもない」



 夢乃は台所に立っている。水に浸かったお椀を取り上げて、出しっぱなしの蛇口に当てた。


「これ、食べた」


 彼女の父親が食器を横に並べた。皿にはカレーのルーがべったりと付いている。

 蛇口を止めてスポンジを泡立てた。泡の右手は食器の滑りを拭っていく。表面や口を付けたところ、念入りに力を与えていた。

 洗い終えて右手の食器棚に一旦置く。カレーのあった皿を水に落とした。


「お父さん。昨日、母さんのところ看てきた?」

「行ってない」

「なんで行ってないの。そんなんだから居なくなるんじゃない」

「ああ、もう分かった。急がなくていいのか」


 取っ手に水を当てたら、夢乃は蛇口を止めた。彼女の腕は手拭きに包まれる。指先が赤くなって、皮膚が割れていた。


「食器は帰って洗う」


 父親は巾着に腕を通す。中の弁当が揺れないように底を持っていた。

 彼女も暖房を切って、扉を開けた。父親が背後で鍵を閉める。


「いってらっしゃい」

「うん」


 マンションの階段を降りたら、バス停へ向かう。道に落ちた空き缶を見ながら、家の鍵を閉めたか気にしていた。


「ねえ、今日は遊びに行かない?」「いいけど、バイトじゃないの?」


 夢乃はバス停の日除けの天井に入れなかった。同級生の2人組がバスを待っていたからだ。


「今日は月曜だっけ。うん」


 夢乃は独り言で自分を保つ。

 二分遅れでバスは到着して、彼女は最後に乗っかる。

 彼女は運転手側の吊革に身を傾けた。2人は夢乃に気付かず近くの席に腰を下ろす。

 

「つうかさ、親が美容師はダメだってうるさいんだよね」「えー、まだ反対してくるの。自分の人生ぐらい決めさせろってね」


 バスは赤信号で停止し、車内が揺れる。夢乃は自分の弁当を捨てて楽になりたかった。


「あれからどう?」

「……」

「夢乃さん?」


 ハッとして振り返る。声かけてきたのは昨日の女性だった。


「えっと……」

「私は井上。それよりも、何かあった?」


 髪は薄く茶色で毛先が丸まっている。可愛らしさの詰まった人だった。きっと、男子が好みそうな外見だ。

 夢乃の冴えない返事に耳を貸さない。背後にいる井上の友達は傍観していた。


「昨日も言ったけど気をつけてね」


 バスは学校近くで動きを止める。

 生徒が夢乃の横を通り過ぎた。バスを降りて、前方の男女2人組を目で追う。

 


「夢乃ー」


 足音が彼女に近づく。夢乃は友達の声で振り返る。


「きさ、おはよ」


 木佐(きさ)は夢乃の友達で、体育の時に二人で組んでいる。


「まだ朝練のくせが抜けない?」

「そうそう。昨日ライヌに書いたことだよね」


 木佐が部活をやめた理由は、先輩に言い寄られたからという噂がたっている。


「もう辞めたんだし。早起きしなくていいんだけどね」

「でも、学校にこなくちゃ」


 学校に来てもらわないといけない。夢乃は自分勝手な裏腹を抱えて気を落とす。


「お母さんみたいなこと言うー」木佐は唇を尖らせて背中を丸めた。


「う、うん」

「うげっ。先生が呼んでる」

「また提出おくれ?」

「ほんと、しつこい顧問だなー」


 雪が扉の横に積もっている。夢乃は足跡を汚い雪に残した。彼女の足は冷たい。


「行ってきなよ」


 授業は滞りなく進む。一限目はまぶたが重くなる現国だった。

 授業を乗り越えても、彼女は元気を削がれていく。

 次の科目は体育だった。

 もちろん、夢乃は友人と一緒に体育館に歩んだ。着替えた体操服の裾を出す。

 体育の授業はラケットを使った。二人組になるよう促される。


「それでねーー」

「二人組とか面倒くさいよね」


 二人の間にハネが飛び交う。ラケットを夢乃が上から下にする。


「楽できるからいいけどね」


 陸上部の人と離れていた。それが自然だった。しかし、井上に指摘されてから過剰に反応してしまう。


「……」

 

 なぜ、自分にそんなことを言ってきたのだろう。そして、彼女の親友は本当に"そう"なのか。もし、そうだとして、自分は驚いてしまうだろう。


「あはは。夢乃、どこ飛ばしてんの」


 床に羽は二人の間に落ちた。


「ごめんごめん」

「考え事?」

「ごめんね」

「いいよ」


双方とも引かずに駆け寄る。元陸上部の彼女が先を摘んだ。


「あ、夢乃。言い忘れてた」

「なに?」

「昼休み。先生に呼ばれたから先に食べてて」

「え?」


 体育が終わる。


 二人組を脱して、友達は早々に過ぎ去っていく。

 夢乃はクラスの集団に引っ付いた。誰かの陰に隠れて玄関を進む。雪は既に溶けていた。

 

 教室には自分の弁当が置いてある。彼女は紐に腕を通した。通しただけで動かさない。通行人が邪魔そうに背を押す。


「おい、邪魔なんだけど」「ちょ、強く言いすぎ。あはは」


 井上に告げ口された。

 誰を信じればよかったのか。


『もう、お母さん無理だから』

「……お腹痛い」


 彼女の弁当は机に寂しく放置される。

 人の流れに自分を任せた。友人のいない世界で、緑色の床を滑る。誰も夢乃を気にしていない。カノジョの母親が入院していたとか、誰も知らなかった。友人でさえ知らない。



「失礼します」


 保健室には先生が座っていた。その先生はトカゲみたいな目を動かす。


「お腹痛くなった?」

「また、来ました」

「そう。寝てていいよ」


 扉を閉める。体温計を借りて、靴を脱ぐ。

 ベットに体を忍ばせたら、考えが一気に押し寄せる。自分のしてきた後悔。そして、これからも直せない性格のこと。


 打算で動く自分が嫌だった。どうしたら嫌われるのか気にしている。その反動で家族に強く当たってしまう。悪循環から逃れられない。


「失礼します」


 思考は遮られる。

 その時、木佐の声が響いたからだ。夢乃と先生しかいない空間に侵入する。

 先生と木佐は何かを話し合っていた。


「……木佐?」

「夢乃!」カーテンが開かれて、友達が顔を覗かせる。目元が尖って、肩で息をしていた。


「先生に呼ばれたんじゃ」

「終わって、教室戻ったらいなくて。みんなに聞いて、ここに来た」

「ご飯、食べてきなよ」


 彼女は片手を目上の高さに持ってくる。そこに握られてるのは、購買部の焼きそばパンと、夢乃の弁当だった。


「ここで食べよう」


『あの娘、あんたを狙ってるよ』『おい、邪魔なんだけど』


「ありが、とう」


 保健室のベットはあと二つ空いている。窓越しの結露は何も書かれていない。椅子の軋む音がした。


「ちょっと待ってて。椅子とってくる」


 その優しさに裏があろうとも、今の夢乃に欠けていたものだった。その甘美にぐっと喉元でとどめて目をしぼる。


「よし持ってきた。食べよ」


 弁当の中身は崩れずに敷き詰められたままだ。

 箸を卵焼きの中に進ませる。柔らかな表面は抵抗せず潰れていく。


「木佐、私のお母さんね。入院してたんだ」


 弁当を身体から離す。横の友人はパンを開けている。

 焼きそばパンのクズは口元に付いたままだ。


「私たちが無理させたんだ。分かっていたくせに、『母さんだから』って頼ってた」

「家にいるの?」

「退院したけど帰ってこない。近くのホテルにいるらしいんだけど」

「そう、なんだ」


 夢乃は米粒を流し込む。食べ物が美味しくて、口は唾液で満たされた。


「聞いてくれてありがとう」

「私には何も出来ないから」

「そんなことない。木佐がいてくれるのは嬉しい」


井上の高笑いが聞こえた気がした。彼女は急に脈略のない発言をする。


「私は木佐の味方だから」

「……何か言われた?」

「木佐が悪く言われるの、辛い」


 彼女は立ち上がった。パンを片手に移動する。ポケットティッシュを丁寧に取り出す。ベットの上に転がせて一枚ぬいた。

 それは口元の上を左右する。汚れて丸めて手の中に収めた。


「嫌だったら殴って」

「へ?」


 ベットは軋む。窓が風を強く当てられる。

 夢乃はカーテンが閉まっていて良かったと安堵した。


「ティッシュいるよね」

「要らないよ」


 木佐はストンと椅子に戻った。


「そ、そう」


 その後は普段通りの会話が続く。

 体調が良くなり、午後の授業に復帰した。

 夢乃は顔を上げてみる。まるで新しいものを手にいたような高揚感があった。

 エアコンが温風を送る音。チョークが黒板を走っている。横の席は携帯を隠しながら弄っていた。誰かが鼻水を啜る。



 夢乃は帰り道に勇気を振り絞った。バス内の座席に座っていたら、井上に話しかけられたのだ。


「木佐、なにか分かった?」

「なにか……?」


 井上には苛立ちを顔に出す。夢乃は眉を動かすくせを覚えてしまった。


「レズだって証拠」

「井上さんは、なんで忠告してくれるの?」


 彼女は当たり前のこと聞くなと息巻いた。


「だって、キモイでしょ」


 夢乃は透明な壁の隔たりを見られた。それは、井上の人間が住む場と自分の領域。

 井上はあからさまな不快を浮かべ友人の席に戻った。夢乃は待っていた反応をしなかったからだ。



 夢乃はバス停を降りて自分の家に向かった。


「おーい」

「え」

「遅いじゃないか」

「父さん?」


 自分の父親が普段より早く帰宅し扉の前にいた。


「皿洗いが溜まってるんだよな」

「……う、うん」


 父親は腕まくりをして扉を開ける。その後から彼女はついていき、鞄を下ろした。鍵を閉めて台所に向かう。水につけられた食器に触る。


「父さん」


 夢乃は食器に泡をつけて汚れを剥ぐ。そして、父親は不慣れな手つきで水を取り除いた。


「私こそ母さんに向き合わなくちゃいけなかったんだ。父さんに、その役割を押し付けてたよ」

「今度、一緒に行こうか」

「うん」


 彼女の父親は食器を立て掛ける。娘が朝に置いた食器の横に。

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