皿が割れる
鍍金 紫陽花(めっき あじさい)
皿が割れる
「あの娘、あんたを狙ってるよ」
放課後の校舎では陸上部の掛け声が聞こえる。規則正しいオーエスに心地よく感じて、靴を手にした時だった。
「え、何?」
その知らない女性は苛立たしげに眉を潜めた。右手が伸びて叩かれると身構えたけど、その細い指は教員室を指差す。
「木佐(きさ)。貴方の友達」
教員室の扉で頭を下げる女性。夢乃の友達である木佐だった。
耳を出した髪型に、日焼けした肌。長いまゆに黒い瞳。引退しても足は黒い。
彼女は元々陸上部だった。二年に上がって引退し、夢乃と仲良くしている。
「陸上部をやめた理由、聞いてないの?」
「は、はい」
相手の女性は夢乃と同じ色のリボンをつけている。胸元には井上と書かれていた。
「アイツ、先輩を告白してキモがられたんだよ。あんたも気をつけて」
井上という女性は満足したのか溜め息をはいた。すると、夢乃に背を向けて靴箱から離れる。
「え、あの……」
「ん、夢乃。靴を持ってどうしたの?」
木佐は夢乃に提出物が遅れていると言い訳をした。その紙にやる気を無くす作用があると熱弁する。
「ね、ねえ。木佐」
自身のローファーを床に置いた。友達は既に履き替えている。かかとは曲がっていた。
「なに?」
「何でもない」
▼
夢乃は台所に立っている。水に浸かったお椀を取り上げて、出しっぱなしの蛇口に当てた。
「これ、食べた」
彼女の父親が食器を横に並べた。皿にはカレーのルーがべったりと付いている。
蛇口を止めてスポンジを泡立てた。泡の右手は食器の滑りを拭っていく。表面や口を付けたところ、念入りに力を与えていた。
洗い終えて右手の食器棚に一旦置く。カレーのあった皿を水に落とした。
「お父さん。昨日、母さんのところ看てきた?」
「行ってない」
「なんで行ってないの。そんなんだから居なくなるんじゃない」
「ああ、もう分かった。急がなくていいのか」
取っ手に水を当てたら、夢乃は蛇口を止めた。彼女の腕は手拭きに包まれる。指先が赤くなって、皮膚が割れていた。
「食器は帰って洗う」
父親は巾着に腕を通す。中の弁当が揺れないように底を持っていた。
彼女も暖房を切って、扉を開けた。父親が背後で鍵を閉める。
「いってらっしゃい」
「うん」
マンションの階段を降りたら、バス停へ向かう。道に落ちた空き缶を見ながら、家の鍵を閉めたか気にしていた。
「ねえ、今日は遊びに行かない?」「いいけど、バイトじゃないの?」
夢乃はバス停の日除けの天井に入れなかった。同級生の2人組がバスを待っていたからだ。
「今日は月曜だっけ。うん」
夢乃は独り言で自分を保つ。
二分遅れでバスは到着して、彼女は最後に乗っかる。
彼女は運転手側の吊革に身を傾けた。2人は夢乃に気付かず近くの席に腰を下ろす。
「つうかさ、親が美容師はダメだってうるさいんだよね」「えー、まだ反対してくるの。自分の人生ぐらい決めさせろってね」
バスは赤信号で停止し、車内が揺れる。夢乃は自分の弁当を捨てて楽になりたかった。
「あれからどう?」
「……」
「夢乃さん?」
ハッとして振り返る。声かけてきたのは昨日の女性だった。
「えっと……」
「私は井上。それよりも、何かあった?」
髪は薄く茶色で毛先が丸まっている。可愛らしさの詰まった人だった。きっと、男子が好みそうな外見だ。
夢乃の冴えない返事に耳を貸さない。背後にいる井上の友達は傍観していた。
「昨日も言ったけど気をつけてね」
バスは学校近くで動きを止める。
生徒が夢乃の横を通り過ぎた。バスを降りて、前方の男女2人組を目で追う。
「夢乃ー」
足音が彼女に近づく。夢乃は友達の声で振り返る。
「きさ、おはよ」
木佐(きさ)は夢乃の友達で、体育の時に二人で組んでいる。
「まだ朝練のくせが抜けない?」
「そうそう。昨日ライヌに書いたことだよね」
木佐が部活をやめた理由は、先輩に言い寄られたからという噂がたっている。
「もう辞めたんだし。早起きしなくていいんだけどね」
「でも、学校にこなくちゃ」
学校に来てもらわないといけない。夢乃は自分勝手な裏腹を抱えて気を落とす。
「お母さんみたいなこと言うー」木佐は唇を尖らせて背中を丸めた。
「う、うん」
「うげっ。先生が呼んでる」
「また提出おくれ?」
「ほんと、しつこい顧問だなー」
雪が扉の横に積もっている。夢乃は足跡を汚い雪に残した。彼女の足は冷たい。
「行ってきなよ」
授業は滞りなく進む。一限目はまぶたが重くなる現国だった。
授業を乗り越えても、彼女は元気を削がれていく。
次の科目は体育だった。
もちろん、夢乃は友人と一緒に体育館に歩んだ。着替えた体操服の裾を出す。
体育の授業はラケットを使った。二人組になるよう促される。
「それでねーー」
「二人組とか面倒くさいよね」
二人の間にハネが飛び交う。ラケットを夢乃が上から下にする。
「楽できるからいいけどね」
陸上部の人と離れていた。それが自然だった。しかし、井上に指摘されてから過剰に反応してしまう。
「……」
なぜ、自分にそんなことを言ってきたのだろう。そして、彼女の親友は本当に"そう"なのか。もし、そうだとして、自分は驚いてしまうだろう。
「あはは。夢乃、どこ飛ばしてんの」
床に羽は二人の間に落ちた。
「ごめんごめん」
「考え事?」
「ごめんね」
「いいよ」
双方とも引かずに駆け寄る。元陸上部の彼女が先を摘んだ。
「あ、夢乃。言い忘れてた」
「なに?」
「昼休み。先生に呼ばれたから先に食べてて」
「え?」
体育が終わる。
二人組を脱して、友達は早々に過ぎ去っていく。
夢乃はクラスの集団に引っ付いた。誰かの陰に隠れて玄関を進む。雪は既に溶けていた。
教室には自分の弁当が置いてある。彼女は紐に腕を通した。通しただけで動かさない。通行人が邪魔そうに背を押す。
「おい、邪魔なんだけど」「ちょ、強く言いすぎ。あはは」
井上に告げ口された。
誰を信じればよかったのか。
『もう、お母さん無理だから』
「……お腹痛い」
彼女の弁当は机に寂しく放置される。
人の流れに自分を任せた。友人のいない世界で、緑色の床を滑る。誰も夢乃を気にしていない。カノジョの母親が入院していたとか、誰も知らなかった。友人でさえ知らない。
「失礼します」
保健室には先生が座っていた。その先生はトカゲみたいな目を動かす。
「お腹痛くなった?」
「また、来ました」
「そう。寝てていいよ」
扉を閉める。体温計を借りて、靴を脱ぐ。
ベットに体を忍ばせたら、考えが一気に押し寄せる。自分のしてきた後悔。そして、これからも直せない性格のこと。
打算で動く自分が嫌だった。どうしたら嫌われるのか気にしている。その反動で家族に強く当たってしまう。悪循環から逃れられない。
「失礼します」
思考は遮られる。
その時、木佐の声が響いたからだ。夢乃と先生しかいない空間に侵入する。
先生と木佐は何かを話し合っていた。
「……木佐?」
「夢乃!」カーテンが開かれて、友達が顔を覗かせる。目元が尖って、肩で息をしていた。
「先生に呼ばれたんじゃ」
「終わって、教室戻ったらいなくて。みんなに聞いて、ここに来た」
「ご飯、食べてきなよ」
彼女は片手を目上の高さに持ってくる。そこに握られてるのは、購買部の焼きそばパンと、夢乃の弁当だった。
「ここで食べよう」
『あの娘、あんたを狙ってるよ』『おい、邪魔なんだけど』
「ありが、とう」
保健室のベットはあと二つ空いている。窓越しの結露は何も書かれていない。椅子の軋む音がした。
「ちょっと待ってて。椅子とってくる」
その優しさに裏があろうとも、今の夢乃に欠けていたものだった。その甘美にぐっと喉元でとどめて目をしぼる。
「よし持ってきた。食べよ」
弁当の中身は崩れずに敷き詰められたままだ。
箸を卵焼きの中に進ませる。柔らかな表面は抵抗せず潰れていく。
「木佐、私のお母さんね。入院してたんだ」
弁当を身体から離す。横の友人はパンを開けている。
焼きそばパンのクズは口元に付いたままだ。
「私たちが無理させたんだ。分かっていたくせに、『母さんだから』って頼ってた」
「家にいるの?」
「退院したけど帰ってこない。近くのホテルにいるらしいんだけど」
「そう、なんだ」
夢乃は米粒を流し込む。食べ物が美味しくて、口は唾液で満たされた。
「聞いてくれてありがとう」
「私には何も出来ないから」
「そんなことない。木佐がいてくれるのは嬉しい」
井上の高笑いが聞こえた気がした。彼女は急に脈略のない発言をする。
「私は木佐の味方だから」
「……何か言われた?」
「木佐が悪く言われるの、辛い」
彼女は立ち上がった。パンを片手に移動する。ポケットティッシュを丁寧に取り出す。ベットの上に転がせて一枚ぬいた。
それは口元の上を左右する。汚れて丸めて手の中に収めた。
「嫌だったら殴って」
「へ?」
ベットは軋む。窓が風を強く当てられる。
夢乃はカーテンが閉まっていて良かったと安堵した。
「ティッシュいるよね」
「要らないよ」
木佐はストンと椅子に戻った。
「そ、そう」
その後は普段通りの会話が続く。
体調が良くなり、午後の授業に復帰した。
夢乃は顔を上げてみる。まるで新しいものを手にいたような高揚感があった。
エアコンが温風を送る音。チョークが黒板を走っている。横の席は携帯を隠しながら弄っていた。誰かが鼻水を啜る。
▼
夢乃は帰り道に勇気を振り絞った。バス内の座席に座っていたら、井上に話しかけられたのだ。
「木佐、なにか分かった?」
「なにか……?」
井上には苛立ちを顔に出す。夢乃は眉を動かすくせを覚えてしまった。
「レズだって証拠」
「井上さんは、なんで忠告してくれるの?」
彼女は当たり前のこと聞くなと息巻いた。
「だって、キモイでしょ」
夢乃は透明な壁の隔たりを見られた。それは、井上の人間が住む場と自分の領域。
井上はあからさまな不快を浮かべ友人の席に戻った。夢乃は待っていた反応をしなかったからだ。
夢乃はバス停を降りて自分の家に向かった。
「おーい」
「え」
「遅いじゃないか」
「父さん?」
自分の父親が普段より早く帰宅し扉の前にいた。
「皿洗いが溜まってるんだよな」
「……う、うん」
父親は腕まくりをして扉を開ける。その後から彼女はついていき、鞄を下ろした。鍵を閉めて台所に向かう。水につけられた食器に触る。
「父さん」
夢乃は食器に泡をつけて汚れを剥ぐ。そして、父親は不慣れな手つきで水を取り除いた。
「私こそ母さんに向き合わなくちゃいけなかったんだ。父さんに、その役割を押し付けてたよ」
「今度、一緒に行こうか」
「うん」
彼女の父親は食器を立て掛ける。娘が朝に置いた食器の横に。
皿が割れる 鍍金 紫陽花(めっき あじさい) @kirokuyou
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