第120話 千蔭と沙羅

 石畳に沿って並ぶ宿坊を視界の端に流しながら、沙羅は走っていた。ついさっき、詰所から沙羅の知らせを受けて、文字どおり飛び出していった天狗たちの姿はもうどこにも見えない。きっともう、楓の元へたどり着いていることだろう。沙羅がたどり着いた頃には何もかも終わっているはずだ。それなのに、胸騒ぎが収まらない。


「うわっ!?」


 右足からプツンと嫌な音がして、沙羅は前のめりに倒れこんだ。草鞋の紐が切れたのだろう。こんな時にと歯噛みしながら、転んだ拍子に手を離してしまい、少し前方の地面で転がっている弓に手を伸ばす。


 立ち上がり、衣の裾についた汚れを手で叩き落とすと、沙羅は切れた方の草鞋を脱いだ。替えの草鞋など持っていない。もういいやと、無事な方の草鞋も脱いで足袋まで脱いだ。それらを懐にしまってから、沙羅はふと愛用の弓を眺めた。鬼の国の武器屋から譲り受けた 長弓。沙羅が故郷にいた頃、神事の際に使っていたもの同様、梓という木を削り作られたものだ。


 武器屋の可愛らしい猫のあやかしは、この弓は霊力の強い人間の力をさらに引き出してくれると言っていた。今まで二度しか出せたことのない、白い光を纏って飛ぶ矢。あの光の正体は、この弓によって引き出された沙羅の霊力なのだろうか。ならばなぜ、毎回のようにそうなってくれないのだろうか。


 楓の元へ駆けつけるのもしばし忘れて、沙羅は弓の胴をゆっくりとなぞる。実戦でこの弓を使ったのはわずか二度。その二度ともこの弓の弦から放たれた矢は、光を纏った。練習で何千回放っても、キラリとも光らなかったのに。まさか実戦でなければ、自分は力を発揮できないのだろうか。ただし、それは別に悪いことではない。実戦で力を発揮出来るのならば、何も練習でうまくいかないことを嘆かなくとも良いのだから。じゃあ別に悩まなくてもいいか、と、沙羅はそうはならない。何にしても自分やこの弓が秘めている力については、正しく知っておきたかった。そうして初めて使いこなせていると言える気がするのだが。今の段階だと、どちらかといえば「力」に振り回されている気がする。


 沙羅は不満げに鼻を鳴らした。それから自分は楓の元へ駆けつけようと走っていたのを思い出す。草鞋を脱いで幾分開放感の増した足で、沙羅は再び駆け出した。


 そうして、楓や天狗たちのいるはずの的場へ辿り着いた沙羅は、その惨状を目にして固まってしまった。おさまらない胸騒ぎの正体は、これだったのか。


 自分の血なのか、返り血なのか、それすら判然としないほど、肌を、衣を、赤く染めた一見少女のようにも見える少年が、無数の骸の上に立っていた。だらりと下がった腕の先には二本の血刀が握られている。その刀が、沙羅の見ている前でゆっくりと少年の手の中を滑り、地に落ちた。少年は、うなだれていた顔をふとあげて、こちらを見ている沙羅を見やる。


 そこでようやく、沙羅は少年が千蔭であることに気がついた。彼が顔を上げるまで、鬼の子でも見ているような気分であった。


 千蔭も沙羅だということに気づいたのか、「やあ」と声をあげ、少し疲れた様子で笑いかけてきた。だが、それに返す微笑みなど沙羅は持ち合わせなかった。


「あなたは……」


 青ざめた顔で、沙羅は問う。


「何を、何をしているの」


 乾いた唇でその言葉を紡いだのち、沙羅はひどい眩暈を覚えた。血と羽を散らして息絶えた天狗たちの骸が網膜に焼きつき、その周囲に漂っている恐怖と怒りに染まった死者の情念が、沙羅に痛いほど伝わってくる。


「こんな……」


 ああ、だめだ。早く清めてやらないと、彼らの魂はここで永劫に彷徨い続けることになる。


 沙羅はふらつく足を押さえて、千蔭の姿を見た。彼の足には、死者の念が絡みついている。死して肉体を失っても、常世への道筋を拒否して、彼らは千蔭を呪い殺そうとしている。だが、千蔭は平気なのか、そもそも気づいてすらいないのか、骸すら踏みつけながら、沙羅の方へ歩み寄ってきた。


 沙羅は、反射的に弓を構えた。だが、弦につがえるはずの矢を持っていないことに気がつく。ここは的場だ。どこかに矢が落ちていてもおかしくない。そう思い目を走らせると、骸と化した天狗の背に矢筒が背負われているのを見つけた。そこから矢を一本拝借し、今度こそ弓を構え、矢尻を千蔭へ向ける。


「なぜ、僕にそれを向けるの」


 千蔭は怪訝に首を傾げた。


「僕は人間で、君も人間。対立する必要性なんてどこにもないんだよ」


 それでも沙羅が構えを解かないのを見て、千蔭は観念したように両手をあげて、その場で足をとめた。


「君は優しいから、怒っているんだね。僕が彼らを殺したのを。けれど、彼らはどうせ後少ししたら死ぬ運命だったんだ。僕が来たから、それが少し早まっただけなんだよ」


「どういう意味!?」


 油断なく弦を引きしぼったまま、沙羅は吠えるように問うた。千蔭は何がおかしいのか、クスリと笑う。


「教えてあげる。あの人の用が済んだら、ここは浄化されるんだ。きっと見ものだよ」


 千蔭はあげていた右手を閉じて人差し指だけつき立てると、空を指差した。晴れ渡った空は、下界の惨状など気にもせずにどこまでも明るい天色をしている。


「空に光り輝くお星様の模様が現れたら、それが合図さ。お星様の清らかな光は、あやかしを滅ぼしてしまうんだ。そして最後に、あやかしの魂をたっぷり吸い込んで、消えるんだよ」


「お星様の模様……?それって」


 沙羅は息を吸い込んだ。


「五芒星の陣……?」


 沙羅の言葉に、千蔭は「そう、それだよ」と頷いた。


「じゃああなたは、紫紺の仲間なのね」


「うん、そうだよ。……君はどうしてあの人の名を知っているの?」


 不意に、千蔭の表情が陰った。手を下ろし、「ああ、そうか君が」とつぶやく。


「紫紺さんの悲願を邪魔しているっていう連中の一人なのか。人間のくせにあやかしに与する不届者。それが、君みたいな女の子だなんて」


 ジリ、と千蔭の足が動いた。その動きと彼自身から殺気を感じ取った沙羅は、

反射的に矢を放っていた。だが、その矢は的を外して地面へ突き刺さる。また目眩が襲ってきて足をふらつかせた沙羅のすぐ横に、千蔭はトンと舞い降りた。いつの間に、と沙羅は目を見開く。彼の双眸が、ひたと沙羅の目を覗き込み、手がこちらへ迫ってくる。


「九尾!!」


 殺される、そう思った沙羅は、とっさにその名を呼んでいた。故郷を追われたあの日から、ずっと自分のそばにいて、いつも危険から守ってくれたあやかしの名を。だが、彼は今ここにいない。


 だが、千蔭の手は、ふらついて地面へ倒れ込みそうになった沙羅の体を支えるために差し出されたものだった。


「大丈夫?ふらついてるよ」


 千蔭に支えられ、沙羅は気が抜けた。てっきり殺されると思い込み、怖くて九尾の名を呼んだ自分が馬鹿みたいだ。


「ひ、一人で立てるわ」  


 つっけんどんに言い放つと、沙羅は千蔭の手を振りほどいて離れる。千蔭は「そう、よかった」と最初にあった時のような笑顔を浮かべると、「じゃあ、またいつか」と恐ろしく軽い調子で別れの挨拶を告げてくる。沙羅がぽかんとしていると、千蔭は踵を返した。


「これ忠告ね。早くこの山を下りた方がいいよ。お星様の光は、人間だって巻き込まれたらただじゃ済まないからね。僕も」


 千蔭はクスリと笑って、横顔を肩越しにのぞかせた。


「陽動の役目は終わったから、もう山を下りるよ」


 その言葉に、沙羅はゾッとして立ちすくんだ。陽動。一体、何から目をそらさせるために?

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