第119話 悪鬼
「僕を、捕まえる?」
沙羅が去ると、千蔭はフッと笑みを浮かべた。沙羅に向けていた笑顔とは全く異なる性質の、凄絶な笑み。一瞬それに気圧された自分に驚きつつ、楓は油断なく千蔭を見据えた。少々、この少年に対する認識を改める必要があるかもしれない。
先に攻撃を仕掛けたのは、千蔭の方だった。地面を蹴り上げ跳躍すると、自分よりも頭上にいる楓に向かって、刀を振り上げる。それは、楓の左翼の付け根を狙った一刀だった。楓は空中で身を捻って難なく避け地面へ足をつけたが、生命を絶つ急所よりも、失っても死にはしないが、断ち切られたら壮絶な痛みにかられる箇所を狙ってきたことにわずかに気色ばむ。
「その翼」
千蔭はすっと目を細めた。
「珍しい色をしているね。捥いで、都で売ったらどれほどの値がつくだろう。これは珍しき朱天狗の翼なり。さあさ買った買ったぁってね」
ゾッとして、楓は目を見開いた。だらりと下がった刀の切っ先から、ほたりほたりと血が落ちる。一体その血は何の血だろう。狗賓か、それともーー。
不意に、千蔭から凄絶な笑みが消え、代わりに「あ、いけない」とバツの悪い表情が浮かんだ。
「またお前の悪い癖だって、紫紺さんに怒られてしまう」
「紫紺……!?」
思わぬ人の名に、楓は目を剥く。
「そうやって、すぐに取らぬ狸の皮算用をしたり、」
千蔭は流れるような動作で下段に構える。
「いたぶりながら敵を殺したりするのはダメだって、あれほど言われてたのに。でもーー」
少年の瞳に浮かんだ享楽的な暗い濁りに、楓はほんのわずかな時間ではあったがひるんだ。だが、それが命取りだった。紫電一閃。刃のきらめきが視界の端をチラつくのとほぼ同時、背中に焼け付くような激痛が走る。思わずうめき声をあげて槍を取り落とし、楓は膝をついた。斬りつけざま、楓の背後へ移動していた千蔭は、またあの凄絶な笑みを浮かべた。
「いいよね。相手はあやかしだもの」
「お前!?」
楓は左翼の付け根部分へ手を回し、ぬらついた血の感触を指先に感じながら、肩越しに千蔭を見やる。大丈夫だ。斬られたが翼は切断されていない。痛みにこらえながらも、そのことに安堵を覚える。おそらく、血に濡れたまま放置しているせいで刀の切れ味が悪くなっているのだろう。そのことを知らぬわけではないだろうに、なぜ拭きもせずに血塗れのまま放置しているのか理解に苦しむ。が、そこまで考えたところで、楓はああそういうことかと、歯を食いしばりながら千蔭を睨んだ。わざと切れ味が悪くなった状態で放置しているのだ。相手をいたぶり殺すために。
楓は、取り落とした槍をつかみ直し、地面を足で蹴り、痛みにこらえながら翼を広げる。
「お前は、ここであたしが討ちとる!!」
気合の声を発し、楓は千蔭の心の臓がある箇所に向かって強烈な突きを放った。千蔭はそれを軽やかに避け、槍の横を滑るようにして楓に接近する。先ほどから思っていたが、剣速と突進力が尋常ではない。楓は地面に倒れそうな勢いで頭を下げて攻撃を回避。とっさに槍を地面に突き立て本当に地面へ倒れてしまわないよう体を支える。すかさず地面へ立てた槍を軸にして回転し、次なる攻撃の手を繰り出そうとする千蔭へ蹴りを食らわす。刀を盾にしたものの、千蔭はそれをもろに食らって後退する。槍や棒、身体能力の高さを駆使した突拍子のない天狗お得意の動きは相手を翻弄する。翼が万全ならもっといいのだが、今の段階でも千蔭にも効くようだ。
自信を取り戻した楓は、攻撃の手を緩めない。後退した千蔭に追撃し、槍の攻撃範囲の広さを生かして彼の刀の間合いの外から斬りあげる。藍色の衣が避け、血しぶきが舞う。だが、千蔭の眼光は全く衰えない。よろめいた体を刀で支え、すぐ攻撃に切り替える。
楓の槍と、千蔭の刀が宙で激しくぶつかり合った。槍の繰り出す突きと、それを弾いて受け流す刀。双方の刃は踊るように交差し、それを操る二人の体の位置が次々と入れ替わる。
楓は背中の痛みをこらえながら、神通力で槍に風を纏わせた。これで殺傷能力が上がる。槍の柄の中央部を掴んで振り回し、千蔭を牽制したのち突きを放つ。それは千蔭の脳天を貫くかに見えたが、千蔭は首をひねり皮一枚で回避した。回避もろとも軸足で体を翻し、水平に刀を薙ぐ。それをかわそうと、楓は翼を無理に動かし空へ逃げた。だが、すぐに激しい痛みに襲われ、地面へ墜落する。
「楓殿!!」
地面が眼前に迫ったところを、横から来た影に抱きとめられて墜落を免れた。楓は、自分を抱えた天狗が顔なじみの少年であることに気づく。沙羅が援軍を呼んできてくれたのだろう。首を巡らせると、武装した天狗や烏天狗たちが群れをなして千蔭を取り囲んでいるところだった。
「楓殿、すぐに手当を」
楓が翼を怪我していることに気がつき、少年天狗は慌てて詰所へ引き返そうとする。その時、千蔭を取り囲む天狗たちの間から悲鳴が上がった。
楓と少年天狗がそちらを見ると、たった一人で千蔭が、輪をなして取り囲む天狗たちの中へ斬り込んでいた。千蔭を取り逃がさないよう隙間なく並んでいた天狗たちは自由に動きが取れない。その隙をついて次々と天狗たちの翼を、腕を、胴を、足を斬り、悪鬼さながらに駆け抜ける千蔭の少女じみた顔は、たちまち返り血で真っ赤になった。止めようと斬りかかってきた天狗の喉を串刺しにし、千蔭は刀を手放す。そして、たった今自分が串刺しにした天狗から刀を奪った。そのまま背後も見ずに、背中から斬りかかろうとしていた烏天狗の嘴を貫く。今度は頭上から突撃してきた数人の天狗を、たった今烏天狗から奪った刀と天狗から奪った刀の二本を用いてむちゃくちゃに斬り裂いた。剣術の型も何もあったものではない。ただ本能のままに敵を屠る、血に飢えた獣のような戦い方。
「な、なんだあれ」
楓を抱えて頭上からその光景を眺める少年天狗は、怯えた声をあげた。
「あんなの……まるで悪鬼じゃないか」
楓も、言葉を失くして眼下の地獄絵図を目に焼き付けた。千蔭が動くたび怒号と悲鳴と血飛沫があがり、切断された腕や翼が鈍い音を立てて地面へ落ちる。痛みに絶叫し血だまりの中で倒れ臥す天狗たちを踏みつけにしながら、千蔭は刀を振るう手を止めない。
自分と戦っていた時よりも、千蔭の刀の切れ味と残忍さが一段、いや、何段階も増している。楓の時は本気を出していなかったことが一目瞭然だ。
「貴様ああああああああああっ!!」
一人の天狗が怒声を発しながら、神通力で生み出した旋風を千蔭目掛けて放った。暴力的な風の攻撃に、たまらず千蔭は吹っ飛ばされる。無事な天狗たちはすぐにとどめを刺そうと、上から、右から、左から、正面から、背後から、千蔭を目指す。だが、千蔭は笑っていた。暗い濁りを瞳にたたえた、凄絶な笑み。返り血と自身の血で赤く染まった顔に浮かんだそれは、人のようには到底見えなかった。むしろ、あやかし、と言われた方がしっくりくる。だが、彼は人間だ。ただの人間でありながら、神がかった剣技のみで多数の天狗と渡り合っている。異様だった。
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