第118話 千蔭

 的場近くの庵で昼ごはんを食べ終えた沙羅は、毎日欠かさず行っている弓矢の稽古を再開した。師匠代わりの楓は、今はいない。今朝方、何やら狗賓が大量に殺されたとかで大騒ぎになり、狗賓殺しの犯人探しに大規模な捜索隊が編まれたという。楓はそそくさとお昼を食べると、捜索に何か進展があったかを探りに捜索隊の詰所まで出かけて行ってしまった。お昼休憩が終わっても帰ってこなかったら、先に稽古を始めてくれて良いと言われていたので、沙羅は楓の作ってくれた的に向かって矢を打ち込む。


 毎日指にタコができるくらい稽古に励んでいることもあり、沙羅の矢はほぼ毎回確実にまっすぐ飛び、的の中心に当たるようになっていた。体力もつき、筋肉痛もほとんど起こらない。


 だが、放たれた矢が白い光を纏って飛ぶ、ということは起こらなかった。


 始めてその現象が起きたのは、鬼の国で龍の宝珠を打ち抜いた時だった。九尾の背にまたがり、魂鎮めの時と同じような心持ちで無我夢中に弦を引いて矢を放った。


 楓と話していた時はすっかり忘れていたが、二度目は、都にて無月から逃げる時だった。あの時は、迫ってくるグフウという無月の式神を追い払うのに、後先考えずに矢を放っていた。鬼の国の時のように集中していたわけではなく、とにかく何かしないとグフウに追いつかれるという気持ちでいっぱいで、そんなことをする暇はなかったはずだ。だが、その時も白い光を矢は纏った。


 白い光を纏った矢は、通常の矢よりも速度が増し威力が上がる。事実、矢は宝珠を粉々に破壊し、風と化したグフウを突き抜けて追い払った。


 何かこの二つの出来事に共通点はあっただろうか。沙羅は最近そればかり考えている。少なくとも、楓と話していた中で出てきた、集中力が関係しているという推測は間違っていたのだろうか。


 用意していた矢を打ち尽くしてしまった沙羅は、的に刺さった矢を回収しようと、的が打ち付けられている木の幹まで近づいた。矢のうちの何本かは、後から放った矢で真っ二つに裂けたり傷がついたりしてしまっている。また何本かダメにしてしまったと、用意してくれた楓に申し訳なく思いながらも、一本一本的から抜き取っていく。


 その途中、矢を握った右腕に、ポタリと水滴のようなものが落ちる感触がした。雨だろうかと右腕を見てみると、腕には赤い液体が垂れていた。


 ゾッとして、沙羅はその場で飛び上がりかけた。思わず頭上を振り仰ぐと、広がった木の枝に何かが引っかかっているのが見えた。そこから赤い液体が、ほたりほたりと落ちている。それは、すぐに沙羅の足元に血だまりを作った。いや、血だまりはすでにできているものだった。茶色い土に染み込んで目立ちにくかったとはいえ、なぜ気がつかなかったのだろう。


 木のそばから離れ、沙羅は枝に引っかかったそれを見上げた。黒いボロ布のようで、何なのかが判別しづらかったが、よく見ると光沢のある黒い翼が見えた。だが、天狗のものにしては小さい。体も人の形をしていない。おそらく烏だ。


 その時、ずるりと樹皮を滑る音がして、枝に引っかかっていた烏の死骸が真っ逆さまに沙羅の目の前に落ちてきた。


 どさりと、重々しい音とともに墜落した死骸は、潰れたような音を立てて、すぐに自身の血の海に沈み始める。よく見ると、その烏は片翼しかなかった。もう片方の翼があった箇所から、血が滲み出ている。


 沙羅は、さっきからこみ上げてくる吐き気を押さえながら、烏の死骸の前にしゃがみ込み、冥福を祈って手を合わせた。何か特別な未練があれば、死した魂は人も獣もあやかしも関係なく死骸の近くに漂っているものだが、もうこの烏らしき魂は感じ取れなかった。未練なく、常世へ旅だったのだろう。それでも、埋葬と供養は必要だ。簡素でもいい。墓を作ってやろう。


「へえ、優しいね」


 いきなり降って湧いた声に、沙羅は驚いて、黙祷のために閉じていた目を開けた。すると、沙羅を上から見下ろしている自分と同年か少し年下に見える少女と目があった。


 驚いて、沙羅は立ち上がって後ずさる。


 目の前の少女は、膝小僧が隠れる程度の短い丈の着物を、腰の位置でキュッと帯で結んだだけという、簡素な出で立ちをしていた。浴衣のような薄い生地の衣は濃藍に染められ、帯の色は明るい黄蘗色。全体的に地味な色合いの衣に似合わず、少女の顔は随分可愛らしい。幼い印象を与える丸みを帯びた顔に、茶に近い大振りの黒目、小ぶりの鼻に桜桃のような色合いの愛らしい唇。肩まで伸びた黒い髪は、緩やかな曲線を描いている。


 少女はニコッと微笑むと、「ねえ」と沙羅に話しかける。


「今、この烏のために祈っていたんだよね」


「え、ええ」


 頷きながら、沙羅は先ほどから少女の背中に翼がないことと、右手に血まみれの抜き身の刀が握られていることに動揺を隠せなかった。


 背に翼がないということは、天狗ではない。あやかしのようにも思えないし、おそらく人間だろう。だが、ここにいる人間は、自分と葵、京介、会ったとことはないが、土御門左京だけのはず。左京は初老に差し掛かった男性だと京介から聞いているし、まずこの少女が左京ではないことは明白だ。続いて、血に濡れた物騒な抜き身の刀。愛らしい外見とその仕草からはあまりにも不釣り合いだ。血まみれの刀を持ったまま、笑顔を浮かべる人間など、どうかしているとしか思えない。


「烏のために祈ってあげるなんて、すごく優しいんだね、君は」


 笑顔を絶やさず、少女は言った。それからふと不思議そうな顔で沙羅を見つめた後、「君、もしかして」と心配そうに口走った。


「ここの天狗に攫われてきたの?」


「いいえ、違うわ」


「嘘をつかなくてもいいんだよ。もう大丈夫だから」


 少女はにっこり笑って、刀を持っていない方の手を沙羅の方へ伸ばした。


「僕が天狗をやっつけてあげるから」


 そこでようやく、沙羅は目の前の少女が、少女ではないことに気がついた。襟元からはだけた胸は平坦で、起伏がない。愛らしい顔立ちにすっかり騙されていた。


「あの、私は攫われたわけでもないし、ここにいる天狗はみんないい人たちばかりよ。だから、あなたは私を助ける必要もないし、天狗をやっつける必要もないの」


 沙羅は少年の目をまっすぐ見て、丁寧に説明した。しかし少年は、納得のいかない顔をしている。


 その時、「沙羅?」という声が聞こえてきて、沙羅は自分の背中越しに振り返った。


「その子、誰?」


 詰め所から帰ってきたのだろう。侵入者への警戒のためか、手に十文字槍を携えた楓は、少年を訝しげに見ている。


「あ、楓ちゃん、この子は」


 楓にどう説明したものかと思いながら沙羅が口を開いた時、少年が抜き身の刀を構え、楓に向かってまっすぐに走っていく時に起こった風が、沙羅の髪を揺らした。


「なっ」


 一瞬の出来事に、沙羅は何もできなかった。だが、楓は反応していた。いきなり自分に斬りかかってきた少年の刀を槍で受け止め、沙羅が事態を理解する頃にはギリギリと力を込めて少年を押し返していた。


「なるほど」


 楓は勝気な表情を浮かべ、乾いた唇をペロリと舌で舐める。


「あんただね。狗賓を殺した侵入者は」


 楓の目は、血まみれの刀に付着した狗賓の毛を瞬時に見抜いていた。


 これ以上楓と競り合っても無駄だと判断したのだろう。少年はトンッと軽やかな動きで刀を引き、後方へ下がった。


「ずいぶんかわいい顔してるね。あんた名前は?」


 楓が尋ねると、少年は「千蔭」と自分の名前を明かした。さっきまで沙羅に向けていた笑顔は消え、眼光は刃のように鋭く変貌している。


「そうか、千蔭か。で、何者なわけ?どうやってここに入ってきたの」


 千蔭は黙したまま、答えようとはしない。じっと楓を見つめ、彼女の隙を窺っているようだ。楓は肩をすくめた。


「答える気ないみたいだね」


 それを隙と見たか、千蔭は再び楓へ襲いかかった。楓は朱色の翼を広げて、彼の太刀筋をひらりとかわす。そのまま千蔭の背後を取ろうとしたが、思いの外千蔭

の反射速度が速く、それには失敗した。失敗したとわかるやいなや、楓はパッと飛

び上がって距離をとる。


「沙羅、捜索隊の詰所に行って、侵入者を発見したこと知らせてきて。それまでにはこの子、どうにかして捕まえとくから」


 槍を構える楓と、刀の切っ先を楓へ向けた千蔭を見比べた沙羅は、自分に今できることはないと判断し、「うん、わかった」と弓を持ったまま、その場から立ち去った。

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