第109話 記憶
愛しい人の血で染まった己の右手を見て、九尾はおかしいくらいに全てを思い出した。
この日が全ての始まりだったのだ。長い長い苦しみの全ての始まり。
松葉は、愛しい人だった。妖である九尾に、唯一優しく接してくれた人間だった。出会いは山の中。山菜を摘みに山に入り、道に迷い途方に暮れていた彼女に声をかけたのがきっかけ。
困った人間を助けようと声をかけると、皆九尾の姿に恐れをなして逃げていくのに、彼女だけは怖がらなかった。それどころか、あのつられてこちらも笑ってしまいそうになる陽気な笑顔を向けて、「ありがとう」と言ってきた。当時は人の姿に変じることもあまりなかったから、大きな化け狐の九尾を見て、一切怖がる素振りも見せずに「ありがとう」とお礼の言葉を述べたのだ。陽だまりのような笑顔があまりにも温かくて、心がほかほかして、いつしか九尾は人の姿に化けて、彼女に会いに行くようになった。
「九尾、好きよ」
彼女が頰に口づけしてきたのはいつだったろう。何度目に会った時だったろう。人に「好き」だなんて言われたことのなかった九尾は驚いて、思わず後ずさった。すると松葉は「案外、
どうせ人と妖だ。同じ生き物ではない。良き友にはなれても、人が妖に恋をすることなどない。だからあの言葉は、九尾を良き友人として「好き」と言ったのだろうと九尾は解釈している。けれど、頰にされた口づけは甘酸っぱくて、いつも冷静なはずの九尾の心に大きな揺さぶりをかけた。よもや自分は、人間の娘に懸想しているのではないかと。
人は妖に恋をしないが、妖は人に恋することが稀にあった。自分よりも短命で、儚くて、すぐに散ってしまう花のような人間をたまらなく愛おしいと思うのだ。その気持ちが恋に結びついていく。九尾も己がそうなったのかと思った。しかし、たとえそうであったとしてもそれは実らぬ思いだった。人間は妖に恋をしない。妖を哀れだと思ったり、愛おしいと思ったりすれど、恋に結びつくことは決してない。だから決して、妖の恋心が成就することはない。そういう因果だった。
「ねえ、九尾に家族はいるの」
ある日、松葉はそんなことを聞いてきたことがあった。
「いない」と九尾は答えた。
母親は自分を産んですぐに死んだ。父に至っては何も知らない。
「そう、私も」
松葉は目を伏せて、悲しそうに言った。いつも見せる元気な姿と大きくかけ離れていて、九尾は動揺した。自分は家族がおらずとも平気だったが、きっと松葉は違う。家族のいない悲しみを埋めてやりたかった。けれど、今までどおり松葉と時折会って話をしてやることくらいしか、九尾にできることはなかった。相手は人間。友人にはなれても、家族になることはできないのだから。
そうして幾度かの季節が巡ったある春の日。松葉が、綺麗な蒲公英が群生している場所があることを九尾に教えてくれた。見たいと言うと、連れて行ってあげると松葉は言った。見たいと言わなければ、こんなことにはならなかった。
頭の中に流れてきた、誰かの悲鳴のような奇妙な音。あれを聞いてからおかしくなったのだ。自分のものではない別の誰かの感情に思考を奪い取られ、破壊衝動に襲われた。そして、目の前にいた彼女の心臓を貫いた。彼女が最初だった。九尾が初めて殺した人間は。
それ以降の記憶は陽炎のように朧げだった。ただひたすら物を、人を破壊し尽くして回った。身体中を憎悪にまみれた感情で蝕まれ、何も壊したくないという自分の本当の思いは、蝗の群れのようにどす黒いものでかき消された。途中から自分がどこの誰かということも忘れ、松葉のことも忘れ、気が狂ったように人を襲い山を焼いた。破壊衝動に身を委ね、どれほど悪逆の限りを尽くそうと、あの日降って湧いた憎悪の念は止まることはなかった。そしてとうとう、都からやってきた陰陽師によって、封印石という石の中に閉じ込められた。それでも尚鎮まらなかった。石の中で何百年ももがいた。のたうち回った。石の中にいては何も破壊できない。衝動がいよいよ大きくなっていく。
ふと、珍しく冷静な思考を取り戻した時、石の中から外の世界を覗いたことがあった。すると、白い装束に緋袴を履いた女が見えた。女は、手に赤い勾玉の連なる首飾りをかけて、九尾に向かい熱心に何かを祈っていた。するとたちまち九尾の身を縛る封印の力が強くなった。それが定期的に、長く長く続いた。しばらくすると、女は別の女に変わった。代替わりしているのだ。やがて九尾は気がついた。あの女たちが、封印を解いて外に出ようとしている自分を邪魔しているのだと。
九尾は待った。封印の力がわずかでも弱まり、御しやすい女が現れる時を。やがて時は来た。九尾の邪魔をする次の女は、小さな女だった。まだほんの子供。母を亡くしたばかりで、心にはぽっかり穴が空いていた。御しやすいと思った。封印に阻まれ難しいが、年月をかければこの娘を操り石から出ることなど造作もないと思った。
そして、小さな娘が年頃の少女になる頃、九尾が長年にわたって執拗に突き立て続けた毒牙は、ようやく少女の体を蝕んだ。彼女はもう祈りを捧げることはできない。これでもう、封印から出るのを邪魔する者はしばらく現れないだろう。あとは、次の女が来るまでに、封印を破ればいいだけ。そうして九尾は、力をなくした少女を操り、封印石を破壊させた。
数百年にわたり石の中に封じられていたためか、すぐに実体を保つことができず、九尾は一旦少女の体へ取り憑いた。実体を保てるようになれば、少女の体は捨てて仕舞えばいい。しばらくの辛抱だ。
けれど、少女の自我は思ったよりも強かった。九尾に意識と身体を乗っ取られているというのに、彼女の意識は太陽のように輝き、九尾のどす黒い精神で穢されることは決してなかった。それどころか、何百年もかき消され、引き裂かれ、表に出ることのなかった九尾の本当の思いに、気持ちに触れてきたのだ。
「大丈夫ですか」
意識の中で語りかけてきたその声は、懐かしい誰かに似ている気がした。彼女にすがりつきたくなった。封印を解くための駒としか思っていなかった少女に。
「君なら、俺を、救える」
本当の自分の思いを伝えられるのは、この少女を置いて他にいない。無様だろうと何だろうと構わない。助けてほしかった。救ってほしかった。多くの人の命を奪った自分が救われてもいいのか、そんな気持ちがよぎらないわけではなかったけれど、目の前で輝く太陽に恋い焦がれ、思わず助けを求める手を伸ばしていた。彼女の手を掴めば、この熱くて暗い場所から出られると思った。
*
「……び、きゅうび、九尾!!」
記憶の波に攫われ、渦中に飲み込まれていた九尾を現実に引き戻したのは、長い苦しみから九尾を救ったあの少女の声だった。
反射的に目を開けると、沙羅が心配そうな顔をしてこちらを覗き込んでいるのが見えた。やはり、この部屋の中に入った途端眠ってしまっていたのだろう。仰向けになっていた九尾は、自然と沙羅を見上げる形となる。
「よかった。目を覚まして」
「……なぜここに」
楓に稽古をつけてもらっていたのではないのか。
「白亜さんに言われたの。あなたが戻ってこられるように、そばにいておあげなさいって。どういう意味なのかはよくわからなかったけど、苦しそうに眠っているあなたを見て、とにかく早く起こさなきゃと思って、呼んだのよ」
白亜のことを、異様に気の利くやつだと思いながら、九尾は沙羅の顔を見上げた。途端に、目元が熱くなってくる。
「え、ちょっと、どうしたの!?」
すると、沙羅が急に取り乱し始めた。九尾は、異変を感じた目に指先をあてがった。すると、目から涙がはらはらと零れ落ちていることに気がついた。己の涙で濡れた指先を、九尾は呆然と見上げた。赤子の頃を除いて、「泣く」という行為を生まれて初めてした気がした。
なぜ泣いているのかと慌てる沙羅を尻目に、九尾は体を起こした。そしてそのまま立ち上がる。
「思い出した」
「え、なにを?」
「俺が狂った最初の日のことを」
九尾は長い睫毛に縁取られた目を、沙羅へ向けた。
「白亜はどこだ」
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