第108話 松葉 二
「松葉」
女の名を呟いて、九尾は暗い部屋で目を覚ました。緩慢な動作で横たえていた体を起こし、手探りで部屋の戸を探り当てて外へ出る。眩い陽の光に当てられ目を眇めていると、次第に視界の焦点が合い始め、景色が像を結ぶ。そこは春の森ではなく、白亜の館の廊下だった。
そのまま九尾は長い息を吐いて、その場に座り込んだ。そうして、初めてこの部屋に入った後、白亜に言われた言葉を思い返した。
——
「どうだった」
「何が」
開いた戸の向こうに、白亜の姿がある。九尾は部屋の中で大の字に寝そべったまま、横目でギロリと白亜を睨みつけた。
「過去と向き合ったかね」
「過去?」
白亜は腕を組み、九尾の顔をじっと見つめていた。見つめていると言っても、視力を失い白濁した目は、どこを見ているのかはよくわからなかったが。
「その調子だと、逃げ帰ってきたんだね」
失望しているわけではなさそうだ。ただ淡々と事実を述べている様子だった。
「逃げてはいけないよ。恐怖を感じたとしても、先へ進みなさい。そうしないと君は強くなれない。全盛期の力には、遠く及ばない」
白亜は微笑む。
「けれど、今日はもうおしまいだ。ゆっくり体を休ませなさい」
——
そう。逃げてはいけないのだ。進まなければならない。松葉と共に、森の小径の先にある蒲公英の野原へ。
九尾は俯いて、自分の右の手のひらを眺めた。山へ入って以来、ずっと人間の姿をしているから、獣のそれではなく、五本の指のついた肌色の手。この手のひらを眺めていると、何かを思い出す気がしたのだ。それは、森の小径を抜けた先で起こる何かに関わることのように思えた。
もうすでに、あの現実のような幻を九尾は何度も何度も体験していた。幾度も松葉に会った。松葉は毎回ほとんど同じことを言って、九尾を連れて蒲公英の野原へ行こうとしていた。けれど、九尾はどうしても行きたくなかった。恐怖が邪魔をして、行けなかったと言う方が正しいかもしれない。小径を抜けることを考えると、体が強張り、心臓が早鐘のように動いて、頭の芯が冷えていくような心地がする。それに邪魔をされるのだ。進まなければならないとわかっていても、足を動かすことができなかった。
「あの先に、一体何があるってんだ」
九尾は脱力し、目を閉じて一人ごちた。そこへ、誰か近づいてくる気配がして、九尾は目を開けてそちらを見た。半ば予想はしていたが、やはり白亜だった。
九尾は眉をひそめる。
「お前、葵たちの面倒を見ているんじゃなかったのか」
「いつもなら、ね。今日から少し方針を変えたから、今私の手は空いている。最近君にはご無沙汰していたから、少し様子を見に来たんだ」
九尾は何も言わず、白亜の顔を見つめた。白亜は九尾のすぐそばまでくると、隣に腰を下ろして言葉を続ける。
「偉いね。放り出さず毎日ここへ来ているだろう」
「……知りたいからだ。あの女が何者なのか。どうして俺はあの女の名前を知っているのか」
「そうかい」
白亜は目を伏せる。
「あまり説明をしなかったが、君がこの部屋で体験するあれは、君の記憶なんだよ。つまり記憶を追体験しているんだ。それも一番強烈で、本人に強い影響を及ぼしている記憶を。ほのかに甘い香りがしなかったかい?あれがそうさせる」
「記憶」
九尾は顔をしかめた。松葉という人間の女と共に蒲公英を見に行く。そんな記憶などどこにもなかった。
「きっと忘れているんだね。そうだろうと思った」
白亜は目を細めた。
「初めて君を見たとき、君本来の力を何かがせき止めているのが私には見えたんだ。だけど、そのせき止めているものが精神的なものだということしかわからなかった」
「精神的?」
九尾は鼻で笑う。
「俺の力が抑えられているのは封印の影響が残っているからだ。何百年も封印されていたせいで、すっかり鈍っているのさ」
「それももちろんあるだろうね。けれど、それだけじゃないことに、君は気づいていない。他の要因がある。きっとその要因を気づかせる鍵となるのが、君が知りたいと言っている女性だと思うよ」
「松葉に聞けばわかるのか」
「さあ、それはわからない。あくまでその女性は君の記憶上の人物だからね」
そこで言葉を一度切り、白亜は腰を浮かせて立ち上がった。
「とにかく、記憶をきちんと追体験することだ。今の所、君は記憶の流れに逆らっているんだろう。何がそうさせているのかはわからないが、そのままでは何も知ることができないし、君が本来の力を出せない要因もわからないままだ。要因さえわかれば、あとは解決方法を探るだけ」
「陰陽の均衡がどうのという話は」
立ち去ろうとする白亜に向けて、九尾は疑問を放つ。白亜は「君が弱くなっている要因を見つけてからだ」と、廊下を歩きながら振り向きもせずに自分の後ろへ答えを放った。
白亜が去ってからも、九尾は廊下に座り続けていた。かすかに、部屋の中から甘ったるい香りが漂ってくる。
九尾はおもむろに立ち上がった。鴨居に手をかけて、暗く澱んだ室内を眺める。そうしていると、自分の過去を静かに見つめているような心地になった。良い心地ではなかった。九尾にとって、過去は苦い記憶でしかない。沙羅が助けてくれるまで、ずっと暗い場所にいた。暗くて熱い場所だった。けれど、いつまでもそれに背くわけにはいかない。かつて自分を苦しめたあれの正体を掴むまでは。
そして今度こそ、松葉と共に行こうと思った。行けるだろうか。浮かんできた弱気な考えを、頭を軽く振って追い出し、九尾は部屋の中へ入って後ろ手で戸を閉めた。もう一度開けば、そこはあの青葉の茂る春の森だ。
耳に小鳥の楽しげな囀りが聞こえてくる。天幕のように頭上を覆う木々の間から太陽の光がこぼれ落ちてきて、ポカポカした陽気が身を包む。そして振り返れば、松葉がいた。相変わらず籠目柄の着物を着て、小脇に山菜の入った籠を抱えている。
「九尾、さあ、行きましょう」
九尾は、「ああ」と頷く。それから、松葉が持っていた山菜の入った籠を持ってやった。
「あら、持ってくれるの」
松葉は目を丸くする。それからクスクスと笑った。嬉しそうだ。
「優しいところもあるのね。じゃあ、行きましょう。蒲公英畑へ」
朗らかに告げて、松葉は歩き出した。九尾もその後へ続く。しばらく歩くと、森の木々が途切れ、隧道の出口のように光が差し込んでいるのが見えてきた。途端に背筋に悪寒が走り、心臓が早鐘のように脈打ち始める。ふと手を見ると、汗でぐっしょりと濡れている。いつものように思わず足を止めてしまった。
「九尾?どうしたの」
尋常ではない様子に気づき、松葉が心配そうに歩み寄ってきた。
「大丈夫だ」
「本当に?汗びっしょりじゃない」
「大丈夫だと言っている」
九尾は松葉を押しのけるようにしてその先へ進んだ。走ってもいないのに息が切れ、ひどい疲労感を感じる。足は重く、まるで沼の中を歩いているようだ。それでも、前へ進むしかなかった。覚えていないが、本来は、松葉と共に蒲公英が一面に広がる景色を見に行ったのだ。それが本来の記憶で、実際に起こった出来事のはずなのだ。記憶の通りに進まなくては、どこへも行けない。何も知ることができない。
気が遠くなるような時間だった。実際はそんなに距離はなかったのだが、九尾はやっとの思いで森の小径を抜けた。隣には松葉がいる。松葉は目を輝かせて、「ほら」と言った。
「きれいでしょう」
九尾も見た。愛らしい陽だまり色をした陽気な蒲公英が、木々の開けた場所一面に咲いていた。ところどころもう白くなっているものもある。風に吹かれて緑の茎を揺らし、白い綿毛が青い空へ飛んでいく。
「ああ、きれいだ」
松葉が不意に飛び出して、白い綿毛をつけている蒲公英の前でしゃがみこんだ。そして、ふう、と息を吹きかける。綿毛は親から離れ、見る間に天空へ放たれた。
「ねえ、九尾もやってごらん」
松葉がこちらに向かって笑いかけてきた。蒲公英のように、陽気な笑顔だった。なんだ、何も怖いことなどないではないかと、見ているこちらも口元をほころばせてしまいそうな。
九尾は松葉のもとへ向かった。彼女と横に並んで、蒲公英を愛でようと。
その時、脳内に雑音が流れ込んできた。そうとしか言えない感覚だった。耳からではなく、頭の中に直接「音」をねじ込まれたような不快感。しかも、形容しがたい妙な音だった。誰かの悲鳴のようにも、怒り狂い言葉を失って叫び続ける声のようにも聞こえる。憎悪に満ちた、聞くに堪えない全身が怖気立つような音。これは誰が出してる音だろう。自分かもしれない。
「ほら。ふうって……」
陽気な声が、不意に途切れた。
見ると、松葉の籠目柄の着物が、胸のあたりで真っ赤な色に染まっていた。いつに間にか彼女の胸を貫いていた九尾の右腕から、赤い雫が零れ落ちる。それはたちまち無垢な黄色い蒲公英に落ちて、花弁を彼女の血の色に染め始めた。
「九尾……ねえ、どうして」
己の胸を刺し貫く九尾の腕へ、松葉は弱弱しく自身の手をかけた。
「ねえ、痛い……よ」
九尾は、松葉の体内から消えていく温もりをじかに感じながら、無言で彼女の体から自分の手を引き抜いた。途端に、それまでとは比にならない量の血が彼女の胸に空いた穴からとめどなく流れ落ちた。松葉は糸の切れた人形のようにうつ伏せになって倒れ、自身の流した血の海に沈む。子犬のような好奇心に満ち溢れた目は光を失い、日焼けした健康そうな肌が、たちまち白くなっていく。
「どう……して」
九尾は何も言わず、虚な目で彼女の血で染まった己の右手を見下ろした。
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