第110話 助言

 九尾の話を聞き終えると、白亜は腕にとまっていた一羽の烏を空へ放った。烏は両翼を広げて一声「カア」と鳴き、夕闇の差し迫った夏の空で黒い弧を描く。


「なぜそんな衝撃的な記憶を、君は忘れていたのかな」


 白亜は今、九尾に背を向けて庭に面した廊下に座っている。よって、九尾には白亜が今どんな表情をしているのかはわからなかった。


「逆に俺が聞きたい。はぐらかすなよ。お前はなんとなくわかっているのだろう」


 そう言い返され、白亜はしばし押し黙った。庭から柔らかな風が吹き込んできて、白亜の前髪を揺らす。


「……これはあくまで私の推測だけれどね」


 白亜は、おもむろに九尾の方へ顔を向けた。


「あまりにも受け入れがたい出来事だったから、君の頭が拒否反応を起こしたんだろう。そして最初からなかったことにしようとして、結果、忘れてしまったんだ。……今は平気なのかい」


 最後の方は、ひどく心配する声音だった。九尾は吐き捨てるように返す。


「平気なわけないだろう」


「けれど、見たところ平静を保っている。あの子がいるからかな」


「……沙羅のことか」


 九尾は目を伏せた。


 白亜の言ったことは当たっていた。本来なら思い出した途端廃人になりかねない記憶だったが、沙羅がそばにいるだけで、不思議と平静を保てた。荒ぶる魂や救われない魂を鎮める力を持つ、彼女独特の雰囲気がそうさせたのだろうか。あるいはーー。


「最初君を見たとき。いや、先に来ていた御山の頭領から名を聞いたときから、私はわかっていたんだ」


 九尾の思考を遮るような形で、白亜は言葉を続けた。


「かつてこの国を荒らし回った九尾の妖狐。それが君だと」


 白亜は、また顔を庭の方へ向ける。


「当時の私はまだ子供で、実際暴れている君を見たわけではないけれど、伝え聞こえてくる噂で君のことはよく知っているつもりだった。見境なく人や妖を襲う気の狂った化け物。これが私の君への印象だった。確か、もう何百年も前に陰陽師に封印されたのだったね。そんな君がどうしてこうしてここにいて、人間と行動を共にしているのか。とても興味深い」


「話すと長くなる」


「いや、別に聞かせろと言っているわけではない」


 あっさりそう言うと、白亜は腰を上げた。


「何にせよ。今の君は昔のような気の狂った危険な化け物ではない。ああなってしまったのは、何か外部からの干渉でもあったのだろう」 


 九尾はその言葉に反応して、自分の正面に座り込んだ白亜に問うた。


「何か知っているのか。俺は、俺をあそこまで狂わせたものがなんだったのか、あの日頭の中に流れ込んできた音がなんだったのかを知りたい」


「……残念ながら、何も知らないよ」


 白亜は首を横に振る。


「私はただ、君があの部屋で見た記憶について話してくれた情報から推測して、ものを喋っているにすぎないからね。それよりも」


 白亜はじっと九尾を見た。九尾そのものというよりかは、その向こう側を見ているようだった。


「相変わらず、本来の力を何かがせき止めているみたいだね」


 不意に、白亜が右手を伸ばし、人差し指を立てて九尾の額をトンと押した。


「君、怖いかね。誰かを殺すのが」


「……」


 白亜の手を振り払いもせずに黙る九尾の顔を、白亜は覗く。


「君は私に話してくれたね。松葉という女性を、心の臓を突いて殺したと。そして彼女に始まり、多くの命を奪ったと。ひょっとすると、それが枷になっているのかもしれない」


 ようやく、白亜は指先を九尾から離した。


「けれどそうだったとして、この枷を外すのは容易ではない。この枷を外し、君が本来有する強い力を呼び戻すということは、過去のしがらみから逃れるということ。奪った命の重みと自分の為した罪を感じずに生きるということだ。……他の命など塵芥に過ぎないという考えの者ならともかく、君にはそれは難しい。君はあまりに、あまりに優しすぎる」


 何も答えることができないまま九尾が黙していると、白亜はわずかに口元を綻ばせながら立ち上がった。


「けれど、その優しさを捨ててはいけない。優しいことは弱さには繋がらないからね。そしてそれを捨てずとも、本来の力を取り戻す道は、きっとあるはずだ」


 白亜は九尾を見下ろす。縁側から差し込む西日が、白亜の輪郭をなぞり輝きを放った。


「精進したまえ」





「精進、精進!」


 心中でそんな言葉を唱えながら、今日も沙羅は的に向かって弓を放っていた。

 陰と陽がどうのというから、何か特別な訓練でもするのかと思ったが、楓に指示されたのは、もっぱらこの弓の稽古である。それでその稽古は順調かというと、全くそうではなかった。次々と手元から放たれる弓は頼りなく、なかなか的の中心に当たらない。鬼の国で龍の宝珠を砕いた時は大いに弓の腕前に自信がついたが、今やもうその自信は粉々に砕けていた。


「なんで……」


 もうすぐ五十本目というところで、沙羅は肩を落とした。


「なんで上手くいかないんだろう。あの時はあんなに上手くいったのに」


「あの時?」


 瓢箪に水を入れに行ってくれていた楓が、いつの間にか戻ってきていた。沙羅が漏らした言葉に首を傾げている。


「え、ああ。あの時って言うのは、鬼の国での戦いのこと」


 答えると、楓は「へえ」と目を輝かせた。


「それ、詳しく聞かせてくれない?」


 熱心にせがまれた沙羅は、龍神の牙に力を与えていた龍の宝珠という丸い玉を、九尾の背に跨り矢で打ち砕いたことを話した。


「ふんふん。状況は分かった。それで、その時はどんな感覚だった?いつもと違ったことはあった?」


「感覚?」


「そう。ふわっとしたことでもいいから。そういうのを思い出す中で、強くなるきっかけが見つかるかもしれないから」


 沙羅は、もうすっかり手に馴染んだ梓の弓を見つめ、当時のことを思い出そうとした。確かあの時、「祈る時と同じ」だと思っていたような気がする。祈る時は、並外れた集中力が必要になる。弓矢を放つのもそれと同義だと。そして、もう一つのことを沙羅は思い出した。


「そういえばね、あの時、この弓から放った矢が白く光ったの。そんなに眩しいものじゃない。けれど、確かに光った。白い光を纏って、龍の宝珠に当たったのよ」


「白い光」


 楓の目が、面白いものを見つけたと言わんばかりにキラリと光った。沙羅はそれには気付かずに、半ば独り言のように話し続ける。


「あの時、魂鎮めの祈りと同じ精度の集中力を保ってた。雑念を払って、戦っているみんなの息遣いや律動を感じることに専念した。そうやって、今ここだ、って思った時に矢を放った」


「最近はそれくらいの集中力は保ててる?」


 楓の質問に、沙羅は首を横に振った。残念ながら、あの戦いの時ほどの集中力は出せていなかった。鬼の国を発った後も、隙を見つけては弓矢の稽古をしていたが、それを含めてもあの時の集中力には遠く及ばない。


 沙羅は肩を落とした。


「特に今日はまるでダメ。いくら集中しようとしても、ついつい心配してしまうわ」


「何々?悩み事?あたしでよければ聞くよ」


「いや、悩み事ってほどでもないから、大丈夫よ」


 楓が差し出してきた水の入った瓢箪を受け取り、沙羅は飲み口に口を当てがう。山を流れる川はひんやりしていて、乾いた喉に新鮮な潤いを与えてくれる。


 実は沙羅の心配というのは、九尾のことだった。昨日の九尾の様子は尋常ではなかった。ひどい悪夢にうなされていたようだったし、最初沙羅の呼びかけにも反応がなくて、このまま目を覚まさなかったらどうしようと思った。結局起きてはくれたが、あの九尾が目に涙を浮かべていた。そのあと、白亜のところへ行って何事か話していたようだが、沙羅には何があったのか何の説明もなかった。少しくらい話してくれてもいいのにというふてくされた気持ちが半分、九尾を心配する気持ちが半分、それで沙羅の心はいっぱいだ。おかげで今日は鍛錬に集中できていない。


「早く強くなりたいのに……。みんなの足手まといには、なりたくないわ」


 ぽつりと呟いて、沙羅は瓢箪をグッと握りしめた。沙羅の焦りと苛立ちが伝わったのだろう。楓は「まあまあ」となだめるように言った。


「誰だって、そんなすぐに強くなれるものじゃない。今強い人だって、毎日の積み重ねがあってこそだよ」


 楓は背中の朱色の翼をふわりと広げる。それはそっと沙羅の体を包み込んだ。


「沙羅は今その積み重ねをしているの。実際ちゃんと積み重なっているんだよ。まだ六日しか経っていないけど、ちゃんと陽の部分も大きくなってきてるって、頭領が言ってた。確実に前に進んでるんだよ」


「弓矢の腕はちっとも上がらないのに?」


 少しふてくされた気持ちで言うと、楓は「そっちじゃないよ」と笑った。


「体力はついてきてるでしょ。初日と比べて弓を打てる数が多くなったし、体の痛みも少なくなってきた。最初に言ったと思うけど、単純に体を鍛えること、つまり、体力をつけることだけでも、小さい方の気質を高めることはできるんだよ。沙羅はもともと体力がある方じゃないから、余計にその効果が高い。そして、ある程度体力がついてきたら、今度は精神的な部分」


 楓は自分の胸に手を置く。


「集中力だね。あと、それ以外の何か。この子達を分析して、鬼の国で発揮した力を毎回引き出せるようになったら、沙羅は格段に強くなるよ」


 勝気な表情を浮かべ、楓は笑った。


 時折彼女は少年のような顔をするが、それが今だった。この顔をするときの楓は、いつも以上に頼もしく見える。


「あたしに任せといて」


 その時、まるで示し合わせたかのように、突風が二人の間を通り抜けた。さっきまでうまく上達しなくてふてくされていた沙羅の気持ちが、綺麗に吹き飛ばされていくような、気持ちのよい豪快な風だった。

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