第105話 土御門左京
「あなたが土御門左京さん、ですか」
左右に背の高い箪笥がぎっしり並んだ薄暗い部屋の中。その奥で背中を丸め、
男からは、「ああ」とも「うう」ともつかない唸り声のような返答が聞こえてきた。京介はそれに構わず、男の背中へ歩み寄って、むき出しの板の上に座る。
「私は桜木京介という者です」
その声に、ピタリと男の作業する手が止まった。ゆっくりと、その顔が京介の方へと向けられる。薄暗い部屋の中の、唯一と言っても良い光源が男のすぐ上にあった。連子窓の隙間からこぼれる光に照らされた、気難しそうな深いシワの刻まれた顔。もう老爺と言っても差し支えなかったが、どこか荒々しい青年を思わせる、精悍な顔立ちをしていた。
男は、額に滲んだ汗を肩にかけた手ぬぐいで拭う。それから、手で体を支え、座ったまま体の向きを変えた。
「白亜から聞かされてはいたが、陰陽師一門の者とは知らなんだ」
地の底から響いてくるような声色で、男は気むずかしげに京介の顔を睨み付けた。それからおもむろに口を開く。
「今の桜木家の当主は、どいつだ」
「桜木長福さまです」
「あの痩せん坊が当主か」
男の喉からガラガラと濁った音がした。どうも笑ったようだ。最初、気難しそうな人だという印象を京介は抱いたのだが、どうもそこまでひどいわけでもないらしい。京介は居住まいを正すと、念を押すように男へ尋ねた。
「やはり、あなたは土御門一門の陰陽師なのですね」
だが、男——土御門左京は首を横に振った。
「違う。今はな」
「昔はそうだったと」
決して目つきが良いとは言えない目を、左京はぐっと細めた。余計に人相が悪くなる。
「遠い遠い昔のことだ。貴様が生まれるよりもずっと前だ。今はただの、薬師だよ」
左京は部屋いっぱいに並ぶ箪笥を仰ぎ見る。おそらく、箪笥の小さな引き出しの一つ一つに薬の原料でも入っているのだろう。
「気になるだろう」
左京は意地の悪い目を京介へ向けた。
「なぜ俺が、妖怪の巣で薬師なんぞをしているのか」
京介は素直に頷く。事実、気になっていたことだ。
「ええ、気になります。正直、あなたの名前を聞いた時は驚きました」
「だろうな」
左京がまた喉をガラガラ鳴らして笑った。だが、自分の身の上話をする気は無いようだった。その証拠に、左京はすぐに別の話題へ移った。
「さて、白亜もなんともまあ面倒なことを俺に押し付けてきたもんだ。こんな小便くせえガキを強くしろだと。貴様も災難だな」
「こうなったからには、ここで強くなって帰るつもりです」
真面目くさった顔で京介が宣言すると、左京は「へっ」と短い笑いを発する。呆れているのか感心しているのか。どちらかといえば呆れているのかもしれない。
「じゃあまず、式神を出してみろ」
不安だったが、一応面倒は見てくれるらしい。京介は左京の言葉に従い、式神である白虎丸を呼び出した。
そうして白虎丸の姿を見せた途端、左京は目を丸くした。
「随分とちっせえな」
京介が肩を落とす。別に自分の式神を小さいと呼ばれて悲しかったのではない。白虎丸が怒り出すことが目に見えてわかったので、それを諌めるのが面倒くさかったからである。
「ああ!?」
案の定、白虎丸は目を剥いて猛抗議を始めた。
「やいやいおっさん。いきなり見て言うことがそれってか!どこぞの天狗人間と
一緒じゃねえか。鼻っ柱に噛みついてやる」
本当に実行しそうだったので、京介は慌てて猫ほどの大きさしかない白虎丸の首根っこを掴んで抱え上げた。
「すみません」
「気も短い口も汚い。主人とはえらい違いだ」
左京は顎に生えた細かな無精髭を撫で、さてどう料理したものか、と言いたげな顔で、京介と白虎丸を交互に見やる。
京介は、左京のその目を見て何をやらされるのかと思わず身震いした。しかし、左京に指示されたことは、予想に反して基礎的な訓練ばかりだった。精神統一に肉体の鍛錬、左京を相手にした素手での体術。最後に、式神や呪符を使った擬似戦闘もやらされた。
薬師としてこの山に来て、どれほどの年月が過ぎたのかはわからないが、彼の陰陽師としての実力は申し分なかった。体術では見事に隙を取られてしまうし、擬似戦闘でも左京は式神も出さずに見事あやかし役として京介を翻弄してみせる。毎日何かしらの鍛錬をしていないと、現役の陰陽師である京介の相手などできないだろう。本人は、「今はただの薬師だ」などとほざいていたが、ただの薬師だなんてとんでもない。戦闘経験も豊富な老獪な戦士だと、京介は肩で息をしながら、冷静に左京を分析する。
彼が属していたという土御門家は、全部で五家ある陰陽師一門の中で、最も古い時代より続いている一門だ。一門の祖は当時の帝の弟とされ、由緒正しき血統を誇る一門として入門者の間でも人気が高い。しかも、陰陽師一門五家を代表する
陰陽頭や紫紺のような天才陰陽師を輩出する一門には、入門者が殺到する慣例に習い、現在土御門一門に集中して入門者が押し寄せ、京介の桜木家を始めとするその他四家は閑古鳥が泣いている始末。土御門一門に入れたというだけで、大した実力もないくせに他の一門の陰陽師を馬鹿にして威張り散らす者も多いと聞く。もっとも、これは京介が都にいた頃の話なので、今はどうなっているのかは知らないが。だが、大して状況は変わってないのだろう。
京介は、白虎丸を形代に戻すと、左京へ稽古をつけてくれたことに対する礼を述べて頭を下げた。左京は「いやに礼儀正しいやつだな」と、やりにくそうに顔をしかめる。
京介は頭を上げ、改めて左京の姿を見る。大抵、どこかの一門に属する者は、着物か持ち物に一門の家紋が入った物を使用するが、左京の着ている作務衣に似た白い無地の衣に家紋はない。綺麗さっぱり土御門一門を止め、未練もないのは間違いないのだろう。だが、これ以上左京を観察しようにも、わかることはそれだけだ。なぜ一門をやめ、人間を嫌うはずの白亜が統括するこの山で薬師をしているのかは本人に聞かぬ限り知りようはない。だが、どうせ聞いても真面目に答えてくれないだろうと、京介は目の前の修行に集中することにする。
「あの、どうでしたか。どこか改善すべき点や未熟な点があれば、遠慮なく指摘してもらいたいです」
「式神の扱い方が下手だ」
考える素振りも京介の問いから一拍置くこともせず、左京は単刀直入に述べた。あまりに直球でぶっきらぼうな言い方に、京介は思わず閉口する。
左京は襟元を正しながら、自分の住処へ戻ろうと京介に背を向けた。京介は弾かれるようにしてそのあとを追う。
「あの、もっと詳しく」
背中に向かって問いを投げると、意外にもちゃんと返事が返ってくる。
「貴様、式神を乗り物くらいにしか使ってないじゃねえか。そりゃ、式神に乗りゃあ速度も段違いで、足場や移動は式神に任せて、術を使うのにも集中できる。いいこと尽くしだ。だが、式神の活用法ってのは何もそれだけじゃねえだろ。おい、お前の式神、何だっけ、白虎丸か。あいつ主人を背中に乗せて走る以外になんかできねえのか。攻撃するとかそういうの」
京介は少し黙ってから、「噛んだり、引っ搔いたりはできます。あとは索敵とか」と苦し紛れに答えた。
「噛んだり引っ搔いたり……それじゃあただの獣にもできらあ。索敵だって訓練すりゃ犬でもできるだろ。そうじゃなくて、式神としての能力を俺は聞いてるんだよ」
もちろん、何を聞かれているのかは京介にもわかっていた。だが、ない能力は答えられない。京介は正直に答えた。
「白虎丸には、そういう能力はないんです。式神には、炎を吐いたり、爆発させたりといったような、何らかの特殊な能力が宿るはずですが、白虎丸には何も……」
通常、式神は特異な能力を持つ。能力の内容は、式神を出す術者の気質や能力
によってそれぞれ異なる。紫紺の黒鳥のように炎を吐いたり、菖蒲の
ずっと京介に背中を向けて歩いていた左京が、不意に足を止めて京介に向き直った。京介も慌てて足を止める。
「陰陽の調整どころじゃねえな」
人相の悪い顔に舌打ちまじりに言われては、さすがに怖い。
「お前、それ誰かに相談しなかったのか。師匠とか同期によ」
「相談はしました。しかし、どうにもならなかったので、諦めてました」
「……いや、逆か……?」
尋ねておいて京介の答えをろくすっぽ聞いてないのか、ブツブツ独り言を漏らす左京。不安げに左京の顔を見上げていると、「おい」と不意に睨まれた。目つきが悪いので、そう見えただけかもしれないが。
「とにかく、陰陽の偏りをもっとなくせ。話はそれからだ」
たったそれだけを言い捨てると、左京は背を向けてとっとと先へ歩き出してしまった。
京介は立ち止まったまま、その無骨な背中を無言で見送る。
己の体内の陰陽を均等にする。単純な話だ。均衡を保つことで、肉体や精神は安定し、より強い力を引き出すことができる。葵たちは、楓から聞かされるまでこの原理を知らなかったようだが、陰陽師ならば皆知っていること。人の身であやかしと渡り合うには、強い肉体と精神が必要。それを手に入れる一番の近道が、陰陽の均衡を保つことなのだから。
京介は顔を上げ、樹幹の間から垣間見える空を仰ぐ。
陰陽の均衡を保つこと自体はそれなりに難しいが、特別な才を持つような選ばれた人でなければできないほど難しいものではない。完璧でなくとも、肉体の鍛錬や精神統一である程度偏りの度合いを小さくすることはできる。そこからさらに偏りを無くすのが難しいのだが、これも己にあった鍛錬の仕方を見つければ早い。
そう、本来ならそうなのだ。京介だって、物心つく頃から陰陽の均衡を保つ訓練は欠かさず行ってきた。しかし、生まれつきの体質のせいか、その努力は未だ実を結んでいない。
顔には出さなかったが、楓に強くなる秘訣でこれを出された時は辟易した。それができれば京介は苦労していないのだ。
京介はため息を吐いた。
このまま左京の後を追い、なぜか陰陽の割合に変化が生じない体質なのだと伝えるべきだろうか。そんな特異体質な人間、そうそういるはずもないので、左京は驚くだろう。匙を投げられなければいいのだが。
これから先の修行のことを考え、京介は暗澹たる気持ちになった。
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