第104話 松葉
白亜に言われた通りの道順で廊下の角を幾度も曲がり、九尾はようやく指示された場所へたどり着いた。その場所は、何もない部屋だった。むき出しの板間の上に調度品は一切なく、壁には掛け軸の一つもかけられていない。さらに、部屋の位置する場所が極度に日当たりが悪いのだろうか。まだ日の沈む刻限ではないというのに、部屋の隅の方に、濁ったような暗がりが濃霧のように漂っている。
九尾は部屋の戸の前でその暗がりを見つめた後、吐息を漏らして部屋へ入った。入るとき、妙に甘い香りが鼻先をかすめた気がした。
部屋と廊下の境界線である敷居をまたぐと、九尾の背後の戸が一人でにすうっと閉まる。おかげで、部屋の中は完全な闇に閉ざされてしまった。夜目の効く九尾は、それでもまだ部屋の形を薄ぼんやりとは捉えることができた。人間ならば何も見えなかっただろう。
白亜からは、ただこの部屋へ行けと言われただけで、具体的に何をしろとまでは指示されてはいなかった。誰か代わりの者が来るのかと思ってしばし暗闇の中で待ってみるが、誰かが来る気配はない。
九尾は次第に白亜にからかわれたような気分になってきて、いらだたしげに暗闇を睨めつけた。
そもそも、九尾はここで修行などするつもりはなかった。偉そうな白天狗の尻に敷かれ、修行に勤しむ仲間たちの高みの見物をしながら、ゆっくりするつもりだったのに。それなのに、まさか修行の頭数に自分も数えられているとは思いもしなかった。どうせ沙羅にやかましく言われるだろうからとおとなしく白亜に従っていたが、挙句ほとんど何の説明もなしにこんな部屋に放り込まれては、そろそろ我慢できそうにない。
九尾はいらだたしげに体を揺らすと、閉まった戸の方へ身を翻した。これ以上茶番に付き合ってなどいられない。
手をかけると、戸はあっさり開いた。開かなければ炎で粉砕しようと思っていたのだが、どうも屋敷の一部を焦がす手間は省けたようだ。しかし、次の瞬間視界に飛び込んできた光景を見て、九尾は驚愕して目を見開いた。
部屋の外は、屋敷の廊下ではなかった。青葉の茂る森だった。それもどこか見覚えのあるような。
九尾は眉をひそめて立ち尽くした。
太陽は中天にかかり、まばゆい光が木々の間から木漏れ日となって降り注ぐ。どこかで小鳥がさえずったかと思えば、透き通った鐘の音のような響きを持つ鶯が鳴いた。九尾はますます眉をひそめた。おかしい。今は春ではないのに、なぜ
九尾はそばにある木の幹に触れた。ゴツゴツした樹皮が指の肌に直に伝わってくる。撫でるとめくれた樹皮の先端が指に刺さり、プツリと赤い血が出た。
「何をしているの、九尾」
唐突に、若い女の声が聞こえた。九尾は赤い血から目をそらす。こんな風に話しかけてくるのは沙羅しかいない。だが、声をかけてきたのは沙羅ではなかった。
「お前は」
九尾は呆けたような顔で、いつの間にか自分のそばにいた女の顔を見た。
「松葉」
「そうよ、松葉よ。急にどうしたの」
籠目柄の着物を着た松葉という女は、不思議そうに九尾の顔を見上げた。
女は、小脇に山菜の入ったカゴを抱えていた。日焼けした健康そうな肌に、子犬のような好奇心にあふれた大きな瞳。この国の人間としてはさして珍しくもない黒髪を肩に流し、長い前髪は上に上げて櫛で留めている。
「松葉だ」
熱に浮かされたように、九尾はその名前を繰り返した。
「ええ、だから何よ。私をからかってるの」
松葉はむう、と頬を膨らませる。
「そんなことはない」
九尾がしかめっ面で答えた。松葉はあっさり引き下がる。
「そ、ならいいわ。じゃあ行きましょう」
一体どこへ行くというのか。松葉は先に立って歩き出した。九尾もそのあとに続くしかなかった。
前を歩く松葉を眺めながら、九尾はこの状況を整理しようと試みていた。自分はさっき、白亜に案内された部屋に入った。そして戸が閉まった。しばらく経って、戸を開けて外に出た。するとそこは白亜の屋敷ではなく、どこか見覚えのある森の中だった。そこでこの女に会った。いささか気になることもあったが、自分が今いるこの場所が、幻術によって見せられた実体のない世界なのだろうという予想はつく。しかし、この女が何者なのか、なぜ自分が彼女の名や姿を知っているのかだけは分からなかった。
松葉は、九尾より前を歩きながらも、ちゃんとついてきているのかを確認するように、時折九尾の方へ振り返っては前を向いていた。そしてそのうちの何回かは、九尾に向かって笑いかけてきた。九尾はどう反応したら良いのか分からなかった。こちらも微笑みを返してやればいいのか。そこで九尾はぎこちなく笑みを浮かべようとしたが、柄にもないことをやろうとしている自分に気づいて、元の仏頂面に戻る。すると白亜はぷうと不満げに頬を膨らませる。どうも彼女は九尾に笑ってほしいようだった。
そんな不毛なやり取りを続けていると、不意に松葉が嬉しそうな顔をして、「ほら」と前を指差した。彼女の指が指し示す道の行き先は、森の木々が途切れているのか、隧道の出口のように光が差し込んできている。
「あそこを出れば、一面に
「蒲公英……」
春になると黄色い花を咲かせ、やがては白い綿毛となって飛んでゆく。ありふれた花だ。そんな花の名前を一言呟いた途端、九尾は背筋に何か寒いものが走るのを感じた。柄にもなく動揺し、心臓の鼓動が早くなる。その先に行ってはならないと、本能のようなものが九尾の体の歩みを阻む。
「九尾?」
突然立ち止まった九尾に気がついて、松葉は怪訝な顔をしてこちらを振り返った。
「どうしたの?お腹でも壊した?」
「松葉、その先へ行くな」
激しく体を動かした後のように胸が苦しかった。額から流れ出た冷や汗が頬を伝う。
「え?」
「戻ろう」
「蒲公英を見るんじゃないの」
「今日は、見ない。明日また来よう」
九尾は、籠を抱えていない方の松葉の腕を引いた。こうしなければならなかったのだ。どうしても。
「蒲公英がたくさん咲いているところを見たいと言ったのはあなたよ」
松葉は不満げに口を尖らせたが、九尾に腕を引かれるがままだった。
「気が変わった」
「気まぐれね」
「そう、いつもの気まぐれ」
九尾は松葉の腕を引いたまま、元来た道を戻り出した。最初は歩いていたが、途中からは何かから逃げる様に走り出した。ひどく気分が悪かった。吐き気が込み上げてくる。それでも九尾は止まらなかった。松葉の手を決して離さず、森の道を駆け続けた。
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