第88話 動揺

 いつの間にか紫紺の肩に止まっていた黒鳥が、不吉な声で鳴いた。紫紺は黒鳥を落ち着かせるように、彼女の羽を優しく撫でてやる。


「怖い思いをさせてしまいましたね。お前を焼き殺そうとしたあやかしは、私がちゃんと退治しておきましょう」


 そう言うと、紫紺は右腕を青い炎を背負う九尾に向かって掲げた。伸ばした手の指を何本か折りたたみ、複雑な形の印を結ぶ。すると紫紺の周りに、大きな円を描くようにして、呪詛の文字で構成された黒い帯のようなものが浮かびあがった。そして、紫紺が小さく呪文を唱えた。次の瞬間、緩やかに円を描いていた呪詛の帯が何本かに分かれ、矢のような速さで九尾目がけて突っ込んでくる。


 九尾はその全てを見切り、軽やかに避けて見せた。しかし、呪詛の帯は執拗に九尾を串刺しにしようと追いかけてくる。


 紫紺が呪詛の帯を操っているのだろう。そう踏んだ九尾は、一直線に紫紺の元へ突っ走った。その九尾を絡め取ろうと、無数の呪詛の帯がムチのようにしなりながら九尾の頭上を囲う。しかし、九尾は上へ跳び上がりながら、得意の炎で難なく呪詛の帯を焼き破った。その勢いのまま、紫紺の至近距離へ飛び込む。先の鋭く尖った爪を、紫紺の白い首元へ向かって突き立てる。


 しかし、ガッと硬いものにぶつかる音がして、九尾の爪はそれに突き刺さった。


「前にもこんなことが、あった気がします」


 涼しい顔をして紫紺が告げた。紫紺の右手に握られた鉄扇が、主人の首を守るようにして立ちはだかり、そこに九尾の爪が深々と突き刺さっている。


「しかし、鉄扇に傷をつけられたのは初めてです」


 九尾は鉄扇から爪を引き抜こうと手を動かしたが、深く刺さっているのか、なかなか抜けそうもない。そんな九尾をあざ笑うかのように、紫紺はぞっとするほど冷たい目をして九尾を見ていた。


「昔、国中の民を震撼させた九尾の妖狐がこの程度とは、少々拍子抜けですね。あやかしと言えど、老いには勝てませんか。それとも……」


 九尾が自身の体を見下ろしてみると、先ほど焼き払ったはずの呪詛の帯が、くるくると回りながら体に巻き付いていた。おかげで手どころか体の自由も効かない。


「長い間封印されていて、体がなまってます?」


 紫紺の瞳がひたと九尾の赤い目を覗き込んだ。どちらかがあともう少し前に出れば、顔が触れそうなほどの至近距離だ。


 九尾は冷静にも、こちらからも紫紺の目を覗き返した。紫紺の瞳は色が薄く、灰色がかった色をしている。その瞳の奥にけぶる光は捉えどころがない。だが九尾は、その光の奥にあるものを見定めようとした。彼の心を。人間ならば、いや、知性ある生き物ならば誰しもが抱えている弱い心の部分を。それから、どこか満足したような表情を九尾は浮かべた。


「土御門紫紺。人の目を覗くなら、お前も覗かれる覚悟はあるのだろうな」


「急に何を言っているのです?」


 紫紺が眉をひそめた。九尾は言葉を続ける。


「俺は元々人の心に干渉する力を持っていてな。まあ、そのおかげもあって封印から出てこられたのだが……」


「私の心に干渉したのですか」


 九尾の体に巻きつく呪詛の帯の力が少し弱まった。あまり顔に出てはいないが、明らかに紫紺は動揺しているようだ。もう一息だ。九尾はフンと鼻を鳴らす。


「さてね。干渉までは行っていないと思うが」


「どういう意味です」


「なあ」


 九尾はずいと身を乗り出した。額がぶつかりそうになり、紫紺は思わず顔を仰け反らせる。


「なんです」


「近くでよく見てわかった。やはりお前からは長い年月を感じる。人が生きえないような、長い年月を。だが、お前は確かに人間だ。どう見てもそうだ」


「何を言いたいのですか」


「お前、元は人間じゃないんだろう」


「……」


 紫紺は端正な顔を歪め、九尾を睨みつける。それと比例するように、呪詛の帯の締め付けが今まで以上にグッと弱まった。その隙を逃さず、九尾は勢いよく鉄扇から自分の爪を引き抜いて、ついでに紫紺の首元に蹴りを食らわし後ろへ飛び退った。

 紫紺が態勢を崩した隙を見て、九尾は自分と紫紺の間に炎の壁を作る。そして紫紺が反撃に出るより先に、九尾は出口へ向かって走り去った。

  

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