第89話 颶風

「俺だって、あんまり手荒なことしたくないのよ?でも、その様子じゃあまだあいつとの話は終わってないようだし……。第一、俺には曲者をここに通しちゃった責もあるわけだから、せめてここで良いところ見せとかないと」


 懐から札を一枚取り出した無月は、無造作にその札を宙へ放った。札はひらひら所在無げに舞った後、一人でにくるりと丸まり、姿を小さな生き物のものへと変える。兎ほどの大きさのそれは、葵にも見覚えのある姿をしていた。狐色の体に長い耳と尾、大きな赤い目、ふさふさしたたてがみ。竹林で葵の腹に一発重いのをくらわせてきたやつだ。


「変な式神というのはあれ?」


 沙羅が葵に小さく尋ねてきた。葵は油断なくその生き物を見据えたまま答える。


「ああ、そうだ。動きがすばしっこくて、強烈な体当たりをかましてくる」


「名をグフウっていうのよね。颶風は四方から吹いてくる強い風のこと。名前と関係した能力なのかしら」


「さあ、そこまではわからないけど——」


「何喋ってるんだい?油断してたらやられちゃうぜ」


 葵の声を遮るようにして無月が言った。その言葉が合図だったかのように、無月の式神・グフウがさっと身を翻し、それこそ風のような速さで葵と沙羅目がけて突っ込んできた。


「危ないっ」


 葵はとっさに沙羅の体を真横へ突き飛ばし、自身も真横へ転がり込んだ。さっきまで葵と沙羅の立っていた場所にグフウが突っ込む。グフウは前足で地面を掴み速度を緩めて方向転換すると、沙羅と離れた葵に向かって飛びかかる。


 二度も同じ手はくらわないつもりだ。葵はグフウの速度と距離を見極め、突っ込んできたグフウの体を、錫杖を盾にして受け止めた。グフウは「ギャッ」と短い悲鳴のような声をあげて空に吹っ飛ばされる。


 それを見ていた無月が、「グフウ、風に成れ」と言葉を唱えた。すると、高く空へ上がったグフウが空中で身をよじり、空へかき消えた。


 葵と沙羅がグフウの消えた空を呆然と見上げている間にも、無月はまた言葉を唱える。


「颶風、吹け」


 その途端、葵と沙羅の周囲をドッと突風が吹き荒れた。左右で二本にくくった沙羅の髪が翻り、周囲の草花はちぎれんばかりにその身を震わせる。


 葵はあまりの風の強さに目もろくに開けられなかった。そんな中で、無月の声が風の音に紛れて聞こえてくる。


「颶風、食え」


 次の瞬間、葵の全身に鋭い痛みが走った。鋭利な刃物で皮膚を傷つけられたような痛み。吹き荒れる風の中で無理やり目をこじ開けて自分の腕を見ると、ぱっくり傷口が開いている。そこからは赤い血が溢れ出していた。


「葵!」


 葵が怪我をしたのを見て、沙羅が風の中で足を踏ん張りながらこちらに駆け寄ってこようとしている。見たところ、沙羅の体からはどこからも血が流れていない。そのことに安堵しながらも、葵は沙羅に向かって風の音にかき消されないように声を張り上げて叫ぶ。


「俺は大丈夫だ。傷も多分浅い」


「でも——」


 そう言ったところで、沙羅は膝をついた。風が強すぎてろくに前へ進めないのだ。

 その時、また無月の声が聞こえてきた。


「傷が浅いって?そりゃそうだ。死なないように俺が調節してやってるんだから」


「どういう意味だ」


 葵は無月の方を見た。葵と沙羅からさほど離れていない距離に、無月はいた。だが彼の周りは風が吹いていない。その証拠に、彼の髪も衣服も揺れていなかった。


 無月は葵の問いに対して短く笑った。


「どうしてって、ちょっと考えてみたらわかるだろう。俺の目的はあんたらを殺すことじゃない。ここから逃さないことだ。けど、歯向かわれるのは面倒だ。だからこうやって風の中に閉じ込めて、逃げようなんて気が起こらないように、ちょっとした脅しをかけてるのさ」


「……」


 無月の言葉に、葵は血の滲んだ腕や足(多分背中や肩なんかにも傷はついているだろうが)を見下す。

 無月はさらに言葉を続けた。


「その気になれば、俺はグフウを使ってあんたらの全身を切り刻んで殺すことだってできる。まあ、もちろんそんなことしないけどな。しかも人間相手に。ああ、一応行っておくが、最初の攻撃は颶風が勝手にやったことだ。あいつすげえ気性が荒いから、俺が指示出す前に飛び出しちゃう子なんだよ。……まあとにかく、紫紺が来るまでそこでおとなしく待っていることだ。……そういえばあいつ遅いなあ」


 言いながら、無月は葵と沙羅のでてきた出入り口の方を見やっている。背中を葵に向けているので無防備この上ないが、風のせいで思うように身動きが取れないし、下手に動けばさっきのように切りつけられるかもしれない。


 葵は、飄々とした態度の男の背中を成すすべなく見つめた。この男に、自分は手も足も出なかった。実力差は思った以上にあった。無月は多分紫紺の部下と言ったところか。自分は紫紺どころかこいつにさえも敵わないのだ。


「葵」


 いつの間にか、沙羅が随分近くまで近づいてきていた。無月に聞かせないためか、沙羅は極力小さな声で葵に語りかける。


「大丈夫。きっと逃げられるわ。他力本願で申し訳ないけれど、きっと九尾が来てくれるもの」


「……でも、あいつは俺たちを逃がすために残ったんだろう。今頃紫紺と戦っているんじゃないのか。紫紺がみすみす九尾を逃がすとは思えない」


「九尾は強いわ」


 沙羅が迷いのない口調で告げた。瞳は真っ直ぐに葵の顔に注がれている。


「紫紺がどれだけ強いのかわからないけれど、九尾は紫紺に負けたりしない。倒すことはできないかもしれないけれど、負けはしないわ。だから必ず来る」


「……」


 無言で、葵はでてきた出入り口の方へ顔を向けた。情けないが、今は九尾を信じることしかできない。いや、沙羅が来るというのだ。きっと、いや必ず来るはずだ。


 すると葵と沙羅の思いが通じたのか、襖の取れた出入り口から誰かが走り出てきた。髪の長い人物だ。それを見て、無月が「おっ」と声を上げる。


「遅いぜ紫紺。何やって……って、誰だお前さん」


 でてきた人物を見て、無月は目をパチパチさせる。


「お前こそ誰だ」


 横柄な口調で無月に答えたのは、葵と沙羅の予想通り、人の姿に化けた九尾だった。


「九尾!」

「九尾」


 葵と沙羅はほぼ同時に叫んでいた。

 九尾は二人を見て眉をひそめる。


「なんでお前らの周りだけそんな強い風が吹いてるんだ」


 それから九尾は無月をちらりと見た。


「こいつの仕業か」


 ただならぬ気配を感じたのか、無月はヘラヘラした表情を消して、腰の得物に手をかける。だが九尾はそれを一瞥しただけだった。


「急いでいるんでな。お前の相手をしている暇はない」


 言うや否や、九尾はその身を巨大な化け狐へと変化させる。


「な、さっきの狐か」


 目を丸くする無月を無視して、九尾は葵と沙羅を取り囲む風の結界に頭から突っ込んでいった。それにより風の流れが乱れて、風と化していた式神のグフウがたまらず元の姿に戻る。その隙をついて、葵は沙羅の手を掴んで九尾の背へ飛び乗った。


「いけねえ。グフウ、風に成れ。そんで追いかけろ」


 無月がそう叫んだ時にはもう、九尾の四肢は地面を離れていた。背中に二人を乗せて、空へ飛び上がる。その後ろを一陣の風と化したグフウが追う。


 沙羅は後ろを振り返ると、ずっと背中に背負っていた矢筒から弓と矢を取り出した。鬼の国で手に入れた梓の弓だ。沙羅は弦に矢をつがえて、しつこく追ってくるグフウらしき風へ狙いをつけた。鬼の国で初めて弓を実践で使ってからも毎日練習しているだけあって、さすがに弓を打つ姿勢もサマになっている。


「沙羅」


「任せて」


 強く言い放つと、沙羅は弦を引き絞って矢を放った。沙羅の手から放たれた矢は、白い輝きを放ちながら流星の如き速さでグフウを撃ち抜く。空中に雲散霧消したグフウを尻目にして、矢はそのまままっすぐ飛んでいき、無月の顔をかすめて屋敷の壁に突き刺さった。

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