第87話 九尾対紫紺


 葵と沙羅を先に逃がした九尾は、目の前の男を注意深く観察していた。

 薄暗い部屋の中でもはっきりとわかる銀色の髪。口元に微笑が浮かんではいるものの、ひどく冷たい雰囲気を纏った女のように美しい顔。年齢はよくわからないが、おそらくまだ二十代半ばと言ったところか。しかし、男からは随分と老成した雰囲気を感じる。それも何十年というものではない。百年、いやそれ以上の年月を積み重ねた者だけが持ちうる、独特の気配が目の前のこの男にはあった。


「お前、土御門紫紺だな」


 観察して知り得た情報を総合し、導き出した答えを九尾は告げた。男は予想通り、「ええ、そうですよ」と答える。


 やはりそうか、と九尾は目を細めた。この男こそ、葵と京介が追っている人物。さらに言えば、あやかしをこの世から滅ぼし真に穢れなき世を創るなどとほざいている阿呆だ。


 その阿呆は、九尾の方を見ながら勝手に喋り出した。


「あなたは賢明ですね。もし、あなたが先に逃がした少年と少女を背中に乗せて逃げていたら、私は背後から攻撃を打って逃亡を阻んだでしょう。それを防ぎ、彼らを逃がすために、あなたはここに残った。そうでしょう?」


 違いますか、と紫紺は九尾に問う。九尾はそれに対してフンと鼻を鳴らした。


「俺はそんなお人好しではない」


「素直になれない方なのですね」


 紫紺がニコリと微笑む。その笑みがいかにも嘘くさくて、ああこいつは反吐が出るほど嫌いな部類の人間だと九尾は悟る。


「俺は素直な方さ。多分お前よりはな」


「おや、そうですか?私は自分のこと、結構素直な人間だと思っているのですが」


「ふん、くだらん話はそこまでにしろ」


 九尾は前足を一歩前へ踏み出した。


「お前の狙いなどとうに知れてる」


「……」


 紫紺の微笑みが、すっと薄まった。直後、九尾の足元に五芒星を描いた模様が突如出現した。その模様が効力を発するより一瞬早く、九尾は五芒星の範囲から跳躍して脱出する。跳躍しながら、九尾は空中で人の姿へ変化して床に降り立った。


「これをかわしますか」


 言って、紫紺は九尾に向かって戯れに数枚の呪符を放つ。人の姿になった九尾は右腕を前に突き出すと、手のひらから人の顔くらいの大きさの青白い炎を前にはなった。空中で紫紺の呪符と九尾の炎がぶつかり合い、激しい火花を散らして互いが消滅する。


「やはり強いですね。さすがはかつて国中で大暴れした、九尾の妖狐と言ったところでしょうか」


 紫紺の言葉に、九尾は苦々しげに顔を歪めた。


「知ってるのか」


「当然です。陰陽師ならば皆知っていることですよ。今から約五百年前、九つの尾を持つ狐の物の怪が、人々を恐怖のどん底に突き落としていた時代のことくらい」


 紫紺は、ふふっと笑う。


「封印が解かれたのち、どこかへ姿をくらましたことは知っていましたが……まさかこんなところで出会うとは。一体何者です?あなたのようなおぞましい獣を乗りこなすあの少女は」


「おぞましいとは口が悪い」


「おや、それは失礼。しかし、実際そうではありませんか?人の命をなんとも思わないような、不浄な獣。それがあなた。そのような存在がいるから、この世はいつまで経っても満たされない」


「だからこの世を洗い清める?一片の穢れなき世へ?」


 紫紺の言葉を引き継ぐようにして、九尾は言った。紫紺は「その通りです」と頷く。


「あなたをここで滅すれば、一歩私の理想の世へ近づく。そのために、死んでくれますね?」


「お前みたいな奴は反吐がでるよ」


 紫紺の呪符と九尾の炎が放たれるのはほぼ同時だった。強烈な力がぶつかり合い、轟音を轟かせる。部屋の床や天井はその衝撃にたまらず悲鳴をあげる。

 紫紺の放った呪符の一枚が、蠢いて黒い鳥の姿へ変じた。暗闇に溶け込みそうな漆黒の翼を広げて、黒鳥は九尾へ襲いかかる。その黒鳥へ向かって、九尾は容赦なく業火を浴びせた。青白い炎が狂ったように猛り、一羽の鳥を焼き殺そうとする。それを見た紫紺は、無数の呪符を床に展開させて呪を唱えた。


『急急如律令 水剋火』


 一本の水柱が黒鳥の体を包む炎を突き上げ消し去る。続いて、二本、三本と水柱が勢い良く出現し、次第に九尾の周囲を囲ってゆく。やがて、九尾は完全に行き場をなくした。今や九尾からは紫紺の姿を見ることもできない。何本もの水柱が立ちはだかり、壁となって九尾の前後左右を塞いでいるのだ。

 さらに、袋の鼠となった九尾に追い打ちをかけるかのようにして、足元に五芒星とはまた別の、複雑な文様が浮かび上がる。それはたちまち殺人的な光を発し始めた。


 本能的に危険を感じ取った九尾は、足元の文様に向かって自身の力で作り出した青白い炎を叩きつけた。炎は文様を食い尽くすようにして燃え広がった。その勢いのまま、周囲を取り囲む水柱にも食らいつく。飢えた獣のように水柱を飲み込みながら天に向かって燃え上がる巨大な炎は、主人の九尾の体を結界のように覆って衝撃から身を守る。やがて、炎の力に水柱が耐えきれなくなったか、白い水蒸気を発しながら、水柱の力は目に見えて弱まり始めた。


「火が水に打ち勝つとは、陰陽師われわれの理を捻じ曲げますか……」


「陰陽師の理など知らぬよ」


 水柱を切り裂く青い炎の間から、九尾がゆっくりと進み出てくる。九尾が片手を前に出してぎゅっと拳を作ると、背後の炎がさらに勢いを増した。今や水柱の代わりに天井まで鎌首をもたげるのは、禍々しい青白い炎であり、炎は蛇の舌先のようにチロチロと不気味に揺らめきながら天井を舐める。炎の明かりで青白く照らし出された九尾の顔に浮かぶ瞳は、寒々しい青と対比するかのように、赤く赤く、血のような光彩を放っていた。

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