第86話 逃走
「っ……なんだ……!?」
葵は腰を浮かせて、轟音の聞こえてきた背後を見遣った。
紫紺は少し驚いたような、それでいてどこか楽しそうな表情で「ほう」と目を細める。
「まさか、私の結界を打ち破ってくる者があろうとは」
轟音が未だ轟く中、複数のかすかな悲鳴と怒号が上がるのが聞こえてくる。この屋敷に連れてこられてから、紫紺と無月以外に人の姿を見なかったが、見なかっただけで他にも人はいたらしい。さっきの轟音といい、彼らが悲鳴を上げていることといい、予期せぬ闖入者でも殴り込んできたのだろう。だが、何にしても葵からしてみれば有難い。結界が破壊されたのはさっきの紫紺のつぶやきからも確かだろうし、自分の屋敷に闖入者とあっては紫紺も黙っていられないはずだ。この混乱に乗じで逃げることも可能だろう。
葵はちらりと紫紺の方を伺った。多少は慌てているだろうと思いきや、紫紺は相変わらず脇息に腕を乗せて、ゆったりとくつろいでいる風情だ。立ち上がる気配すらない。その表情も、この不測の事態を楽しんでいる雰囲気がある。
紫紺は、この部屋の出入り口のある廊下の向こうに目をやりながら言った。
「これはこれは、この部屋にお出ましのようですね。あの無月さんでも止められなかったらしい」
葵の耳に、獣の息遣いと風の唸るような音が聞こえてきた。それはまっすぐに葵と紫紺のいるこの部屋に向かってきている。そして、それはやがてすぐに葵の目の前に姿を現した。可憐な少女の声と共に。
「葵!」
目の間に、黄金の毛で覆われた大きな肉食獣の前足が踏み下ろされた。そして、灯籠でかすかに照らされた薄暗い空間から、大きな獣の頭部が現れる。耳元まで裂けよとばかりに開かれた大きな口、血のような赤い大きな眼、三角の大きな耳。そしてその耳の間から、黒髪の少女が顔を覗かせている。
葵は驚いて叫んだ。
「沙羅、なんでここに」
「なんでって、あなたを助けに来たに決まってるじゃない」
沙羅の下で、九尾が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「おい、沙羅だけじゃない。俺もだ」
「九尾に葵の匂いを追ってもらったの。そしたらこのお屋敷に辿りついたのよ。やっぱりここで正解だったのね」
嬉しそうにそう言うと、沙羅は葵の後ろに見知らぬ人物がいることに気がついて、ハッと身を固くした。九尾も、その人物——紫紺を警戒した目つきで油断なく観察している。
紫紺はそんな彼女らを見てようやく立ち上がった。さすがは稀代の天才陰陽師と言われるだけはあるか、大きな狐の物の怪を見ても全く動じた素振りがない。むしろ余裕とも言える表情で、沙羅と九尾を見つめ返す。
「私の結界を破ったのは、あなたですね。狐さん」
紫紺に話しかけられ、九尾はピクリと片耳を動かした。紫紺に返事はよこさず、代わりに身を低くしていつでも飛びかかれるような態勢をとる。紫紺はそれには構わず喋り続けた。
「狐の物の怪とだけ聞いていましたが、これはまた興味深い。まさか、伝説の九尾の妖狐とは。それに、あなたの背の上に乗っている女性……。気位の高い九尾の妖狐の背の上へ乗ることを許されるとは……」
今や紫紺の興味は、葵から完全に外れて九尾と沙羅へ向いたようだった。恐れをなすどころか、紫紺は一歩一歩九尾の方へ近づいていく。
沙羅がまた、「葵」と呼びかけた。沙羅は、九尾の背に跨ったまま葵の方へ手を伸ばしている。乗れということなのだろう。葵は頷いて、沙羅の元へ駆け寄る。しかし、葵が沙羅の手を掴んで九尾の背によじ登るより先に、九尾が低く唸った。
「葵、お前は沙羅と先に行け」
「先に?お前も一緒に逃げないのか」
「俺はこいつを食い止めてから逃げる」
そう言う九尾は、油断なく紫紺を見据えている。いつもどこか余裕そうな雰囲気を纏っている九尾だが、今の九尾はなんというか、全身の毛を逆立てて随分とピリピリした様子だった。それだけ紫紺を危険な相手だと認識している証拠だろう。
葵は九尾の並々ならぬ気配に押され、「わかった」と頷いた。それから沙羅へ行こうと目配せする。沙羅もこくりと頷くと、ひらりと九尾の背から飛び降りた。そして、九尾へそっと告げる。
「まずいと思ったら、なりふり構わず逃げるのよ」
「ぬかせ、俺がこんな奴に遅れをとるか」
「その割には随分警戒してるみたい」
沙羅の言葉に、九尾は明らかにムッとした様子だったが、九尾が何か言う前に、葵と沙羅はもう出口へ向かって駆け出していた。
灯籠の明かりでぼんやり照らされた廊下を、葵と沙羅は二人で走って行く。やがて、出口が見えてきた。九尾が無理矢理突破したのだろう。外れて床に倒れた襖には、痛々しい4本の爪痕が残されている。その襖を乗り越えて二人が明るい外に出ると、困り顔で頭を掻く無月に出くわした。
葵はとっさに沙羅を背中の後ろにかばった。葵に気づいた無月は「おや」とした顔をする。
葵の肩越しに、「この人、この出入り口を見張ってた人だわ。突っ込んできた九尾に驚いて飛びのいちゃったけど」と沙羅が耳打ちした。葵は頷きながら「ああ、知ってる奴だ」と返す。
「名前は無月。陰陽師だ。変な式神を連れているから気をつけろ」
「おいおい、人の式神を変な奴呼ばわりとは酷いねえ」
少し声が大きかったのか、葵が沙羅へ向けて言った言葉に無月が反応した。
「それに、俺の式神にはグフウっていうちゃんとした名前があるんだぜ」
「グフウ?」
「そう、グフウ。要は
言いながら、無月は懐に手を入れて一枚の札を取り出した。目に警戒の色を滲ませた葵を見て、無月は小粋に片目を閉じた。
「俺だって、あんまり手荒なことしたくないのよ?でも、その様子じゃあまだあいつとの話は終わってないようだし……。第一、俺には曲者をここに通しちゃった責もあるわけだから、せめてここで良いところ見せとかないと」
どうやら無月は逃げる邪魔をするつもりのようだ。葵も臨戦態勢に入る。が、得物がない。どうしたものかと葵が思っていると、後ろから「はい」と沙羅が何かを手渡してきた。見てみれば葵の錫杖だった。
「ごめん、先に渡してたら良かったね」
沙羅がちょっぴり申し訳なさそうに言う。おそらくずっと手に持っていたのだろうが、さっきまで薄暗いところにいて、さらに逃げるのに必死だったので全く気づかなかった。葵は「ありがとう」と言って、沙羅から慣れ親しんだ錫杖を受け取る。そしてすぐに無月へ向き直った。
この男には、一度痛い目に合わされている。きっちりそのお返しをしなければ。そう思いながら、葵は錫杖を構えた。
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