第84話 憎しみ
無月は、葵を外の庭に面したある部屋の前まで案内した。その部屋の前で立ち止まると、「ほら、入りな」と葵に指図する。
無月の後ろにいた葵は、内心緊張していることを無月に悟られないように気をつけながら、部屋の戸の前に立った。
葵が入れられていた部屋の戸は簡素な木板でできていたが、案内された部屋の戸は、家紋のような印の入った大きな襖だった。この襖の奥で葵を待つ人物がいる。なんとなくこの襖を開けることに躊躇した葵に気がついたのか、無月は薄く笑った。
「心配しなくとも、鬼が出てきて食われたりはしねえよ。それは保証する」
「保証されなくたって入るさ」
そう言って、葵は一息に襖を開け放った。だが、人のいる気配はまるでしなかった。部屋の中は薄暗く、随分と奥行きのある構造になっている。いや、そもそもこの構造は部屋というよりかは廊下と言った方がいいかもしれない。
「おい、いないじゃないか」
葵が尋ねると、無月は大げさに肩をすくめた。
「たぶん奥の方で引きこもってるんだろう。あいつ暗いところ好きだし。ま、いいから入りな。奥に向かって歩いていけば、そのうちあいつに会えるだろう」
無月は馴れ馴れしく葵の背中を軽く押した。癪に障ったが、それにつられて葵は部屋の中へ足を一歩踏み入れた。その後ろで動こうとしない無月に疑問を感じて、葵は振り返った。
「お前は一緒に来ないのか」
「え、俺?俺はいかないよ。この部屋陰気臭いし変なもんがいっぱい置いてあるから俺嫌いだもん。それに、あいつからはお前と一対一で話したいから一人で来させろと言われてるし」
「なんだよそれ……」
てっきりこの男も付いてくると思っていた葵は、少し拍子抜けした。まあだからと言って困ることはないのだが。
「なんだなんだ。一人じゃ怖いか」
「うるさい」
そう言って、葵はうしろ手で襖をピシャリと閉じた。無月が思いの外鬱陶しかった。しかし、襖を閉じてしまうと中は真っ暗になってしまった。これでは何も見えない。ところがそう思った矢先、突然左右の壁に灯りが灯った。さっき入った時は気がつかなかったが、左右の壁には小さな灯籠が奥に向かっていくつも吊るされている。どういう原理で勝手に灯りがともったのかは知らないが、視界が明るくなったのは嬉しかった。
葵がしばらく奥へ向かって歩いていくと、そう長く歩かないうちにこの空間の最奥部らしき場所にたどり着いた。
暗い部屋の四方に灯籠が吊るされ、煌々とした灯りに照らされた床や棚には夥しい量の書物や巻物、よくわからない調度品が雑多に置かれている。そして、ちょうど部屋の上座に当たる場所には、なぜか小さな池があった。ただ池と言っても、葵のよく知るような自然的な池ではなく、形を真四角に整えられた人工的な水たまりといった方がいいかもしれない。水面は波一つ立てることなく、鏡のように澄んでいる。その水たまりの向こうの壁には、葵にとって悪い意味で見覚えのある紋章が描かれていた。五芒星である。
部屋の中を観察するように、ゆっくりと歩いていた葵の足が止まる。目は五芒星の紋章に釘付けになる。この印を見るのはこれで二度目。いや、京介の札に書かれたものも入れたら三度目か。脳裏に、御山の上空を不吉に覆った五芒星の陣が浮かび上がる。あの出来事を思い出すたび、葵の大切なものを一変させた恐ろしい光景が葵の胸中に暗い影と苦痛を落とす。
その時、葵の右側の壁から戸が開く音がして、誰かが現れた。そこに戸があったことに気づいていなかった葵は、驚いて身を固くした。灯籠の光源はあるものの、部屋全体は薄暗く、闇に溶け込むような濃茶の色をした戸の存在に気がつかなかった。そして葵は、部屋から出てきた人物の姿を見て目を見開いた。
「お前は……」
たった一言、かろうじてその言葉だけが口からこぼれ出た。
怪しく煌めく長い銀色の髪。黒い狩衣。美しいけれど、氷のような冷たさを纏った顔。
椿丸を殺し、御山を壊滅させた男。土御門紫紺が、そこにいた。
*
「おや、初めまして。ですかね」
土御門紫紺が、葵に向かって声をかけてきた。その声は柔らかで、敵意は感じられない。
用心して、葵が黙したまま睨みつけていると、紫紺は水たまりの前に置かれた
「……どうしました?遠慮しなくとも良いのですよ。あなたも適当に座って、くつろいでください」
くつろげなどと、そんなことができるわけないだろう。
葵は紫紺の言葉を無視して、立ったまま鋭い口調で問うた。
「お前か、あの無月とかいう奴に俺を攫ってくるように命じたのは。何が狙いだ。何が目的だ」
すると紫紺は何がおかしいのか、ふっと小さく笑い声を漏らした。
「まあまあ、そう急がずに。あなたがそう殺気立っていては、私があなたをここへ呼んだ理由もゆっくり話せないではないですか。とにかく、座ってください。話はそれからです」
「……」
正直、憎い相手とゆったりおしゃべりと洒落込む気など葵にはなかった。そんな気持ちにどうしてなれようか。目の前のこの男こそ、葵が殺したい相手なのだ。御山を蹂躙し、葵の大切な人たちを奪った憎い仇なのだ。今すぐにでも、殺してやりたい。余裕な笑みを浮かべて、葵の気も知らないで、自分が殺したあやかしたちの気も知らないで、ゆったりと座っているこの男を、この手で、自分の手で、殺したい。
今ではもう、紫紺を刺し違えてでも殺そうという気持ちは失せていると思っていた。殺したいほど憎い相手ではあれど、激情に任せて動いても勝てない相手だということを自分はわかっていると思っていた。だが実際に本人を目の前にすると、すべて“思っていたつもり”だということがわかった。どうしてあの身を焼き焦がされるような悲しみと憎しみを忘れることができるだろう。どうして仇を前にして何もしないでいられるだろう。できるわけがなかった。
「お前は、お前は……」
夜空に浮かんだ燦然と輝く五芒星。それが放った光線が地面を舐めあげて、御山は火の海になった。仲間が死んだ。仲間が傷ついた。椿丸が死んだ。こいつのせいで。こいつのせいで。こいつさえいなければ。こいつさえいなければ、あんな悲劇は起きなかった。椿丸も、誰も死ななかった。
「お前のせいでっっ」
叫んで、紫紺へ飛びかかろうと踏み出した右足の先に、何かが当たった。それはチリンと澄んだ音を立てて、葵の前方に転がる。猫の首輪に付いているような、小さな鈴だった。この部屋に置かれた雑多な物の一つだろう。たまたま床に転がっていたのを、葵のつま先が蹴飛ばしたのだ。
さっきまでの激情が、その澄んだ鈴の音で清められでもしたのか、嘘のように冷めたようだった。葵は転がった鈴を目で追って、しばし呆然とした。
『あなたは今、憎しみという感情に取り憑かれている。憎しみを抱くなとは言わない。だけど、それにとらわれてはだめ。私は知っている。憎しみにとらわれて自らを破滅に追い込んだ人を』
先ほどの鈴の鳴るような、美しく澄んだ女性の声が葵の脳裏に蘇った。この声、この言葉は、あの森神の守る森で出会った桜の君のものだ。記憶を移す泉の前で、涙を流す葵に彼女がそっとかけた言葉だった。
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