第83話 攫われた先

 目を開けると、見知らぬ部屋が目に入った。

 ピカピカに磨き上げられた床、広々とした部屋の奥に設置された祭壇のようなもの。それ以外は何もない。およそ生活感のない部屋だった。

 葵はゆっくりと体を起こした。幸い、体は自由だった。どこも縄で縛られてはいない。しかし、後頭部がじんわりと痛む。おそらく、男に殴られた時の衝撃がまだ残っているのだろう。だが今はそんなことはどうでもよかった。少々痛みがあれど、体が自由ならばそれでいい。体が自由ならば、ここから逃げることも不可能ではない。

 葵は床に膝をつき、外の様子に聞き耳を立てた。

 おそらく、自分は気絶させられた後、男にここへ連れ去られたのだろう。あの男が何者で、自分が今いるここはどこなのかはまるでわからないが、建物から脱出できればなんとかなるはずだ。

 外に人の気配が感じられなかったため、葵は用心しながらも、外に通じる戸の方へ近づいていった。指を引っかける窪みに手を入れ、力を込めてみる。すると、拍子抜けするほどあっさりと戸は開いた。

 いくらなんでも簡単すぎる。攫ってきた人物の体も拘束せず、戸も外側から錠をかけないとは、逃げろと言っているようなものだ。どう考えても怪しい。だが、戸が開いてしまったものは仕方がない。何か罠があるのかもしれないが、かといってここで座って動かないというわけにもいかない。葵は、なるようになれと部屋の外へ出た。

 部屋はどうやら庭に面していたようだった。この建物を囲む高い塀が見え、その手前に鯉の泳ぐ池と前栽がある。葵が今立っている廊下は回廊になっていて、太い柱で地面よりも高い位置に上げられている。

 葵は欄干に手をかけて下を覗き込んだ。地面には欄干の影がかかっていて、青々とした草が生えている。これくらいの高さなら、飛び降りても問題はない。そう見当をつけて、葵はひらりと欄干を乗り越えて地面へ飛び降りる。それから周囲を警戒しつつ、植わった木の幹によじ登って、塀の上へ飛び移った。塀の外側は、もう敷地の外だ。

 不気味なほど順調に事が運んだことに違和感を感じながらも、葵は塀から外側へ飛び降りる。しかし、葵の体は何もないはずの空中で、硬い何かにぶつかった。その衝撃で、葵はさっき登った木の枝をへし折りながら屋敷の敷地内に墜落する。

「いった……!?」

 とっさに受け身の姿勢を取ろうとしたものの背中をもろに地面にぶつけてしまい、葵は背中を両手で押さえて地面を転げ回った。何が起こったのかさっぱりわからない。ぶつかるようなものなど塀の外にはなかったのに。

 その時、葵の耳に聞き覚えのある豪快な笑い声が聞こえてきた。痛みを忘れ、葵はキッと顔を上げて笑い声の主を探す。そんな葵の眼前に、派手な色合いの着物を着た男が現れた。竹林で会ったあの男だ。無害そうな顔で近づいてきて、葵が曲芸じみた男の技に注目している間に式神を出して襲わせた、あの男。油断した自分と男への怒りに、カッと頭に血がのぼる。

「てめえ!」

 次の瞬間、葵は我を忘れて男に掴みかかっていた。だが、痛みのせいで動きが鈍っていたのか、難なく男に躱されてしまう。

「どわっと」

 躱されたせいで態勢を崩し、葵は無様に地面に転げこむ。男は葵を見て、おどけた調子で「大丈夫かぁ?」と尋ねてきた。

 葵はその問いを無視して、体を起こしながら男を睨み付けた。

「お前、いったい何者だ」

「おお、お目目が怖いぜ。少年」

「とっと質問に答えろ」

「そう急ぐなよ」

 そう言うと、まだ地面に膝をついたままの葵に視線を合わせるようにして、男はゆったりした動きで地面にしゃがみ込んだ。

「俺は、無月むげつっていう名のしがない陰陽師よ」

「無月……。ここはどこで、何の目的で俺を攫った」

 重ねて問うと、男—無月は意外ともったいぶらずに答えてくれた。

「ここはさる陰陽師のお屋敷。ここの主人がお前に会いたがっている。だから攫ってきた」

「その主人というのは誰だ」

「知りたいなら、俺の後をついてきな」

 そう言うと、無月は膝を伸ばして立ち上がった。

「ああ、さっきみたいに逃げようとするのはよしとけ。どうせ無駄だからな。さっき身をもって体験したろう」

 無月に言われ、葵は塀の方へ視線を投げた。それから無月を横目で見据える。

「さっきのはなんだったんだ」

 無様に塀から落ちたところをこの男に見られた挙句笑われたのは癪だったが、先ほどの奇妙な現象は聞かずにはいられなかった。

 無月は葵の問いに肩をすくめた。

「結界だよ。この屋敷の周囲には結界が張られてある。理由は、お前の脱走防止兼仲間の救出防止だ。だから、逃げようとしても無理だぜ。もちろん助けを望むのもだ」

「……」

 無月の口ぶりからして、攫われたのは自分だけで、沙羅や九尾、京介はここにはいないようだと葵は推測した。それから、他の皆が無事の可能性が高いことに安堵しつつも、今自分はどうするべきかと思案を巡らす。今、この無月とかいう男についていって自分に会いたいという人物に会うか、逃げるか。選ぶならどちらかだろう。だが、無月の目の前から逃げることができたとしても、この屋敷を囲む塀より外には結界に阻まれて逃げられない。結局は逃げられないのと同じだ。ここは一か八か、無月の言う通りにしたほうがいいかもしれない。葵に会いたがっているという人物も気になる。嫌な予感しかしないが。

 葵は軽く息を吸い込むと、立ち上がって無月を見据えた。

「わかった。案内しろよ。俺に会いたがってるっていうそいつのところに」

 



 

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