第82話 皇女 二
「それは誰です」
皇女は少し驚いた様子で、御簾の向こうで身じろぎした。
京介は答える。
「あやかしです」
「あやかし……」
皇女は京介の発した言葉を繰り返しつぶやいた。京介は「そうです」と頷く。
「皇女様の命によって、彼を探り始めてからしばらく経ちました。彼が都を離れると同時に、私も都を離れて彼の後を追って旅に出ました。その旅の途中、様々な出会いがありました。先ほど皇女さまの言っておられた、仲間以外にも。そのほとんどはあやかしです。特に、鬼の国の頭領である鬼姫。彼女は、鬼の国を救った私たちに恩義を感じ、尽力を申し出てくれました。鬼の国といえば、屈強な鬼の一族が大勢おります。彼らの協力を仰げれば、紫紺を止めることも不可能ではないはず」
「……京介」
「はい」
皇女に向かってあやかしに頼れとは、出過ぎたことを言ってしまったかもしれない。京介はすぐにこうべを垂れた。
しかし、いつまで経っても叱責の言葉は投げかけられない。代わりに京介の耳に届くのは、衣擦れの音だった。かと思うと、目の前に誰かが立った気配がして、京介は思わず顔を上げてしまった。
顔を上げると、誰あろう皇女の目と直接に目があった。今まで御簾に遮られてはっきりとは見えなかった皇女の顔が、その表情がくっきりと見て取れる。まだ幼さを残した年頃の少女らしい整った顔。美しい黒い瞳。烏の濡れ羽色をした艶やかな黒髪。
大きくなってから、間に何も挟まずに皇女の顔をここまでじっと見たのは始めてだった。数ヶ月前、当主について御所へ来た時に皇女と再会した時も間に何も挟んではいなかったが、貴人の手前、京介は皇女の顔をろくに見ることもできないまま頭を下げた。それでも、彼女が美しく成長したことはわかっていたが。
京介は高鳴る心臓を押さえ込むようにして、顔を下に向けた。だが、皇女はそれを許さない。京介の目の前に座り込むと、「なぜ私の方を見ないの」と尋ねる。今までの改まった口調は抜けていて、子どもの頃、京介や飛鳥に接していた頃の口調に戻っている。
「人払いもしているし、ここには誰もいないわ。私はもう御簾ごしの会話に飽きたの。昔のように、直に顔を向き合わせて私は話したい」
京介は別に慣習にがんじがらめにされているような頭の固い男ではない。皇女にそう言われ、ためらいつつもゆっくりと顔を上げた。
「……皇女様」
「その口調も良しましょう。馬鹿らしい。子どもの頃は何のしがらみもなく、お互い対等に遊び転げていたのに、お互いが何者か知って、大きくなって再会したら、身分に縛られなくてはならないなんて。再会した時、あなたが敬語で話しかけるものだから、仕方がないと思って我慢していたけれど、私はもう嫌になりました」
拗ねたように言った皇女は、子どもの頃、何者かも知らないで一緒に泥んこになって遊び回っていた女の子とちっとも変わっていなかった。何だか笑いたくなるのをこらえながら、京介は「しかし、いくら人払いをしていると言っても、どこで誰が見ているかわかりません」と告げる。
しかし、皇女はそんなことはもはや気にしていないようだった。
「あくまで敬語を崩さないつもりなのね。まあいいわ。とにかく、話を戻しましょう。あやかしに協力を仰ぐという話、なかなかに良いと思います。飛鳥には引き続き紫紺を見張ってもらうとして、京介、あなたには、今あやかしたちの情勢がどうなっているのかを調べてきてほしいわ。紫紺を倒すという話になったら、私の名を出してもいい。私は私で独自に紫紺を見ておくわ。先日、満月の夜に少し話をしたの。鎌をかけたら、やっぱり彼はこの世を真に清浄なものにしたいみたいね」
「皇女さま、あまり怪しまれるようなことは……」
「大丈夫。それに私よりもあなたが気をつけるべきよ。彼の式神に襲われたのでしょう。ここに長居するのも危ないはず。危険を冒してわざわざ私に話しにきてくれたのは嬉しいけれど、あなたは紫紺からしばらく遠ざかるべきよ」
一気にまくし立てると、皇女は言うことは言ったとばかりに立ち上がった。
その時、御簾の奥にある戸の方から女官の声が聞こえてきた。
「皇女さま。そろそろ管弦のお稽古にございます」
「わかりました。すぐに行きます」
皇女は戸の外にいる女官を思ってか、京介に対してもすぐに口調を正す。
「話はここまでです。下がりなさい」
京介は再び平伏した。皇女が御簾の向こうにある出入り口から出て行くのを待ってから、顔を上げる。
部屋を辞した京介は、廊下を歩きながら再会したばかりの時の皇女の様子を思い出していた。
あの時、皇女は京介の姿を見ると、すぐに誰か気づいて駆け寄ってきた。子供の時と変わらない明るい笑顔で、「京介」と呼んだ。しかし、京介はすぐにひざまづいて彼女に平伏した。彼女は帝の妹、自分は陰陽寮の下っ端の役人でしかない。身分の差は歴然。何も知らずに遊んでいた子供の頃とはわけが違うのだ。しかし、ひざまづいた京介を見た皇女は、京介の態度にひどく傷ついた様子だった。駆け寄ってきた時の明るさは消え失せ、次に京介に投げかけられた言葉は、皇女としての改まった口調だった。
あれから何度か、紫紺の報告を兼ねて皇女とは会っている。だが、今日のようなことは初めてだった。彼女は子供の頃の親しかった関係を忘れ、あくまで皇女と臣下の関係に徹することに不意に耐えられなくなったのだろうか。
京介の脳裏に、先ほどの皇女の声と表情が蘇る。あのような態度をされては、困るのだ。
あの日、宮城で偶然再会したあの日。成長した皇女の姿を見て、子供の頃彼女に寄せていた好意的な感情が何者であるのか知ったのだ。自分は彼女に懸想している。それをはっきり感じ取ったのだ。だがそれは許されぬこと。だから心の奥にしまっていたのに、あのように親しげな態度を取られては心が揺らいでしまう。だが幸い、しばらくは皇女と顔を合わせることはないだろう。
京介は、まだ通常より早く鼓動を打つ心臓を落ち着かせながら、仲間の待つ屋敷へと急いだ。
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