第79話 竹林

 翌朝。葵が目を覚ますと、美味しそうな香りが鼻をくすぐるのを感じた。考えてみれば、昨日の昼から何も食べていない。昨日の夜は空腹よりも長い旅路での疲れが勝っていたので、夕食も食べていなかった。

 布団をはねのけて葵は体を起こす。あたりを見渡すと、京介と九尾はまだ布団の中だった。ということは、この美味しそうな香りは別室で寝ているはずの沙羅の仕業だろうか。

 部屋を出て、香りの漂ってくる方向へふらふら近づいていくと、案の定沙羅の姿を見つけた。

 沙羅は、その部屋の中央にある囲炉裏に鍋をかけて、中身をぐるぐるとかき混ぜているところだった。囲炉裏のそばには赤いお椀が四つと、箸が並べられている。

 沙羅は、葵の気配に気がついて顔を上げると微笑んだ。

「あら、おはよう」

 葵も「おはよう」と言ってから、近づいていって鍋の中身を覗き込んだ。香りで予想はついていたが、やはり鍋の中身は美味しそうな味噌汁だった。グツグツと煮立っていて、立ち上る湯気に含まれた香りが寝起きの頭を起こしてくれる。

「土間の方に食材が置かれていたから、使わせてもらったの」 

 沙羅が匙でお椀に味噌汁を注ぎながら言った。

「ひょっとして、飛鳥さんが用意してくれていたのかしら」

「ああ、かもしれないな」

 言いながら囲炉裏のそばに座った葵の手に、沙羅が「はい」と味噌汁の入ったお椀を差し出してきた。葵はありがたく頂戴して、具材とともに味噌汁を喉へ流し込む。

「あ、うまい」

 本当に美味しかったので、思わずそう言うと、沙羅が隣で嬉しそうに笑った。

「よかった」

「沙羅は料理が上手なんだな」

「そうかしら。あんまり言われたことなかったんだけど……」

 沙羅は自分の分もお椀によそいながら顔をしかめた。

「そもそも私、味噌汁しか作れないのよ。それ以外はてんでダメなの。お魚は焦がすし、お米もうまく炊けないし……。唯一人並みに作れるのが味噌汁なの。まあ、何にも作れないのよりかはマシよね」

 そう言って、沙羅は味噌汁を品良くすすった。

 するとそこへ、美味しい香りにつられたのか、京介と九尾が連れ立って起きてきた。

 皆で囲炉裏を囲みながらの朝餉が始まる。最初は皆空腹のあまり無言で食べていたが、だんだんと腹もふくれ体も温まってくると、それとなしに会話も生まれてくる。

 鍋に入った味噌汁が底をついてきた頃、京介が箸を置いた。それから皆を見渡して言う。

「僕はこれから、御所の方へ行ってくるよ」

「昨日話してた皇女様のところか?」

 葵が尋ねると、京介は「そう」と頷いた。

「たぶん帰りはお昼過ぎくらいになるかな」

「私たちは、その間どうしてようか?」

 沙羅が空になった腕を片付けながら言った。それからふと手を止める。

「あまり出歩かない方がいいかしら」

「そうだね。今は紫紺も都にいることだし、もし鬼の国での事が伝わっていたら、僕たちを探しているかもしれない。できればこの屋敷から動かないでいてほしい」

「わかったわ」

 沙羅は心得たと言わんばかりに大きく頷いた。

 葵としては、せっかく都に来たのだからいろいろと見て回ってみたかったのだが、そういう理由ならば仕方がない。おとなしくここでじっと待つとしよう。

 それから、皆で手分けして朝餉の支度に使ったお椀や鍋を片付けた。それが済むと、京介はいつも来ていた紺染の旅装束ではなく、もっと立派なよそ行きの衣服に着替え、葵たちの見送りに手を振り返しながら、御所へと出かけて行った。



 京介を見送ってから、葵は手近にあった棒切れを拾って、屋敷の裏庭へ向かった。どうせ京介が戻ってくるまでやることもないし、庭で棒術の稽古でもしようと思ったのだ。

 だが、庭とは言ったものの、実際葵たちが宿としている屋敷の裏の敷地は、青々とした竹が群生する竹林となっていた。やはりここもろくに手入れされていないようで、あちこちに雑草が茂っている。それでも竹の美しい緑は朝日に照らされて鮮やかに映えていた。

 竹林に足を踏み入れて十歩も進まないうちに、葵は竹が開けた場所に出た。稽古をするには申し分のない広さで、かつ人気もないのでここなら稽古に集中できそうだ。

 葵は開けた空間の中央に立つと、軽やかな手つきで無造作に棒切れを振るい始めた。一見何も考えずに振るっているように見えて、葵の目の前には仮想の敵がいる。その敵の動きに合わせて、どこをどう突き崩せば相手が倒れるのかを考えながら棒を振るう。

 御山にいた頃は、こうして一人で棒術の稽古をすることもあったが、時折五色や他の友人に手合わせをしてもらっていたものだ。だが、圧倒的に五色との手合わせがほとんどだったためか、一人稽古をするときに葵が頭に思い描く仮想の敵は、いつも五色だった。何度も手合わせをしてきたから、棒を振るうときの五色の癖も拍子もすんなりと思い描くことができる。

 不意に、会いたいなという気持ちが、葵の心に押し寄せてきた。五色や、頭領や、平六……御山のみんなに。

 それに五色には、何も言わずに出てきてしまった。五色はもし葵が仇を討ちに行くつもりなら、自分もついていくと言っていた。それなのに、葵は何も言わずに頭領からの頼みを引き受けてすぐ、御山を下りたのだった。

きっと五色は後から聞かされただろうが、ひどく怒ったに違いない。あいつには申し訳ないことをしたとは思う。だが、言えば意地でもついてきただろう。あの時、怪我を負った五色を連れて行くわけには、どうしてもいかなかった。もし御山に帰って五色と会ったとして、自分は何と言われるだろうか。五色は怒るとすぐ手を出す時があるから、一発ぶん殴られるかもしれない。だがそれでもいい。それでもいいから、久しぶりに会いたかった。

 葵は、らしくないなと自分の心に湧き起こった望郷の念に少し戸惑った。今までは仇を討つことや戦いに必死で、こんな思いに駆られたことはなかった。今になって望郷の念が生じたのは、束の間とは言え長い旅が終わり、あの鬼の国の激闘から解放されて、この裏寂れた屋敷で日常に触れたからなのかもしれない。温かい布団で寝たこと、皆で朝餉を食べたこと、出かける京介を見送ったこと。どれも御山にいた頃の日常風景と重なっていた。みんなで一つの部屋で寝て、朝起きて、作ってくれたほかほかの朝餉を食べて、所用で出かける天狗をいってらっしゃいと見送って。そして自分は、朝練のため近くの竹薮へ出かけていく。

 葵は、棒を振る手を止めて目を閉じた。視覚が遮断されると、周囲の環境が奏でる音が耳により一層響いてくる。どこかで鳴いている小鳥の声、風に揺られる竹の葉のさざめき。ここは都だというのに、町外れの寂れたこの屋敷の竹林は、葵の大好きな御山の空気とどこか似ていた。

 その時、葵の耳にパキリと、足で小枝を踏み割る音が届いた。

 ハッと目を開けて、葵は音のした方を向いた。沙羅と九尾には屋敷の裏の方で稽古をしていると言っておいたから、二人のうちどちらかが様子を見にやってきたのだろうか。

 しかし、足音と共に葵の来たのと同じ方向から現れたのは、沙羅でも九尾でもなかった。見知らぬ男だった。

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