第73話 月夜 二
寝所に戻った皇女を見届けた紫紺が、しばらくその場でとどまっていると、渡殿の面した庭から、ガサゴソと茂みをかきわける無粋な音が聞こえてきた。
さっきから庭に何者かが潜んでいる気配を感じ取っていた紫紺は、特に驚いた様子も見せずに音のした方へ目を向ける。そして、ぬっと茂みから出てきた怪しい男に声をかけた。
「やっぱりあなたでしたか。
無月と呼ばれた男は、ニシシと笑いながら、癖っ毛な髪を無造作に結わえた頭をポリポリと掻いた。
「いやあ、あれが皇女様。美人だという噂はかねがね聞いていたが、ありゃただの美人じゃねえや。天女だねえ」
男の髪は月明かりの元でもそれとよくわかる赤毛で、服は派手な柄の着物を着崩してある。どう見ても御所に似つかわしくない男だが、これで彼も都の陰陽師だと言うのだから驚きである。
「無月さん、はぐらかさないでください。私に用があって来たのでしょう」
紫紺に言われて、無月は少しばかり顔をしかめた。
「ああ、まあ、ちょっと伝えといた方が良いかな〜ってことがあってよ。んでお前の屋敷に行ったら、今晩は御所の方へお出かけだって聞いてな」
「それで御所に来たのですね。しかし、なぜそんなところに隠れていたのです」
「そりゃあおめえ、こっそり忍び込んだからに決まってるだろ」
まったく悪びれることなく言った無月に、紫紺はため息をついた。
「無月さん……そんなことをしてたらいつか捕まりますよ。せめてちゃんと理由を言って見張りの兵に入れてもらうか、私が帰るまで屋敷の方で待つかしてください」
「はいはい」
無月は鼻をほじりながら適当な相槌を打つ。反省するどころか、説教を真面目に聞く気すらないらしい。
紫紺はこれ以上彼の行動を咎めるのをやめて、本題に入ることを選択する。
「それで何なのですか。私に伝えた方がいいこととは」
「いやそれがね、ほら、菖蒲ちゃんのこと。なんか龍神の牙とかいうすげえ剣を
手に入れて、ついでに鬼の国を潰してくるとか、言ってたろ。なんか心配でよ、俺もついて行くって言ったら、鬱陶しいから来るなって怖い顔で言われて、仕方なく諦めたわけ。でもやっぱり大丈夫かなってなったんで、こっそり式神に様子見させてたんだよ」
「はあ、そうですか……。それで、菖蒲さんは」
「ちっとまずいことになった」
「どういう意味です」
紫紺自身、菖蒲のことは気にかかっていた。
目の前のこの男同様、菖蒲は紫紺の考えに賛同して、同志として動いてくれていた。そんな中、紫紺は龍神の牙という神の力を宿した退魔の剣の情報を入手し、それを手に入れようと画策していたのだが、それを知った菖蒲が自分に任せてほしいと言ってきたのだ。彼女には龍神の牙を手にいれるための策があったようで、紫紺は彼女の実力を信じて一任した。だが、あれから彼女からは音沙汰がない。結局龍神の牙の一件がどうなったのか、そろそろ気になっていた頃合いだ。
無月は紫紺の真剣な態度に反して、着崩した着物の中に腕を突っ込み、腹を掻きながら答えた。どうも真面目にやる気があるのかないのかよくわからない男である。
「失敗したらしい。龍神の牙を首尾よく手に入れたまでは良かったんだが、そのまま鬼の国を潰そうとした時に邪魔が入ってな。そいつらに負けて、今菖蒲ちゃんは鬼の国で牢に入れられてる」
予想外の無月の言葉に、紫紺は息を飲んだ。龍神の牙は、大昔に一人の刀工が
鍛え上げた最強の退魔刀。それを手に入れた彼女が負けるなど、考えられないことだった。
「邪魔をしたのは誰です」
「陰陽師が一人、山伏の格好した奴が一人、鬼が一匹、あとは狐の物の怪と女の子。それ以上のことはわからん」
「山伏……」
無月が指折り数えながら答える中、紫紺は、かつて自分の式神・黒鳥が言っていたことを思い出していた。確かあれは、自分を嗅ぎ回っていた者を追わせたときの報告だったはずだ。白い虎の式神を連れた陰陽師と、山伏姿の少年。
「……無月さん、その陰陽師が使役していた式神は?」
無月は片目を瞑って一言答えた。
「白い虎」
「なるほど」
あの時、黒鳥の報告を聞いた時は見逃してやるつもりだった。しかし、こうも大々的に邪魔をしてきたとなれば、少し考えを改めなければならない。
紫紺は、着物の下に仕込んであった式神の依代を取りだした。
「黒鳥」
依代である紙人形を手のひらに乗せて紫紺がそう呼びかけると、紙人形から黒い翼がばさりと生え、たちまち黒い大きな鳥へと姿を変える。
依代を借りて姿を現した黒鳥は、長い首を曲げて己の主人へ問うた。
「なんでしょう、主」
「以前お前に追わせた陰陽師と、山伏姿の少年。彼らを探してください」
「見つけたら?」
「私の元へ報告しに来てください。前回のように襲う必要はありません」
「かしこまりました」
黒鳥は言うやいなや、黒い翼を広げて空へ飛び立った。
それを見ていた無月が、ヒュウと口笛を鳴らす。
そして、闇夜を照らす美しい満月に、大きな鳥の影が映りこむ。黒鳥は月を囲うように一旦空で一周すると、どこか方向を定めて紫紺と無月の視界から姿を消した。
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