第5章 都

第72話 月夜 

 その夜、土御門紫紺は帝に拝謁しに御所に上がっていた。理由は前々から帝に頼まれていた占いをするためである。

 陰陽師はあやかし退治も担うが、同時に天文学や占星術も治めている。そのため、吉凶を占うことで大切な儀式を執り行う日を決めたり、皇族貴族など特定の人物の運勢を占ったり、厄を祓ったり、また厄を避けるためにはどのようにすれば良いのかの助言をすることも役目のうちに含まれている。当然帝も、陰陽師に自分の運勢を占ってもらう。だが、この国で最も高貴な帝の運勢を占うことが許される陰陽師は、ごく限られている。その数少ない陰陽師の中で、最も帝から信頼を得ているのが彼・土御門紫紺だった。


 紫紺は今、帝の運勢を占い終え、帰路につこうと御所の渡殿わたどのを歩いていた。

 もうすっかり夜も更け、月明かりに照らされた廊下を、紫紺は手燭を持ち進んでいく。

外から流れ込んでくる微かな風と、紫紺自身の体の動きにつられ、蝋燭に灯った橙色の炎がゆらゆらと揺れる。だが今宵は月の光が明るいため、蝋燭の光はあまり役に立っていない。月の光だけで過ごせそうな夜だった。

 その時紫紺は、渡殿の先の方で自分以外の衣擦れの音を聞いた気がした。御所を見回っている兵士だろうかと思いながら先へ進んでいくと、思わぬ人物に出くわした。


「これはこれは……皇女ひめみこ様」


 華やかな緋色の打掛をまとった、美しい女性。

 紫紺は、自分がさっきまで会っていた帝の実の妹を前にして、慌てて跪いた。

 皇女も少し驚いた表情で紫紺を見下ろしたが、すぐに平静な表情に戻る。

 御歳十七になる皇女の顔は、渡殿の中に差し込んだ月光に照らされて、天女のように美しい。


「紫紺殿……」


 皇女は紫紺を一瞥してから、紫紺が歩いてきた方向をちらりと見やった。そちらには帝が臣と拝謁する間がある。


「兄上に呼ばれていたのですか」


 鈴を転がしたような美しい声で尋ねられ、紫紺はそれに「はい」答えた。それから、少し遠慮がちにこちらからも尋ねる。


「皇女様は、斯様な場所で何を」


 帝の妹である皇女が、日が暮れてから、それも共の者もつけずに渡殿にいるというのはあまり考えられないことだった。あってはならぬとまでは言いすぎだが、本来皇女は御所の奥深くで大事に囲われて暮らすもの。一人で出歩くなど、これまでの皇女の慣習から考えればありえない。だが、この皇女は歴代の皇女とは少し違っているということは紫紺も聞き及んでいた。皇族相手に口が裂けても言えないが、皇女に仕える女官たちは彼女が変わり者だと噂している。だから一人出歩いていても、彼女に限ってはそれほど驚くことではないのかもしれない。

 皇女は特に悪びれる気配も見せず、紫紺の問いに空を見上げてポツリと答えた。


「月が」

「月?」


「……月が綺麗だったので、眺めておりました」


 皇女につられて、紫紺も身を乗り出して夜空に浮かぶ月を見上げた。

 今宵の月は満月だった。夜の都を照らす、完璧な円。見事な月だ。そういえば、今宵は月が綺麗だと帝も言っていたことを、紫紺は思い出す。


「確かに、見事な満月ですね。ずっと見ていても飽きない」


 皇女は紫紺の言葉には何も返さず、身じろぎひとつせずに月を眺めている。紫紺は構わずに言葉を続けた。


「ひょっとすると今宵は、天帝様が玉兎ぎょくとたちと共に月の上で宴を開いているのかもしれませんね。月がひときわ美しく見える時は、よくそう言うのですよ」


「玉兎……」


 皇女はようやく紫紺の言葉に反応した。紫紺は皇女の反応を見てすぐさま尋ねる。


「皇女様は、玉兎をご存知ですか?」


「……亡き母上から聞いたことがあります。天帝に仕える、月の兎がいると。それが玉兎」


「ええ、その通りにございます」


 相変わらず月の方ばかりを眺めて紫紺には目もくれない皇女は、「母上は他にもこんなことをおっしゃっておりました」と続けた。


「天帝の治める月の世界は、すべてが清らかで美しく、よこしまなものなど何ひとつないと。それは本当でしょうか」


 紫紺は皇女の純粋な問いに、「それは私にもわかりません」と返した。


「月まで行ったものは、誰もおりませんから。しかし本当だとすれば、月はさぞかし素晴らしい場所なのでしょう。我々の住むこの世と違って」


 紫紺は少し間を置いてからさらに言った。


「我々の暮らすこの世界には、邪なものが多すぎます。病や飢饉、戦……そしてあやかし……。私は常々思います。この世も、伝承にある月の世界のように、邪なもののない清らかな世になれば良いのにと」


「……あなたはそんな世が訪れることを、夢見ているのですか」


 いつの間にか、皇女は月を眺めるのをやめていた。まだ幼さの残る顔を、紫紺の方に向けている。

紫紺は皇女の顔を見た。綺麗な黒い瞳が、真正面から紫紺を捉えている。捉えた者を掴んで離さないような、何か強い力が宿った目をしていた。さらに、月光が彼女の背後から光を投げかけ、紫紺は彼女が本当に月から来た天女であるような錯覚を覚えた。皇女という尊い地位にあるだけの、何の力も持たないはずの少女から、人を圧倒する何かを感じる。紫紺は一瞬声を失ったが、やがてゆっくりと口を開いた。


「ええ、夢見ていますよ」


「……そう」


「皇女さまもそうなれば良いと、思いませんか」


 皇女は衣を翻すと、横目でチラリと紫紺を見遣った。


「いいえ、私は夢は見ません。月の世界とこの世界は別物。病や戦、あやかしがこの世から消えてなくなることなど、ありえないと思っています」


 それだけ言うと、皇女は衣擦れの音を残して廊下の奥へと消えてしまった。自分の寝所に戻ったのだろう。

 残った紫紺は小さくため息をついた。以前、鎮魂の祭礼の時も皇女と言葉を交わしたが、彼女とは兄の帝のように良い関係を築けそうにない。紫紺は自分の立場をより良いものにするために、皇女の覚えもよくしておきたいと考えていたのだが、世の中そう上手くいくものではないらしい。そして、彼女が時折放つあの独特な圧。紫紺はあれがどうも苦手だった。

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