第70話 感謝

 意識を取り戻した葵は、自分が白い清潔な布団の上に寝かされているのに気づいた。衣もさっきまで来ていた血まみれの服と取り替えられ、今は紺色の着物を纏っている。気を失っている間、誰かがここまで運んできて怪我の手当でもしてくれたのだろう。腹に手をやると、案の定包帯の巻かれた手触りがあった。


 菖蒲が連れて行かれ、鬼姫が感謝の言葉を述べていたことまでは覚えていたのだが、その感謝の言葉を最後まで聞いたかどうかの記憶は定かではない。おそらく、鬼姫が喋っている間に気をうしなってしまったのだろう。


 葵は怪我のこともあるのでゆっくりと体を起こした。目覚めた以上はじっとしてはいられなかった。すると、「起きたの?」という声と、トタトタと誰かが駆け寄ってくる音が葵の耳に届いた。

 葵が顔を上げると、そこには沙羅の姿があった。


「ああ、今起きた。……俺、どのくらい寝てたんだ?」


 ひょっとして三日ぐらい寝てたんじゃないだろうなと、葵は恐る恐る沙羅に尋ねる。だが沙羅はさらりと答えた。


「小一時間くらいよ」


「一時間……?」


「ええ。でも良かったわ。割とすぐに目が覚めて。あ、怪我の方は心配しなくて

大丈夫。神さまの加護のおかげか、傷口も不思議とすぐに塞がったの。普通だったら死にかけの大怪我だったのよ」


 沙羅は一気にまくし立ててから、何かに気がついたように「あっ」と声を上げる。それから「ちょっと待っててね」と言うと、葵が何か言うよりも速く、軽やかな足取りで葵の寝かされていた部屋から出て行ってしまった。

 突風のように来て突風のように去っていった沙羅に、寝起きの頭では全くついていけずに葵がぽかんとしていると、沙羅が何かを抱えて再び姿を現した。


「これこれ。葵の目が覚めたら、これを渡すようにと鬼姫様に言われていたの」


 そう言いながら葵の枕元に腰を下ろすと、沙羅は「はいっ」と布の塊を突き出してきた。


「お、おう」


 戸惑いながらそれを受け取った葵は、自分の受け取ったものの正体に気がついた。


「これって……」


「そう、白衣びゃくえ鈴懸すずかけ、そして結袈裟ゆいげさ。前来てたのは、血まみれで穴もあちこち空いててボロボロだったから」


「それで鬼姫様が新しいのを?」


「ええ。探したら出てきたらしいわ」


 葵は、腕の中にあるその衣類を眺めた。下に着る白い衣に、黒染の鈴懸、赤の結袈裟。どれも手触りは滑らかで、使われている布はしっかりとしていて清潔だ。色や形は前来ていたものと少し違うが、葵はすぐにこれを気に入った。


「後でお礼言っとかなきゃな。でも、なんでわざわざ?」


 顔を上げて尋ねると、沙羅はにっこり笑った。


「天狗の子には必要なものだからって」


 白衣に鈴懸、結袈裟を纏った格好は、山の修行をする修験者の格好でもあり、天狗たちの衣装でもある。ずっと天狗たちと共に天狗として育ってきた葵からすれば、寝巻き以外でこの衣服以外に袖を通すのはあまり考えられないことだった。かと言って、戦いで穴だらけ血まみれになったものをずっと着ているわけにもいかない。

 葵は鬼姫の気遣いに感謝して笑った。


「そうか……。ありがたく頂戴するよ」


「ええ」


 今すぐ着替えるというわけにもいかないので、もらった衣類を一旦枕元に置き、葵は沙羅に向かい合う。


「それで、みんなは?」


「みんなは無事。怪我の手当てを受けて、今は休んでいるわ。鬼姫様は胸を龍神の牙に貫かれてて治療中だったんだけど、無理して動いたからまた傷口が開いちゃったみたい……」


「それ大丈夫なのか」


 顔をしかめて葵が聞くと、沙羅はため息まじりに答える。


「本人は平気だって言ってるけど、お医者さんにはものすごく叱られてたわ。絶対安静ってきつく言い含められてた」


「頭領なのに叱られてたのか……」


「叱られてる鬼姫様、大人に叱られる子供みたいだったわ。まあ、見た目は子供だけど」


 思い出したのか、沙羅はくすりと笑う。だが、すぐに真面目な顔つきに戻り、葵が寝ていた一時間の間にあった出来事や被害の状況を話してくれた。


 あの後、火の神によって封じられた龍神の牙は、宵の塔の地下にあるという地下室に厳重に保管されたらしい。いっその事あんな物騒なもの破壊してしまえば良いのにと葵は思ったが、どうもそうはいかないらしい。龍神の牙にはれっきとした神の力が宿っており、火の神の力を持ってしても破壊できないのだそうだ。

 鬼の国の住人たちは、そのほとんどが宵の塔に避難してきていたらしい。宵の塔では負傷した怪我人の手当てが行われた。それから頃合いを見計らって、動ける者は別の出入り口から地上へ避難した。そのおかげか、葵が思っていたよりも多くのあやかしたちが助かったようだ。

 だが、助かった者の数に匹敵するほど犠牲者も多く出た。死因は、龍神の牙に斬られ即死だったあやかしがほとんどだったらしい。よしんば一命を取り留めたとしても、龍神の牙に宿る退魔の力の影響で亡くなってしまったり、いまだ後遺症で苦しめられたり衰弱したりしているあやかしが大勢いる。もちろん水の龍の引き起こした洪水や、斬撃で破壊された家屋の下敷きになり亡くなった者も多い。騒動が収まり、国が滅ばずに済んだと言っても、鬼の国の受けた傷は計り知れないほど大きい。赤い提灯の灯った、賑やかで美しかった街並みは破壊され、大勢の住人が死んだ。残った者の心には、何年、何十年経っても消えない傷が深く深く刻まれただろう。


「ねえ、葵?大丈夫?」


 暗い表情をしていただろうか。沙羅が心配そうな顔で、こちらの顔を覗きこんでいる。


「いや、なんでもない。それより」


 これ以上暗い表情を沙羅に見せたくなかったので、葵は話題を変える。


「龍の宝珠を壊したのは、沙羅だったんだよな」


 葵の言葉に、沙羅ははにかんだ。


「うん。……九尾に、矢で打ち抜いてみろと言われて。すごく緊張したのよ。外したらどうしようって思ってたし」


「でも当たった」


 葵は沙羅に笑いかけた。彼女のしたことは、葵たちがやろうとしてできなかったことだ。あの時沙羅が矢で龍の宝珠を打ち砕いてくれていなかったら、今頃どうなっていたか。感謝しても仕切れない。


「俺が無事こうしていられるのも、鬼の国がボロボロになりながらも滅ばずに済んだのも、沙羅が龍神の牙を破壊してくれたおかげだ。本当にありがとう」


 葵は、これまでにないくらい真面目な顔つきで、沙羅に頭を下げた。頭を下げて礼をする。これが今の葵にできる最大級の感謝の印だ。


「………」


 沙羅が何も返事を寄越さないので顔を上げてみると、ひどく照れくさそうな沙羅の顔があった。所在無げに手を膝の上で弄びながら、「な、なんかこういうの慣れないなぁ」とつぶやいている。葵の視線に気づくと、沙羅は背中をびくりと震わせた。


「あ、いや、こんなに面と向かってきちんとありがとうと言われたの久しぶりだったから。あはは、なんか照れ臭くなっちゃった」


 そこで言葉を切ると、沙羅は穏やかに微笑み、「でも」と続けた。


「私だけじゃない。みんなすごかった。葵も京介も、九尾も風神丸さんも、そして鬼姫様や、けが人の救助や手当に奔走してくれた人たちも。みんなが頑張ったから、今があるのよ」


 確かに沙羅の言う通りだと葵も思った。襲撃者と直接戦った者たちだけじゃない。葵の知らないところで、一人一人が各々の力を尽くしていたのだろう。目の前の命を助けるため、この国を守るため。でなければ、もっと多くの命が失われていたかもしれない。

 葵は御山のことを思った。御山も甚大な被害を受けたが、皆嘆きながらも亡くなった者を弔い、翌日には破壊された館の修繕に取り掛かろうとしていた。きっとここも大丈夫だ。痛みを抱えながらでも、きっとまた前を向いて、鬼の国は不死鳥の如く蘇る。そんな予感がする。

 葵は、鬼姫のくれた新しい衣服をそっと撫でて、沙羅へ頷きを返した。

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