第59話 火口

 鬼姫のことは蓬とかかりつけの医師に任せ、沙羅と風神丸は宵の塔を出た。塔から出た途端、急に地面がぐらりと揺れた。揺れはすぐに収まったが、短い間隔を置いてまたすぐに揺れる。


「地揺れ?」


 とっさに近くの建物の壁に手をつきながら、沙羅は眉をひそめた。


「ただの地揺れならまだいいけどね」


 風神丸が、鬼の国の入り口がある方へ視線を向けながら言った。

 もしかしてこの地揺れも、龍神の牙が起こしていることなのだろうか。不安を覚えながら、沙羅は風神丸に尋ねる。


「頂上へ行くには、一旦ここから出なくちゃいけないのよね?」


「ああ。でも、君たちがここへ来た時に通ってきた出入り口を使うのは危険だ。入り口へ行くまでに、きっと龍神の牙と鉢合わせになる」


「他にも出入り口があるの?」


 風神丸の口振りからそう言っている風に聞こえて、沙羅は聞いた。風神丸は頷く。


「いくつかある。今回は、頂上に一番の近道になる出入り口を使おう」


 言いながら、風神丸は懐へ手を入れた。そうして懐から抜き出された手には、淡い水色の紙が貼られた扇が握られていた。

 なぜ急に扇を取り出したのだろうと沙羅が疑問に思っていると、風神丸は扇に息を吹きかけてから地面へ置いた。すると、突然扇から白い煙がぼんと上がる。目を丸くして沙羅がその光景を見ているうちに、煙はすぐに晴れ、地面に横たわった巨大な扇が姿を現した。広がった骨組みに貼られた淡い水色の紙から、先ほど風神丸が懐から取り出した扇と同じものだとわかる。


 それにしてもずいぶん巨大化したものである。扇を構成している骨組みの長さは、人の身長ほどもある。こんな大きな扇、使うとしたらよほどの大男にちがいない。そんなに大きな人間がいればの話だが。


 風神丸はなんてことないような顔をして、地面に広がった扇の上へあぐらをかいて座った。沙羅がぽかんとしていると、君も乗ってと手招きしてくる。

 恐る恐る扇の上へ沙羅が座ると、風神丸は「じゃあ、行こうか」と笑いかけた。

 行くってどう行くのだ、と訝しげに沙羅が思った瞬間、扇が二人を乗せたままふわりと宙へ舞い上がった。驚いた沙羅は、思わず風神丸の肩にしがみつく。


「飛んでる!?」


 みるみる遠ざかってゆく地面を横目に捉えながら、沙羅は風神丸の肩を掴んだ両手にぎゅっと力を込める。


「ああ。飛んでるよ。この扇、空飛ぶんだ」


「空飛ぶ扇……」


 そんな代物聞いたこともない。だが、沙羅はすぐに考え直した。ここは鬼の国。人智などはるかに超えた、あやかしたちの住まう国。ここへ来てから物珍らしいものをたくさん見たが、その中に空飛ぶ扇があったとておかしくはないのだ。


 沙羅と風神丸を乗せた扇は、垂直にぐんぐん高度を上げていった。そして、岩肌を削って作られた回廊の七層目までくると、これ以上高度を上げるのをやめて、回廊に向かって横へ滑るように動き出した。


 この様子だと、風神丸の言っていた出入り口はこの七層目の回廊にあるのだろう。


「今からあの穴に入る」


 風神丸が前方へ人差し指を向けた。その方向を見ると、回廊の壁にぽっかり空いた穴が目に入った。あれが出入り口で間違いないだろう。


 ろくにその穴を観察する暇も沙羅に与えず、扇はその穴へ飛び込んだ。速度がぐんと上がる。穴の向こうからは外の匂いを含んだ風が流れ込んできていた。体に吹き付けてくるその風が、涼しくて心地よい。


 外へ伸びた穴は、どうやら少し坂道になっているようだった。勾配をつけて徐々に上の方へ伸びていることが、扇に乗っていてもなんとなくわかる。やがて前方に眩しい光が見えてきた。穴の中は松明の明かりしかなかったため、暗闇に慣れた目にその光は突き刺さるように痛い。沙羅は思わずそのまぶしさに目を閉じた。閉じた瞼の裏にも光は届いてきて、目を閉じていても自分が明るい日差しの下に出たのがわかった。


 ゆっくりと目を開けると、まず風神丸の後頭部が視界に飛び込んできた。続いて、風神丸の肩にしがみついた自分の手。そして、抜けるように晴れ渡った青空と、緑青を塗ったように鮮やかな山の緑。扇はその上を滑るように飛んでいる。


「あとは頂上へ向かって一直線だ」


 風神丸が山の頂をまっすぐに見据えながら言った。その後ろで沙羅も頷く。


 山の頂上へ近づくにつれて、眼下を覆っていた木々の緑が次第にまばらになってきた。頂付近ともなると、木々は生えていないようだった。茶色い山肌がむき出しになっている。その山肌に黒い影を落としながら扇は飛んで行く。


 やがて頂へ着いた。扇はゆっくり下降して、静かに地面に着陸する。


 沙羅と風神丸は扇から降りた。途端に、扇はスルスルと萎んで元の大きさになる。風神丸は元の大きさになった扇を地面から拾い上げると、パチリと閉じて自分の懐へとしまった。


「さて、祭壇はもうすぐそこだ。足元の石に気をつけて、ついてきて」


 風神丸に言われ、沙羅は自分の足元を見下ろした。風神丸の言った通り、茶色い地面の上にはゴロゴロと石が転がっている。注意して歩かないと、つまずいて転んでしまいそうだ。


 石に注意しながら風神丸の後ろについていくと、目の前に白い煙のようなものが天に立ち昇っているのが見えてきた。同時に、何か暑い熱気のようなものと、鼻をつく嗅いだことのない匂いが押し寄せてくる。


 前を歩いていた風神丸が立ち止まったので、沙羅は風神丸の隣に立ち並んだ。すると、すぐ目の前の地面がぽっかりと巨大な穴を開けているのが見えた。これが火口とやらなのだろう。穴の底には緑がかったように見える水が溜まっており、そこから立ち上る湯気が、たまり水が恐ろしく熱いことを無言で語っている。


 まるで地獄の入口のようだと沙羅は思った。穴の底から亡者たちの悲鳴やうめき声が聞こえてきそうな錯覚を覚える。穴の周囲は崖のようになっているが、ここから足を滑らせば命はないだろう。あの熱い湖のような熱湯の中に落ちて、亡者の仲間入りだ。


「祭壇はどこに?」


 目の前の圧倒的な光景から視線を離さずに沙羅は尋ねた。


「あそこだ。まあ、厳密に言えば、祭壇ではないんだが、俺たちはそう呼んでる」


 風神丸が指差したのは、火口を囲む縁の中で、一箇所火口の上へ張り出したようになった大岩だった。大岩にはしめ縄が巻かれ、あれが神にまつわるものだということを示している。


 沙羅は頷いて、大岩へ向かって歩き出した。近づくにつれ、火口から立ち昇る熱い空気の塊が強さを増してくる。真夏でもないというのに汗が噴き出し、体に張り付いた衣がうっとうしく感じ始める。


 大岩に辿りついた沙羅は、沙羅を守るようにして後ろからついてきていた風神丸の方へ振り返った。


「この大岩がご神体?」


「いや。ご神体は、この火口そのものだ。その大岩は、火の神を呼び出すためのもの。伝承によれば、火の神を呼び出すにはその大岩の上で祈りを捧げなければならないらしい。うまくいけば、その大岩に火の神がその身を降ろされる。」


 そう言われ、沙羅はもう一度大岩を観察した。大岩のてっぺんは平べったくなっていて、ちょうど人一人が座れるほどの空間がある。つまり、あそこに座って願わねばならないということだろう。


 沙羅はゴクリと生唾を飲み込んだ。もし、もしも大岩が崩れたり落ちたりするようなことがあれば、命はない。そうならないことを願いながら、沙羅は大岩へ手をかけた。次に足をかけようとしたが、ちょうど右足をかけた箇所が崩れて、ずるずると地面へ戻ってしまった。見かねた風神丸が、「俺が肩車するよ」と言って、乗りやすいようにしゃがみこんで沙羅に背を向けてくれた。沙羅はお礼を言いながら、風神丸の肩の上へ座る。

 風神丸が肩車してくれたおかげで、沙羅は難なく大岩の平らになった部分へ腰を下ろすことができた。しかし、安心したのも束の間。自分が今いる岩の上から見渡せる景色の、あまりの美しさと恐ろしさに沙羅は身をすくませた。

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