第60話 火の神

 大岩は火口の上へ張り出しているので、火口からの湯気と熱が今までで一番強く感じる場所だった。それに、ちょっと足を出せば縁側に座る要領で大岩に腰掛けることもできる。もちろん、足を火口の上に投げ出すのは恐ろしすぎるので、そんなことはやらないが。


「大丈夫?」


 大岩の下から、風神丸が心配そうに声をかけてきた。沙羅は無理して「大丈夫」と答える。それでも、沙羅の口調から怖がっていることを察したのか、風神丸は「落ちそうになっても、俺がちゃんと助けるから」と沙羅を安心させるように言ってくれた。


 沙羅は「ありがとう」と感謝の意を述べてから、正座し直して息を整えた。正面には、煮え滾る火口湖と、茶色い山肌、そして青い空とはるか遠くに連なる山脈が見える。美しい景色だが、すぐそこに死を感じるような、どこか恐ろしい美しさだ。


 沙羅はできるだけ下を意識しないようにしながら、自分の胸に両手をあてがった。手の下で、自分の心の臓が激しく鼓動を打っているのがわかる。こういう時は落ち着けと自分に言い聞かせても、ますますこの鼓動が激しくなるだけだ。むしろ抑えつけるのではなく、受け入れてしまった方が楽になる。


 沙羅は、ゆっくりと目を閉じた。胸元へあてがっていた両手を、そっと胸の前で組む。額から汗が一筋流れ落ちたが、沙羅はそれをぬぐわなかった。そんなことに気を取られていては、神を呼び出すことなどきっとできない。


 沙羅は、久渡平で魂鎮めをやった時のように静かに語りかけた。ここにおわすはずの神へ。その魂へ。だが、いつものようにはいかなかった。これまで九尾と旅をしてきた道中、沙羅は各地で乱心した神やあやかしの魂を鎮めてきた。荒ぶった彼らの魂は激しく揺れていて、どこへどう語りかければいいのかがすぐにわかる。例えば海の下にいる生き物のようなものだ。その生き物が激しく暴れれば暴れる程、その周囲で波しぶきが上がり、水面が揺れる。だからどこにいるのかすぐにわかる。しかし、暴れたり激しく動かなかったりしたら、波も立たない。広い海原のどこにいるのかわからない。それと同じで、荒ぶっていない魂というのは所在が掴みづらいのだ。それでも沙羅は意識を集中させ、必死で火の神を心の中で呼び続けた。龍神の牙を今一度封印するため、どうか私たちに力を貸して欲しい、と。


 しかし、一向にそれに答える声はなかった。どんなに願っても、祈っても、帰ってくる言葉はない。


 沙羅は祈りのためにきつく握りあわせていた両手に、さらに力を込めた。そうしたのはほとんど無意識だった。絡み合わせた指の隙間に汗がにじみ、また頬を汗の滴が撫でてゆく。


 (お願いします。どうかあなたの力を私たちに貸してください。あなたの助力が、必要不可欠なのです。どうか。)


 その時、山脈の向こうから走り降りてきた強い風が、沙羅の体に吹き付けてきた。集中していた沙羅は、突然の強風に体ごと持っていかれるような感覚がしてヒヤリとした。しかしそうはならず、沙羅がほっと胸をなでおろす。そうして再び語りかけ始めた。だがまだ火の神の魂がどこにいるのかさえわからない。自分の言葉はまだ一言も届いていないのかもしれない。


 にわかに焦りが生じ始めた時、沙羅はまぶたの裏に赤い光が一瞬ちらついたような気がした。太陽の光のいたずらか。あるいは……。


 次の瞬間、沙羅の顔に熱風が吹き付けてきた。同時に、何かが羽ばたく音と風神丸が息を飲む音が耳に届く。じりじりと肌を焼け焦がすような暑さに、沙羅は思わず目を開いた。


 沙羅の視界いっぱいに広がっていたのは、赤々と激しく燃え盛る炎だった。あまりの近さに驚いて、沙羅は体を後ろに引く。と言っても、狭い岩の上なのでほとんど動けなかったのだが。


 炎は、よくよく見るとある生き物の形を保っていた。左右に伸びた翼に鋭い嘴……。鳥だ。人の身長など優に超える大きな鳥。炎は激しく燃え上りながら、鳥の姿をかたどっている。美しい火の鳥。


 後ろから風神丸に衣の裾を引かれ、沙羅は転がるようにして大岩から降りた。すると、火の鳥はさっきまで沙羅の座っていた箇所へ翼をたたんでとまった。遠くから見れば、岩の上へ炎が燃え移ったように見えたことだろう。


『面白い人の子だ』 


 火の鳥は興味深そうな様子で沙羅を見つめると、しとやかな女性の声で確かにそう告げた。

 何も答えられずにいる沙羅からハナから返答を期待していなかったのか、火の鳥はそのまま言の葉を紡ぐ。


『私の魂へ、直接語りかけようとしていたな。そのようなことをする人間は初めてだ。もっとも、うまくいっていなかったようだが……。して、私に何を願う』


 目の前に神が姿を見せて口を聞いてくれているのだから、もう心の中で魂に語りかける必要はなかった。

 沙羅は息を整えると、火の鳥、否火の神に向かい、望みを述べる。


「今、龍神の牙が長き眠りから覚めて、鬼の国を蹂躙しております。かの剣を止めるには、あなたさまの助力が必要不可欠。どうかその力を我々にお貸しいただきたいのです」


 沙羅の言葉に、火の神はしばし黙した。炎で形作られた表情からは、一切考えを読み取ることはできない。聞き入れてくれるだろうかと、沙羅が内心ヒヤヒヤしていると、火の神は突然翼を広げた。目の前に炎の壁ができたようになる。


『あいわかった』


 それだけ言うと、火の神は翼を翻したかと思うと、沙羅と風神丸の頭上すれすれに飛んでいってしまった。


 沙羅は風神丸と共に、火の神を見送った。これでもう大丈夫だろうか。そう思った時、沙羅は自分の体から力が抜けるのを感じた。そのまま地面へ倒れ込みそうになる。思いの外神経を使ったようだ。

 崩れおる体を、風神丸が支えてくれる。


「大丈夫?」


 心配そうな風神丸の言葉に、沙羅はこくりと頷いた。


「少し休めば、すぐ元気になるわ」


 言いながら、沙羅は心の中で葵たちに呼びかけた。火の神が来るまで、どうか持ちこたえてと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る