第58話 宵の塔

 時間を少し遡って、葵たちが菖蒲と対峙する少し前。沙羅は、風神丸と共に宵の塔へ向かった。目的は無論鬼姫と会うためである。


 宵の塔の内部へ入ると、中は惨憺たる有様だった。床や壁は飛び散った血で濡れ、治療のため横たえられたけが人や忙しなく行き交うあやかしたちで部屋は溢れかえっている。ここで龍神の牙が暴れまわったのは、火を見るより明らかだった。


「ひどい……」


 沙羅がその光景を見て呆然と佇んでいると、自分と同い年くらいの鬼の少女が近づいてきた。少女は不安そうな表情を浮かべ、沙羅の隣の風神丸へ話しかける。


「風神丸様……」


よもぎか。鬼姫はどこにいる?無事なのか」


 風神丸の切迫した問いかけに、蓬と呼ばれた少女は目を伏せた。

 まさか、やられたのか。沙羅がその考えに顔を強張らせた時、蓬が泣きそうな声で答えた。


「鬼姫様は、あの忌まわしい剣で胸を深く貫かれ、現在治療にあたっています」


 どうやら最悪の事態は免れているようだったが、蓬の沈鬱な表情を見れば、鬼姫の容体が予断を許されないものであることが痛いほど伝わってくる。


「鬼姫は今どこに?」


 風神丸に重ねて尋ねられると、蓬は「こちらです」と言って、二人へ着いてくるように促した。


 沙羅と風神丸は、先に立って歩き始めた蓬の背中へ着いて行った。


 多くの怪我人が横たえられている広間を抜けて蓬が案内したのは、広間とは打って変り、しんと静まり返った離れだった。


 蓬が失礼しますと一言声をかけて部屋の戸を開けると、その先に布団の上で仰向けに寝かされた鬼姫の姿があった。鬼姫の枕元に控えている白い衣に身を包んだ鬼は、おそらくかかりつけの医者だろう。


 沙羅が蓬の後に続いて鬼姫のそばへ近寄ると、鬼姫は小さくうめき声を漏らしてうっすらと目を開けた。


 鬼姫の顔色はひどく悪かった。もともと雪のように白かった肌は、白さを通り越して病的なまでに青白く、はだけた胸元に巻かれた白い包帯に滲んだ赤い血が、見ていて痛々しい。


 なんと声をかけるべきか沙羅が逡巡していると、鬼姫の方が先に口を開いた。


「沙羅殿に、風神丸か。こんな情けない姿をお主らに見せることになるとは……の」


 鬼姫は弱々しい声で自嘲気味に笑う。

 控えていた医者が、「あまり喋っては傷が開いてしまいます」と心配そうに口を挟んだ。


「少しなら良いであろう」


 鬼姫は、医者の言葉を右手を上に上げて制した。それから沙羅と風神丸に、もっと近くへ寄るよう目で促した。二人が枕元へ、少し離れたところに蓬が座る。


「……鬼姫。怪我は大丈夫なのか」


 沈んだ表情で風神丸が尋ねると、鬼姫は少しだけ目を閉じた。


「妾の怪我は……心配せずとも……良い。心配すべきなのは……龍神の牙じゃ。かの剣の封印が……どうしたことか解けてしまった……。非常にまずい事態じゃ」


「今、葵と京介、それに九尾が龍神の牙を追っています。だからきっと、彼らが」


 鬼姫の弱々しい声にたまりかねて、沙羅は励ますように言った。そんな沙羅へ孫でも見るような優しい眼差しを向けた鬼姫だったが、「無理であろう」と希望をすぐさま否定した。


「対するは……神の力を宿した剣……。九尾が全盛期ならあるいは……。じゃが、あやつは長らく封印されていた影響か、かつての力を失っておる。彼らでは……あの剣の力に打ち勝つことはできんよ」


「では、打ち勝つにはどうすればいいんですか」


 身を乗り出して沙羅が尋ねると、鬼姫は考えるためかしばし口を閉じた。それから、どこか遠くを見るような目をして答える。


「前にも話した通り……あの剣を封じた……妾たち一族の先祖は、火の神の力を借りて、剣を封じた。すなわち、対抗するには火の神の助力が不可欠じゃ」


「助力を仰ぐにはどうすれば良いのですか」


「どうということはない。……火の神を祀る祭壇に座し、一心に願えば良い。それに応えてくれるかどうかは……火の神の御心次第じゃがな。……伝承によれば、我が先祖は祭壇に向かい、三日三晩一睡もせずに願い続けたらしい。すると、四日目の朝に火の神があらわれた。……もともと火の神は、人間が龍神の牙を振るい、あやかしを一方的に殺戮しておることに胸を痛めておった。そして、当時最強のあやかしと言われておった先祖を認め、その願いに応えて、力を貸し与えた」


「三日三晩……」


 沙羅は顔を俯かせ、小さく呟いた。火の神を呼び出すのに三日もかかっていたら、その間にみんな死んでしまう。それに、何千年か前のように願いに応えてくれるかどうかも不確かだ。ましてや沙羅は最強のあやかしでもなんでもない。神様から見ればただの小娘だ。だが、やるしかなかった。葵達が戦っているのに、自分だけが微かな希望を捨てて安全な場所に閉じこもっているのは耐えられない。

 沙羅は顔を上げて、鬼姫に問うた。


「その火の神が祀られた祭壇はどこにありますか」


「……お主、何を考えておる」


「いいから教えてください」


 沙羅のまっすぐな瞳で正面から見据えられた鬼姫は、小さく吐息をついた。


「……この山の頂上じゃ。詳しい場所は、風神丸が知っておる」


「わかりました」


 そう言うと、沙羅は立ち上がった。

 隣でまだ座ったままだった風神丸が、目を丸くして沙羅を見上げる。


「沙羅ちゃん、まさか、火の神にお願いしに行くつもり?」


「そうよ」


「でも神は気まぐれだ。昔の、伝承の時みたいに力を貸してくれるかもわからない。それに、祭壇のそばへ行くにはどうしたって火口へ近づかなくてはならない。正直君みたいな女の子が行くのは危険すぎる」


「何かをするのに危険が伴うのは当たり前よ。それに私は、神やあやかしの魂に語りかけることができるの。龍神の牙は……、神そのものではなくあくまで剣だからか、魂の在り処が掴めなくて語りかけられそうにもなかったけれど、今度こそ、この力を役立てられると思う」


「……」


 風神丸が無言のままでいると、鬼姫がポツリと呟いた。


「……その力のおかげか。九尾が救われたというのは……」


「え?」


 よく聞き取れなかった沙羅は聞き返したが、鬼姫はもう一度同じ言葉は繰り返さなかった。代わりに、風神丸へ命じた。


「風神丸。確かに祭壇のある火口付近は危険じゃ……。沙羅殿が危険な目にあわぬように、お主が守ってやれ」


 さすがに鬼の国の頭領に命じられれば、嫌とは言えない。風神丸は堪忍したように、「わかった」と頷いた。

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