第40話 巨岩


「見えてきた。」


 快適とは言い難い空の旅が始まってからしばらく経った頃、九尾は緩やかに速度を落としながらそう言った。


 葵は伏せていた顔を上げる。随分長いあいだ九尾の背にかじりついていたような気がしていたが、太陽を見てみると思ったほどその位置は高くなっていなかった。まだ朝といってもまったく差し支えのない時間帯のようだ。


 葵達は、九尾の背から振り落とされないように互いに密着させていた体を離して、眼下に広がる景色を見渡した。


 下には、青々とした草の生い茂る緑の大草原が広がっていた。緑の絨毯のように広がる草原には、瓢箪のような形をした大きな湖や、その周辺を彩る小さな森もあった。さらに目をこらせば、草の間を鹿の群れが軽やかな足取りで駆けているのも見える。そして、草原の果てには大きな山々の連なった山脈がひかえている。その山脈から少し外れた場所には、裾野の大きな単独の山もあった。


 生まれてこのかた自然と言えば山々の連なった景色しか見てこなかった葵は、その光景に目を奪われた。果てしなく続くかのように広い草原も、平坦な場所を群れをなして駆けてゆく鹿たちも、大きな湖も、それらすべてが葵にとっては新鮮なものだった。


 だがそれは葵だけではないようだった。沙羅や京介も目を見張って眼下の景色に見入っている。二人からしても、今見ている景色は珍しいものらしい。そもそも、空から地上を見下ろしているということ自体、本来人の見る世界ではないのだから、見入ってしまうのも当然と言えば当然なのかもしれない。


「ほら、あの山がさっき言っていた火の山だ。山脈じゃない方の山だぞ」


 九尾がそう言ったので、葵は大草原から一旦目をそらし、裾野が緩やかに広がった単独の山の方を見た。


 その山は、中腹辺りまでは普通の山と同じように緑の木々に覆われているが、中腹から頂上にかけては植物がほとんど群生していないのか茶色く見える。頂上からはかすかに噴煙が立ち上っているのが確認できたが、噴火しているわけではなさそうだ。


 九尾は、その山へ向かって降下しはじめた。


 九尾の話によれば、山の麓か地下に鬼の国があるらしい。葵は麓へ目を凝らして見てみたが、森があるだけで街のようなものは見られなかった。では地下にあるのだろうかと思ったが、火を噴く山の地下など住むにしては危険極まりないように思える。


 ともかくも、地面の方はどんどん近づいてきていた。

 九尾は、山の麓あたりにある岩場に着地の狙いを定めているようだった。着地に際し、勢いを殺しながら岩場に接近して、ゴツゴツした岩の上へ四肢を降ろす。それから体を伏せてくれたので、葵たちは九尾の背から岩の上へと滑り降りた。


 岩の上からは麓に広がった森を一望することができた。葵はしばし岩の上に佇み、森とその先に広がった大草原を眺める。その隣で葵と同じように景色を眺めていた沙羅が、「鬼の国らしきものはないわね」とつぶやいた。


「じゃあ地下の方にあるのかしら。でも入り口はどこ?」


 沙羅はキョロキョロしながら今度は森の方ではなく岩場を見渡す。

 岩場の奥の方には、山の裾野とほとんど密着するかのようにして、巨大な岩が屹立していた。巨岩は丸みを帯びた形をしていたので、ちょうど、山をも超える巨人が土を盛った山の横に、泥だんごを半分ほどねじ込んだように見える。

 葵がそばに寄ってみると、巨岩は大きすぎて視界にその全容が入りきらない。葵には絵巻物でしか見たことのない城が、その岩の中にはすっぽり入ってしまいそうだ。


「そこだ」


 巨岩を見上げていた葵に、九尾が後ろから声をかけた。


「そこ?」


 九尾の言う意味がよくわからなかったので、葵は振り返って首を傾げる。

 九尾は葵の隣に来ると、九本ある尾のうちの一本で巨岩を指し示した。


「思い出したんだ。確か、鬼の一族はこの巨岩の中に住居を構えていた」


 九尾の言葉を聞いて、沙羅と京介も葵のそばへ寄ってきて巨岩を見上げた。遅れて白虎丸が京介の肩の上へ飛び乗る。


「じゃあ、この岩のどこかに入り口があるはずだ」


 京介の言葉に、九尾は「いや、ない」と首を振った。

 怪訝な顔をして京介は九尾の顔を見やる。

 九尾は京介の無言の問いに答えた。


「俺がないと言ったのは、目で探して見つかる入り口のことだ。鬼の術で隠された入り口を見つけないといけない」


「見えない入り口なんてどうやって探すんだよ?」


 白虎丸が口を尖らせて言うと、九尾は「知らん」と答えた。白虎丸がその答えに「はあ?」と呆れた顔をする。


「お前、前に来たって言ってたじゃないかよ。なのになんで知らねえの?ひょっとして何百年も前のことだから忘れたのか?ったく、これだから年寄りは。」


「年寄り扱いするな。あの時は鬼ババアに招かれたから、勝手に入り口を開けてくれたんだよ」


 不機嫌そうに言った九尾は、京介の方を見る。


「おい、お前陰陽師なんだから、こういう系統のもんには詳しいんじゃないのか」


 しかし京介は、思案するように顎の下に手をあてがったまま「うーん」とうなっただけだった。しかし何か考えでもあるのか、岩に近づくと、その岩肌に手の平をつけ、確かめるようにサラリと撫でた。


「何かわかったか?」


 少しもどかしい気持ちに駆られながら葵が尋ねると、京介は言った。


「何らかの術で入り口が隠されているの確かだね。こういうのは、何か合言葉というか、定められた言葉を唱えることで入り口が現れるようにされてる場合が多い。だから、その言葉が何なのかわかってなくちゃいけないんだけど……」


 京介はちらりと九尾の方を見る。


「君は招かれたと言っていたけれど、入り口を開くときに、誰か何か言ってなかった?」


「そういえば、案内役が何か岩に向かって言っていたような気がする。何て言っていたかまでは覚えてないが」


「その言葉がわかりさえすればね」


 京介はため息まじりに言った。

 その時、葵の腹がぐるぐると空腹の音を響かせた。

 間の抜けた音に、沙羅がぷっと吹き出す。


「ごめんなさい。つい」


 謝りながらも沙羅はクスクス笑いがやめられないらしい。

 腹の音を女の子に笑われたのが気恥ずかしくて、葵は照れ隠しに自分の腹を撫でる。


「い、いや。昨日の昼から何も食べてないからな……」


「それはみんなもそうだね」


 京介が腰に手を当てて言った。


「せっかく見晴らしのいい場所なんだし、ちょっとこのへんで朝ごはん食べようか。入り口のことはその後で考えよう」


 三人と一匹は、巨岩から少し離れた場所で円になって座った。

 京介が持っていた焼き米を焼いて食うことにする。

 焼き米を焼くための火は、九尾が起こしてくれた。

 人の姿に化け直した九尾が、みんなで集めてきた薪の上に手をかざすと、青白い炎がボッと燃え上がって薪に火がつくのだ。これには、自分の感情をあまり露わにしない京介が珍しく喜んだ。わざわざ携帯している火打石で火を起こす手間がはぶけたのが楽で嬉しいらしい。


 九尾の起こした火の上で焼き米を炙って皆で食べているうちに、葵のお腹も次第に満たされてくる。といっても、食べるのは一人につき一つと食糧の管理にうるさい京介が命じたのでそれほど腹は膨れなかったが。


 皆が焼き米を食べ終わり、さてこれからどうするかを話し合おうとした時、葵の耳は誰かが近づいてくる足音を捉えた。


 九尾と白虎丸も気がついたようで、葵と同時に音のした方を見る。


「誰か来てる。ひとまず隠れよう」


 こんなところに来るということは、おそらく鬼の国目当てに来た者だろう。となると少なくとも人間ではないはずだ。面倒ごとは嫌なので、葵は皆にそう声をかける。

 皆もその意見には同感だったようで、京介はすぐに火を消し、沙羅は荷物を抱えて、葵がとっさに指し示した岩の間へ体を滑り込ませた。

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