第39話 空の旅

 久渡平を後にした葵たちは、闇に閉ざされていた大地が、昇ってきた太陽の光に照らされて次第にその姿を露わにしてゆく様子を眼下に捉えながら、朝のひんやりとした風に髪や服をなびかせていた。


 葵が山の向こうを見ると、熟れた果実のような太陽が顔を覗かせていた。月に変わって太陽が支配する朝が来ようとしている。


 その光景をぼんやりと眺めながら、葵の胸中にはふと幼き頃の思い出が去来していた。


昔、葵は夜明け前の空を椿丸に抱えられて飛んだことがあった。椿丸は葵の胸のあたりに腕を回して腹を下に向けて抱えてくれたので、あの時はまるで自分で飛んでいるような心地がしたものだ。その時、こうやって今見ているようなまん丸の太陽が山の端からひょっこりと顔をのぞかせ、闇に閉ざされた大地を染め上げるかのようにして鮮やかに映し出していったのを、葵はよく覚えている。もう一度この美しい光景を見られるとは思ってもいなかった。


「きれいね」


 前に座っていた沙羅が、夜明けの光景を見て感嘆の声を上げた。


「毎朝こんなにきれいなものが、この空で繰り広げられているなんて」


 三人は九尾の背の上で、しばらく黙ったままこの夜明けの光景を眺めた。


 日が山の上に完全に姿を現して、感動の余韻も薄れてきた頃、京介の膝の上で眠そうな顔をしていた子虎姿の白虎丸が、あくびまじりの声をあげた。


「なあ、ところで、今から行く美村鹿ってところはどんな場所なんだ?」


「久渡平から南に下った場所にある土地だよ。古来より火の神が住む土地と言われてるらしい。それ以上のことは詳しくは知らないけど」


 京介が白虎丸の疑問に答えると、白虎丸は「へえ」と目を丸くし、鼻をヒクヒクさせた。


「何かとこの旅は神様続きだな。森の神に羽衣神宮の神に、そして次は火の神ときた」


 白虎丸の言葉に思うところがあったのか、沙羅が「そういえば」と葵へ振り返った。


「あなた託宣の時に、『そなたは神に愛でられている』と言われていたけど、あれはどういう意味なの?」


「多分、山神様のことを言ってるんだろう」


「山神様?」


 葵自身、羽衣神宮の神が本当にそのことを指して言ったのか確証を得てはいなかったが、そのまま続けた。


「山神様は、俺が育った天狗達の里・御山の守り神と言われている。その山神様からの加護を俺は受けているようなんだ。森神様にもそう言われた。だから多分、羽衣神宮の神もそういう意味で言ったんだろう」


「へえ。そういうことだったんだ」


 納得したのか、沙羅は頷きながら顔の向きを前方へ向ける。それから彼女は、九尾の首の部分をツンツンとつついた。


「ところで九尾。あなた、さっきから何も言わずに飛んでるけど、美村鹿はどこなのかわかってるの?」


 沙羅の問いに九尾は「わかってる」と無愛想な返事を寄越した。続いて「一度行ったことがあるから」と付け足す。


「え、行ったことあるのかお前!?どんな場所なんだ?地面のあちこちから炎が上がってるのか?」


 火の神の住む土地と聞いて妙な想像を膨らませていたらしい白虎丸が、京介の膝から飛び出して葵と沙羅の頭を飛び越え、ちょうど九尾の三角耳の間へと着地した。


「なあなあなあ。教えろよ」


 駄々っ子のように急かす白虎丸に、九尾は心底うっとうしそうな唸り声をあげる。九尾の背の上に乗っているので、葵は九尾の表情を見ることはできなかったが、おそらく「言うんじゃなかった」とでもいうような顔をしているのだろう。


 だが葵も白虎丸の気持ちはよくわかる。未知の土地で、さらに火の神の住む土地とは嫌が応にも興味をかき立てられる内容である。


「うるさいなあ。子供か」


 自分の頭の上でわあわあ騒ぐ白虎丸に、九尾は苛立たしそうに耳を伏せた。おそらくここが空の上でなければ、とっくの昔に頭を振って白虎丸を振り落としているところだろう


「なあ、どんなところ?面白い?」


「別に面白くなんかねえよ。地面から火なんて吹いてないし、いたって普通の場所だ。強いて言うなら、火を噴く山があるくらいだ」


「火を噴く!」


 白虎丸とともに葵も目を丸くした。火を噴くとはいかなる山か。


「火山を知らんのかお前らは」


 呆れたように九尾にそう言われ、葵は過去の記憶に埋もれていた「かざん」なるものの記憶を呼び起こした。


 確か昔、絵巻物で見た絵の中にそういう山があった。山の頂上が爆発して、黒々とした噴煙と赤い炎が立ち上った恐ろしい絵だった。その絵巻物を見せてくれた天狗は怖い顔をして、こういった山には火の神様がおられると話していたはずだ。


「火の神がいると言われているのはその山があるからだ。と言っても、別に年がら年中火を噴いてるわけるじゃないが」


「なんだそうなのか。近くで見れるの楽しみにしてたんだけどな」


 九尾の言葉に白虎丸は少し残念そうな声を上げた。そんな白虎丸を九尾は鼻で笑う。


「ふん、近くで見た日にはお前なんか一瞬で丸焦げだろうな。いや、焦げるどころか生きたまま骨まで焼き溶かされるだろうよ」


「ひっ」


 九尾の残忍な物言いに、白虎丸は短い悲鳴をあげて沙羅の膝へ飛び込んだ。

沙羅は飛び込んできた白虎丸の頭を、子供をあやすようによしよしと撫でてやりながら、「もう。むやみに怖がらせちゃだめよ。と九尾に批難の声を上げる。だが九尾はそれに少しせせら笑っただけだった。多分白虎丸をからかうのを楽しんでいるのだろう。


「なあ、話が変わるんだが、美村鹿にもあやかしの集落はあるのか?」


 実はずっと気になっていたことを、葵は九尾に尋ねた。ひょっとすると、紫紺の次の標的は美村鹿なのかもしれないと思ったからだ。託宣を授けてくれた神が葵たちの目的をどうにかして読み取り、紫紺、もしくは彼の仲間が次に襲撃する場所を教えてくれたのではないのか。葵は託宣の内容をそう受け取っていた。


 九尾は少し間をおいて、考える素振りを見せてから答えてくれた。


「ある。火山の麓、いや地下だったか。そこに鬼の一族が住み着いている。といっても、俺がそこへ訪れたのはもう何百年も前の話だから、まだいるのかはわからんが」


「いや、いると思うよ」

 

不意に京介が口を挟んだ。


「美村鹿には鬼の国があると言われてる。多分そこじゃないかな」


「鬼の国?国と言えるような場所じゃなかったと思うが、俺が封じられている間にそんな御大層なものになったのか」


「多分ね」


 『国』とついているからには、おそらく相当規模の大きなあやかしの住処に違いないと葵は思った。京介もその存在を知っているようだし、紫紺も目をつけていたとしてもおかしくはない。


「じゃあ、とりあえずそこへ行こう。何かわかるかもしれない」


 葵の提案に、沙羅が振り返り「私もそうすべきだと思う」と主張した。


「ひょっとしたら次に狙われるのはそこなのかも。あなたたちが言ってた紫紺って人に」


 沙羅も葵と同じことを考えていたらしい。

 葵の後ろで京介も頷く。


「僕もそんな気がするね。この勘が当たりかハズレかはわからないけど、とにかく行ってみればわかるだろう」


「おいらも賛成だ。火山はちょっと怖いけどな」 


 皆の意見がまとまってきたところで、九尾が「じゃあ。」と言った。


「ひとまずそこへ向かう。速度を上げるから、宙に放り出されないようにしっかり掴まっとけよ」


 その言葉を合図に、九尾の飛行速度がグンと上がった。体に打ち付けてくる風が一層強まり、葵は体がそのまま宙へ持っていかれそうな感覚になる。沙羅が自分の腰に手を回してつかまるようにと言ったので、葵は彼女の細い腰に手を回して、体を密着させた。後ろの京介もそれに倣う。そうしていないと体が九尾の背中から離れてしまうのは、わざわざ説明されなくともわかった。白虎丸はというと、九尾の首元につかまる沙羅の腕の中に抱きかかえられている。


 さらに九尾は雲を突き抜けんばかりに高度を上げた。


 ここから美村鹿の鬼の国まで、どれほどの距離があるのか葵には見当もつかないが、できればこの状態が早く済んで欲しかった。

 別に高いところが怖いわけではないのだが、さすがにこの高さと速度では振り落とされないように必死でしがみつくのが精一杯で、優雅な空の旅と洒落込むには気が抜けなさすぎた。

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