第19話 記憶を映す泉

 夜空に浮かぶ丸い月を眺めながら、葵は大木の下で腕を後ろに回して仰向けにひっくりかえっていた。すぐそばでは京介と白虎丸が気持ちよさそうな寝息を立てて眠っている。


 森神と桜の君が姿を消した後、葵と京介は村人からお礼としてもらっていた食糧を少し食べ、これからどうするかを話し合った。話すうちに今日は色々あったから早く寝て疲れを取ろうということになり、今に至る。


 京介と白虎丸はすぐに眠りに落ちたのだが、葵はどうにも眠れなかった。体を硬い地面に横たえてからずいぶんと時間が経った気がする。昨日から今日にかけていろんなことが立て続けに起こり、疲れがたまっているのは明白なのにどうにも眠れぬのだ。その原因の一つはこの硬い地面のせいだろうと葵は思った。こんなに硬い地面に寝心地もあったものではない。そもそも葵にとって野宿は初めてだ。御山には天狗の館があるので寝る場所に困ることはなかったので、どうにも外で寝るのは落ち着かなかった。その点京介は慣れているのだろう。これまで旅をしてきて毎晩宿に泊まれるわけではなかっただろうし、おそらく野宿は経験済みだ。その証拠に京介はぐっすりと眠りこけている。その規則正しい寝息は眠れない葵からすれば腹の立つほど心地良さそうだ。


 葵はため息をつくと、立ち上がった。眠れないのにずっと横になっているかは、いっそのこと眠くなるまで起きていようと思ったのだ。といってもすることはない。地形もわからぬ森の中を適当にふらつくのは迷子になりそうだし、せいぜい大木の周囲をぷらぷら歩くしかない。


 歩き出した葵の目に、ふと泉が目に入った。ここへ来た時に鹿やうさぎたちが水を飲んでいた泉だ。そばには桜の木があり、時折その花びらを散らしては泉の鏡のような水面へ落としている。


 葵は何か惹かれるものがあり、その泉へ吸い寄せられるように近づいた。泉の水面は空に浮かぶ月の光を反射して光っているように見える。いや、よく見ると実際に光を発している。美しい瑠璃色の光だ。そこに薄桃色の桜の花びらが浮かんでおり、幻想的な美しさを醸し出している。昼間は何の変哲もない泉だったのに、なぜ今は、淡く美しい光をともらせているのだろうかと葵は思った。こんな泉は見たこともなければ聞いたこともない。


 そのままじっと水面を覗き込んでいると、水面に映り込んだ自分の顔がにわかにかき消えた。それと入れ替わるようにして別の顔が水面に映る。


 葵はハッと息を飲んだ。そこには見たことのある顔ぶれが映っていた。御山のみんなだ。だが何故かその顔はどれも幼い。するとその光景も消え、今度は椿丸を映し出した。その光景も消える。いくつもの光景が浮かんでは消えていく。浮かんでくるのはどれも断片的でまとまりがなかったが、見ていくうちに葵はだんだんこれが今まで自分が見てきた光景だとわかってきた。いわば記憶のようなものだ。なぜそんなものを泉の水面が映し出しているのかはさっぱりわからない。ひょっとすると自分は今夢を見ているのかもしれないと思った。眠れないと言う夢を見ているのであって、現実の葵は寝ているのかもしれない。


 そう思った時、水面に見覚えのある凄惨な光景が浮かび上がった。目を見張ると同時にそれは消えて、次に映ったのは黒い無数の帯状のものに体を貫かれ、血飛沫をあげて倒れ伏す椿丸の姿だった。そしてそれを嘲笑うかのように見つめる紫紺の姿。


 葵は思わず水面に手を叩きつけた。バシャンと音を立てて飛沫が上がり、水面に映る虚像はたちまち消える。葵はまるで全力疾走した後のように肩で息をしながらよろよろと後ろへ下がり、どさりと腰を落とした。


「椿丸.....」


 復讐心や頭領から与えられた任務、未知の世界、京介との出会い、休む暇もなくそうした出来事に翻弄されていたせいでどうにか考えずにいられたものが、今になってどっと葵の頭に押し寄せてきた。


 まだあの出来事からたった一日しか経っていないのだ。御山は傷つき、大勢の天狗が死に、椿丸も死んだ。葵の目の前で。まだそこから葵は立ち直れていない。そんな時に昨日の今日であの出来事を再び目にして、平気でいられるわけがない。


 葵はうずくまり頭を抱えた。荒い息とともに葵の口から怨嗟の言葉がこぼれる。


「許さねえ」


 全てを壊したあの男の顔が葵の脳裏を埋め尽くす。そして堪えようもない憎しみとともに、椿丸を始め死んでいった天狗たちにはもう二度とは会えない事実に胸を焼き焦がされる。もう絶えたと思っていた涙が今一度葵の頬を濡らした。葵はその涙を拭おうともせず、ただ頭を抱えて静かに一人泣く。


 その時、葵の鼻腔に甘く優しい香りが届いた。それと同時に葵の頬を伝う涙を誰かがそっと拭った。


 ハッとして葵が顔を上げると、目の前に桜の君の姿があった。桜の君は心配そうに葵を見つめている。桜の君の姿は淡く光を放っているように見え、とても美しかった。


 桜の君は少しためらいがちに口を開いた。


「この泉は、満月の夜に記憶を映す鏡となるのです」


 初めて聞いた彼女の声は鈴の鳴るように透き通った声色だった。その声の響きには聞く者を落ち着かせるような何かがあった。


「あなたは何か、お辛い記憶を見たのでしょう」


 その言葉に葵は泣き崩れる。自分でも情けないと思うほどに、口から次から次へと言葉

が落ちた。


「昨日の夜、目の前で大切な人がたくさん死んだんだ。大勢死んだ。殺されたんだ。あの男に」


 葵はギッと歯を食いしばった。


「俺は、そいつを許すわけにはいかない」


 絞り出すような声に、桜の君の体が震えた。桜の君は白い手を伸ばすと葵の頬を包み込むようにして触れる。そして囁くような声で言った。


「あなたは今、憎しみという感情に取り憑かれている。憎しみを抱くなとは言わない。だけど、それにとらわれてはだめ。私は知っている。憎しみにとらわれて自らを破滅に追い込んだ人を」


 桜の君はひどく物悲しい顔をしていた。葵はそれを涙で霞んだ視界で見つめる。


 葵が少し落ち着きを取り戻した様子を見計らってからしばらくして、桜の君は尋ねた。


「あなたはひょっとして、千歳山から来たのですか?」


「え?」


 どうしてそれがわかるのかと葵は思った。桜の君はそれに答えるかのように言葉を続ける。


「昨夜、千歳山の山神様が嘆いておられる声を、主様が、この地の森神様がお聞きになりました。山神様は、自身の宿る地に住まう天狗たちを守り切れなかったことをひどく悔やんでいたそうです」


「山神様が......」


 葵は御山にいるという山神の話を思い出した。小さい頃に、頭領が葵を交えた子供達に山神の話を聞かせてくれたことがある。


『山神様はいつもその優しい御心で御山を見守り、皆に加護を与えてくださっている。姿を見せることはなくても、常に御山に住む我々天狗や、その他の生き物や草木を愛でてくださっている。だから我々は山神様への感謝の気持ちを忘れてはならない』


 そんなことを頭領は言っていた。頭領だけではない。大人の天狗達は小天狗にそう言ったことをよく言い聞かせていた。いわゆる教えのようなものだ。そうした教えが根付く御山では、年に数度山神様に感謝し、楽しませる祭りとして競い飛びや武闘会、舞の披露などが執り行われてきた。


「山神様は、山を襲った者の力を抑え込もうとしました。しかしそれでも皆を守るのには足りないと判断して、その者に幻を見せたのです。その者が山を蹂躙し全てを滅ぼす幻を」


 葵は紫紺が御山にいる天狗を徹底的に滅ぼさずに去っていったことを思い出した。それでも被害は甚大だったので深く考えていなかったが、確かに不思議ではあった。この世のあやかしを全て消し去ろうと思っているからには、徹底的に館を破壊し、さらに生き残った天狗たちをあぶり出し殺そうとするはずだ。しかしそこまでのことはしなかった。桜の君の話によれば、それは山神様が紫紺に自分が山を蹂躙する幻を見せたから、らしい。つまり、紫紺は天狗たちを滅ぼしたと思い込んで御山を去ったということだ。


 思わぬ事実を知り、葵は目を見張る。


「じゃあ、生き残った天狗たちはみんな山神様に守られたのか」


「はい。そういうことです。それでも、全ては守り通せなかった」


 桜の君は目を伏せた。葵は再び地面へ顔を落とすとぽつりと呟く。また目から涙がこぼれた。声が震える。


「神様なのに、なんで全員守りきれなかったんだ。神様は強いんじゃないのかよ。なんで、なんで椿丸は死んだんだ」


 最後は半分叫んでいた。どうしようもない気持ちがせり登る。その時、一陣の風が吹いたかと思うと頭上から声が降ってきた。


「神とて万能ではないのです。望んでも守れぬ命もある」


 葵が頭上を振り仰ぐと、宙に浮かぶ森神の姿があった。二人の話を聞いていたらしい。


 森神はふわりと地面に着地すると、悲しげな瞳で葵を見つめた。


「私もこの森を預かる神です。よこしまなものが入り込まぬように時に結界を張ることもあります。しかし、たとえ死力を尽くしても邪な者から全てを守れるわけじゃない。山神は久しく使っていなかった力をふるい、御山を守ろうとしました。それでも犠牲者は出た。今、山神は己が守りきれなかった命を思っては泣いています。だからどうか、責めないで欲しい」


 葵は森神の言葉にうなだれた。自分の怒りが理不尽であることはわかっていた。山神を責めることが間違っていることもわかっていた。それでもやりようのない気持ちを抑えきれずにあんなことを言ってしまったのだ。そんな自分がひどく情けなく思えた。

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