第17話 大木

 木の根が張り巡り苔むした地面を踏みしめながら、葵と京介は白虎丸の後を追う。


 森の中を歩いていくうちに、この森がいかに豊かな森かわかってきた。


 青々とした葉を茂らせる木々。その合間から聞こえる楽しげな小鳥たちの鳴き声。木の上に、茂みに、地面の中に息づく生き物たちの気配。森の中はこうした生命の息吹で満ち溢れていた。何者をも温かに優しく包みこんでくれるような、初めて訪れる場所なのに不思議な優しさを感じさせる森。どことなく御山の雰囲気にも似ているような気がして、葵は早くも懐かしい気持ちになる。


「お〜い。お前ら早く」


 先に駆け出した白虎丸が後から歩いてくる葵と京介を焦ったそうに呼んでいる。京介は「別にそんなに急がなくても」と呆れたように言う。


 それからしばらく歩くと、先を行く白虎丸が立ち止まって振り返った。


「着いたみだいだ」


 葵と京介は白虎丸に追いついて、その左右に並び立つ。


 葵たちの視線の先は木々が開けていて広場のようになっていた。そしてその中央に、見たこともないような大きさの大木がそびえていた。


 葵はその木の姿に言葉を失った。口からはただ感嘆の息が溢れる。それほどまでにその木は神々しいほどの威厳を放っていた。


 樹齢は何百年か、何千年か。どちらにせよ気が遠くなるような歳月を経てきたにちがいない。木の幹は人間が何十人も連なって腕を広げなければ囲めないほどに大きく、背丈は天に届くのではないかと錯覚するほどである。空に広げた枝々は緑の葉に覆われ、その間を小鳥たちが枝から枝へと飛び回っている。


「これは、すごい」


 見惚れたように京介が呟いた。大木を見上げたままゆっくりと足を進める。白虎丸と葵もそれに倣った。


 大木に気をとられすぎて最初は気がつかなかったが、大木の前、ちょうど葵たちの正面に当たる場所に、出迎えるようにして石造りの鳥居が建っていた。ここに鳥居があるということは、その先は神域になっていることを意味する。大木の幹にはこれまた大きな注連縄が巻かれており、この木が神聖なものであることを示していた。


 葵たちはその鳥居の下をくぐって神域に入った。景色は変わらなかったが、葵は吸い込む空気が清浄に澄みきっていることに気づく。


 改めて大木の周囲を見渡すと、そばに桃色の花を咲かす桜の木と澄んだ水をたたえた泉が目に入った。泉の周囲には水底からコンコンを湧き出る水を飲みに鹿の親子やウサギたちが集まっている。動物たちはちらりと葵たちを一瞥するも、特に怯える様子はない。さらに驚くことに、草食動物たちから少し離れた場所で狼が四、五匹くつろいでいた。しかし襲う気配はない。それもここが神域だからだろうか。


 大木の根元にたどり着くと、京介は葵に言った。


「僕の予想は当たってたみたいだ。おそらくこのご神木がこの森の守り神だね」


 葵は大木を見上げる。


「この木が......」


 その時、ゴオと風が吹いた。風は大木から吹いてきたようだった。ざわざわと葉を揺らした風が幹を駆け下り地面にいた葵の髪を揺らして背後へ駆け抜ける。風が止むと、はるか上空の木の枝の間からハラハラと葉が何枚か落ちてきて、そのうち一枚が葵の頭に乗っかった。


 葵は不思議そうに自分の頭に落ちた葉を手に取る。今までそよ風程度の風しか吹いていなかったのに、急に力強い風が吹いたので不思議だった。


「歓迎します。人の子らよ」


 突然背後から響いた声に驚いて、葵はハッと振り返った。京介と白虎丸も不意打ちを食らったような顔で声のした方を向いている。


 一同の視線の先には、白い衣を纏った髪の長い青年がいた。彼の萌黄色の髪の間からは鹿のような角が生えている。人間でないのは確かだが、あやかしでもなさそうだ。ならば目の前のこの青年はおそらく。


 京介が目を見張り、その場に膝まづいた。


「まさか、この森の守り神ですか?」


 京介の問いに青年は頷いた。


「ええ。久しぶりに人の子が来たのが嬉しく、ついつい姿を現してしまいました」


 葵たちに優しげな眼差しを注ぐ森神の背後から、もう一人の人物がそっと姿を現した。そちらは若い女性の姿をしていた。薄桃色の衣に身を包んだその姿は絵巻物に出てくる登場人物のように美しい。艶めいた黒髪を背に垂らし、長いまつげに縁取られた憂いがちな黒い目を、控えめな様子で葵達へと向けている。その人形のように整った顔を見て、葵は思わず見惚れそうになった。見たことのない美貌に見入ってしまう。しかし女性の顔をまじまじと見つめるのは失礼だと考え直し、慌てて目をそらした。


 森神は現れた女性に目をやって紹介する。


「彼女は桜の君。そこにある桜の木の精です」


 そう言われ、葵は泉のそばに立つ桜の木を見やった。桜の木は今が盛りとばかりに花を咲かせている。桜の君と呼ばれた女性の美貌は、そんな桜の花のような優しく儚げなものだった。


「先ほど助けてくださったのはあなたですよね。感謝いたします」


 京介が桜の君に会釈をしてから、森神へ向かい直り深々と頭を下げたので、葵も「ありがとうございます」と頭を下げる。


「私は大したことはしておりませんよ。己の役目を果たしたまでです」


 森神は遠慮がちに言った。


「あの黒い鳥に森を荒らされたくなかったので、結界を張り、あの鳥だけを弾いたのです。あなた方は敵ではないと思い結界の内に招き入れました」


 京介の言っていたことが物の見事に的中していたので、葵は少し尊敬の眼差しで京介を見やった。


 京介は立ち上がる。


「その黒い鳥は、まだ森の周囲を飛び回っているようなのです。僕たちはあの鳥に狙われています。ですからどうか、ほとぼりが冷めるまでここにいさせてもらっても良いでしょうか?」

 京介の申し出に森神は「良いですよ」と穏やかに頷いた。


「この森に敵意なく訪れる者は、誰であっても大切な客人です。どんな事情があるのかは存じませんが、敵に追われているところを追い出すような真似はしませんよ。それに、もう日が沈みます」


 森神の視線につられて葵たちも空を見上げた。いつの間にか空は夕焼けで赤く色づいている。


「夜は邪な者の動きが活発化します。この森は私の加護によりそういった者からは守られていますから、ここでゆっくりと休んでください。では」


 そう言うと、森神は自身の本体である大木へ目を向けた。その瞬間、森神の体が淡い光に包まれ、姿を美しい光の筋と変えて大木へと吸い込まれるようにして戻っていった。その時再びゴウと風が吹いて、葵と京介の髪と衣をはためかせる。それに気をとられてから後ろを振り返ると、桜の君の姿もまたどこかへ消え失せていた。

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