校則と行事について

 校則はよく「学校の過剰な子供への介入」の代表として扱われる。ブラック校則などという言葉もできたし、それを扱ったドラマなども多い。

 校則についての話でよく言われるのは「校則を作らないと生徒が荒れる」「秩序がなくなる」というもの。しかしこれに関してはもはや校則を維持する言い訳にならなくなってきている。

 東京都世田谷区にある桜丘中学校は、校則を全てなくしたことで一躍全国に名を知られた。

『理由を考えずに「校則にあるから」と、そこで指導は終わってしまいます。一方、生徒に聞かれた時に「汚れたときにわかりやすいから」と説明すれば、そこから話し合いが始まります。結果、合理的な話し合いを重ねることで信頼関係ができてきます』

 そう語るのは校則をなくした張本人である桜丘中学校の校長、西郷孝彦氏。西郷氏がこの学校に赴任した時には、この学校は荒れ模様だったそう。しかし、規則に沿って授業が受けられない発達障害の子たちに合わせて全体の校則を緩和させていったところ、むしろ生徒たちが「自分で考える」ようになったと言う。

 しかし、当然「自由」を手にするということは「責任」を持つということ。

『日本は法治国家です。この学校に校則はないですが、日本の法律には縛られています。例えば、校内でも他人のものを勝手に自分のものにすれば、窃盗罪ですよね。誰かを傷つければ傷害罪です。よく「学校の中は治外法権だ」とか、「学校だから許される」と言われますが、それはやめようと。社会と同じ規則で学校も回っています』

 このように、実際に校則がなくても学校が成り立ち、下手をすれば他の中学よりも成長することが実証されてしまったのである。校則に関する議論には必ずこの例を挙げようと、私は常に心に留めている。


 もう一つ、学校行事にも触れておく。学校行事も教育において無意味ではなく、子供たちの一定の影響を期待されて行っているものである。それを分かりやすい形で調べているものを見つけた。恐らく校内で配られるお便りのようなものらしく、詳しいことは分からないのだが、当時小学校の教諭であった後々陽子氏が書いたもののようだ。

 簡単に言えば各行事などでの「感じたこと」のアンケートを取り、その結果をまとめている。すると、低学年では一番多い回答が「褒められてうれしかった」という自己承認についての感情だったのに対し、中学年では「次も頑張りたい」というような「積極性、自主性」が強く出ている。そして高学年は「みんなで頑張った」という「連帯感」ややりきったという「達成感」が強かった。

 ここで少し驚きなのが、各層によって得るものが全く異なるという点である。大人の目から見ると、体育祭なら「体力をつけるのことと連帯感を持たせるのが目的だろうな」、文化祭なら「創造性と連帯感を高めるためかな」などとある一点(あるいは少数)の目的や成長を思い描きがちだと思われる。しかし実際のところは行われた行事から得るものはそれぞれバラバラであったのである。当たり前と言えば当たり前ではあるものの、同じ事象によってこうも綺麗に差が出るのはやはり面白い。ついでに言えばそれぞれの回答がことごとくそれぞれの発達段階の課題に関連していることも非常に興味深いところである。

 教育する側になると、何かとゴールや目的を固く決めがちではあるが、とりあえず子供たちに与えてみて何か得られるものを探すというのも時には必要なのかもしれない。


参考

授業プリント(第六回)

NHK番組「ウワサの保護者会―校長先生 中学校を変える―」

文春オンライン「校則がないからこそ、教師と生徒は対等に話し合うことができる――西郷孝彦校長インタビュー」

(https://bunshun.jp/articles/-/12217)

後々陽子(2008)「学校行事ではぐぐまれる力」

(file:///C:/Users/sodaj/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/GQ5KGOZZ/t080201.pdf)


※以上で授業課題レポートは終わり

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