「みんな同じに」論

※ここからは学校の課題で書いたレポートの紹介になります


 私が学校生活を振り返って一番根強く心に残っているのは、「できるだけみんな同じに」という指導である。これについては幼稚園時代からあって、例えば登園時間やお昼ご飯の時間が決まっていたり、「レクリエーション」といった形で全員で同じ作業、遊びをしたりする。小学校に上がるとその傾向が強まり、一日の時間割が決められ、多数のルールを与えられ、授業もクラス単位で同じ授業を受けることになった。私自身、特にそれを気にしてはいなかったのだが、高学年の頃になると個々の学力レベルに差が付きはじめ、「あなたは勉強ができすぎるから周りに合わせてあげてね」というようなことを言われ、初めて「同じ」であることに違和感を抱いた。その後、高校に進学したところで、その違和感は途切れることはなかった。


 この「みんな同じに」という考え方の根拠はいくつかありそうだが、一つには「社会化」を目指した指導の一環ということが言える。当然、人間は社会の中で生きていくことになるわけだが、少なからず「他人に合わせる」ことができなければ「社会に対応できない」ということになってしまう。平たく言えば協調性と言うことになるわけだが、子供たちが学校生活を通して『社会に適した行動パターンを習得し、その社会に適応していく(第二回授業プリントより引用)』ためにそのような指導をしているのであろうことが考えられる。

 しかし、その「社会化」について間違った認識を持つ教員が少なくないこともまた事実である。例えば、近年校則についてよう騒がれているが、校則に違反したりするとよくこんなことを言われる。

「そんなんじゃ社会に出てやってけないぞ」

 私のような人間などは非常に言葉の端々が気になるので「社会ってそもそも『どの社会』を想定しているんですか」と問い詰めたくなってしまう。特に髪の毛の色を染めたとか、赤いリップを塗ったとか、その程度学校以外の「社会」では認められているではあるまいか。もちろん、「ルールがあるのだからルールを守りなさい」というならばまだ分かる。しかし唐突に社会を引き合いに出してくる教師は悲しいかな多いのである。

 また、もっとひどい拗らせ方をした教師もいる。

「当たり前でしょ」

 これもよく聞くフレーズである。大抵これは「自分の意に添わなかった」という意味なのだが、つまり本人にとっては「自分=社会」という構図が成り立ってしまっている。言い方を変えれば、そもそも本人が社会化されていないのである。社会化されていないがために自分の意見や考えを押し付け、求めてくる。これは組織でも起こり得ることで、例えば教育委員会などの組織は他の組織との関わりが薄いためにガラパゴス化するというのはよく言われていることである。学校が浮世離れした校則を続けていたり、社会から非難されてもなかなか変わらないのはそういう理由が大きいだろう。


 次に考えられる理由としては、学級を簡単に、かつ円滑に回すためということである。つまりは教師側のストラテジーによって無理に枠に押し込めようとしている可能性がある。当然、できるだけ小さい枠に収めておいた方が管理はしやすい。教師の労力を最低限に抑えるためには、子供の感情を抜きにすれば一番てっとり早いと言えるだろう。上に挙げた「ブラック校則」もそういう意味合いを持っているだろう。もちろんそのような「行き過ぎた画一化」はなされるべきではないのだが、場合によっては理由があってそのようになっていることもあるだろう。

 その理由の一つとして教師の多忙が挙げられる。文部科学省の『教員勤務実態調査(平成28年度)』によると、平日の勤務時間が小学校では11時間15分、中学校では11時間32分となっている。さらに持ち帰り残業も含めると小学校では11時間44分、中学校では11時間52分に達する。このような実態から、教員が子供に割けるような時間も労力もない可能性が考えられるのだ。日本では指導と言う言葉によって『学校内のすべての営みを教育的に意味づけ、教師の本来的役割に含めてしまう(第10回授業プリントより引用)』わけだが、教員の行う業務の内容に関してはよく吟味した上で生徒・児童への指導に影響が出ないようにせねばならない。


 大阪市立大学の教育学論「学校教育における画一性と任意性」において、教育者澤柳政太郎の言葉を引用しつつ、次のように述べられている。

『柳は「任意の教育」があることを認めつつ、義務教育に関しては「画一」であるべきとした。ただし沢柳がその「画一」の質を問うていたことは看過すべきではない。「義務教育と、任意教育との二方面に依って、此の画一打破といふことを吟味するやうにせねばならぬ」という 。』

 当然、学校において、そして社会において「何でもかんでも自由」というわけにはいかない。しかし、教育者は度々『「画一」の質』について失念してしまうことが多いのではないだろうか。再度「社会において求められること」と「個人の自由性」について、バランスの取れるラインを探るべきなのではないだろうか。


参考資料

授業プリント(第2,10回)

文部科学省「教員勤務実態調査(平成28年度)の分析結果及び確定値の公表について(概要)

(file:///C:/Users/sodaj/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/6ZM6RNQ2/1412993_18_1.pdf)

柏木敦(大阪市立大学)「学校教育における画一性と任意性」(file:///C:/Users/sodaj/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/6ZM6RNQ2/21894698-4-1.pdf)

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