妊娠三か月

音水薫

第1話

 青年は鏡に映っている女に見蕩れていた。それは、女装した自分の姿だったが、理想の女性、今の片想いの相手によく似せていた。女になりたかった彼は実家で暮らしていたときにできなかったことを思う存分、誰にも邪魔されることなく行い、ワンルームマンションの一室で悦に浸っていた。

 青年が鏡に口づけすると、薄く塗られていたリップクリームが跡として残った。彼はそれを愛おしげに指で撫で、鏡に頬ずりしながら、肩甲骨まで伸びた自分の髪をひと束掴んで匂いを嗅いだ。

 少し前まではポリエステル製のカツラをかぶっていたのだが、それは感触が悪く、なにより彼女と同じシャンプーの香りが楽しめなかった。

 彼は名も知らぬ片想いの相手とすれ違うたび、風になびく彼女の髪の香りを覚えようとした。そして、ホームセンターの売場にあるサンプルをひとつずつ入念に確かめ、不思議そうに彼を見つめる幼女の視線も問題とせず、彼女が使っていたシャンプーを突き止めた。同じシャンプーを使っていると、ひとりでいるときも常に彼女と同じ匂いがつきまとい、青年は嗅覚を刺激されるたびに起こりもしていない愛の営みを思い出してにやついた。


 ある日、青年は昼休みに大学の食堂で昼食をとった。そこに行けば必ず片想いの彼女に会える。

 パーカーのフードをかぶって長い髪を隠していた彼は注文したカレーを受け取り、会計を済ませたあと辺りを見回した。いつも四、五人の友人と騒いでいる彼女にしては珍しく、ひとりでぽつんと出入り口の近くの席に座っていた。彼女の目の前には大学の斜向かいにあるスーパーのレジ袋があった。以前からこういうことは月に一度か二度はあった。今日がその日なのだという以外、青年が気にすることは何もなかった。

 彼は彼女に気づかれないようにするため、食堂の中央に位置し、彼女をずっと眺めていられる席を選んだ。先に座っていた人たちは、いきなり隣に来た青年を怪訝そうに見やったが、すぐに興味をなくし、友人との会話を再開した。青年はカレーをスプーンでひとすくいするが、できるだけ彼女と長く居るために、すこしずつついばむようにカレーを食べた。

 彼女は食堂の長い列に目をやり、諦めたように自分の袋をいじり始めた。袋から出てきたものは卵だった。ひとパック六個入りの生卵。彼女はパックの封を切り、卵をひとつ取り出して片手で弄んだ。

 彼女は卵をテーブルの角に軽くぶつけてひびを入れた。それから上を向いて口を大きく開け、その上に卵をかざし、片手で卵を割った。中身がでろんと出てきて彼女の口に落ち、量の多かった白身は三分の一ほど収まりきらず、彼女の口から溢れ出た。彼女は空いていた手を喉元に添え、流れてきた白身を受け止めた。

 上を向いたままの彼女は卵を飲み込もうと躍起になり、うぐ、うぐ、と声ともいえない声を出しながら、咀嚼することなく飲み込んだ。正面を向いた彼女は息が荒く、目には涙が浮かんでいた。

 彼女は手に溜まった白身をすすり、指を丹念にしゃぶったあと口元を拭い、殻を袋に捨てた。その一部始終を見ていた多くの学生たちは声を潜めて笑っていた。彼女はその声を物ともせず、ちらちらと食堂のレジを気にしていた。

 一人の男がカレーを持ってレジを離れると、彼女は表情を明るくし、居住まいを正した。カレーを持った男が彼女の向かいに座ると、二人は一言二言なにか話した。彼女は再び卵を手にし、向かいの男に見せつけるように、先ほどと同じ食べ方で卵を食べた。

 彼女を面白がっていた周りの人間はスマホを構え、その様子を撮影していた。青年も、彼女の写真が欲しい、と思ったが、自分はあの低俗な野次馬たちとは違う、同一視されたら困る、と無関心を装ってカレーを食べた。

 青年は彼女の向かいに座っている男を羨ましいと思ったことはない。いくら物理的な距離が近くても、本物の彼女は自分の中にいる、と確信していたから。


 生まれて初めて講義をサボった青年はスーパーの袋を携えて帰宅した。彼はなにかに急き立てられるように靴を脱ぎ捨て、ベルトを外しながらクローゼットに向かった。そこの奥には想い人によく似合いそうな、青年が彼女のために見繕った服があった。当然のことながら、サイズの大きすぎるその服は、彼自身がこの部屋で着るために作ったものだった。その服に着替えた彼はスマホのカメラの動画モードを起動し、ティッシュ箱に刺した。レンズを自分に向けて位置調整し、ファンデーションやリップだけの軽い化粧をして、持って帰ってきた袋から卵をひとパック取り出した。生卵をひとつ選び取り、撮影を開始した。

 青年はテーブルの角に卵をぶつけてひびを入れたが、片手で卵を割ることができなかった。何度か試してみても、力加減を間違えて握りつぶしてしまう。仕方がなく両手を使うと、高く掲げすぎたせいで位置がずれ、中身は彼の眉間に落ち、鼻筋に沿うように滑って床に落ちた。

 青年は舌打ちし、付着した白身を指で拭い取った。まるで精液をぶっかけられた気分だ、と挫折しそうになったが、卵の中身をコップに移し、そのコップがカメラに映らないようにして卵を落とせばいい、と妥協案を思いついたので、いそいそとコップを準備し、撮影を続行した。

 その案は成功し、カメラには画面上から突如現れた卵が彼女の口に向かって落下していく様子が映っていた。白身が溢れ出し、喉に添えた手に溜まっていくようすも、指をしゃぶる下品な仕草も、昼休みに見たときのまま再現されていた。

 うまくいったことを喜んだ青年は納得のいく映像が取れるまで実験を繰り返し、卵が尽きたときには片手で卵を割り、狙った口に落とせるまでになっていた。彼女もこの技を習得するため、苦労したんだろうな、と彼はゴミ箱に盛られた卵の殻を見て、しみじみと思った。

 女装をやめて着替えた青年はスマホをパソコンに接続し、撮り終えたばかりの動画を見ながら自慰行為に耽った。そのとき、彼は飛び散った精液を指ですくい取ってぺろりと舐め、すぐさま吐き出した。これは女装してから鏡の前ですべきだ、と席を立って洗面所に行き、手を洗った。


 翌日、青年は異様な倦怠感に襲われ、ベッドから出ることができなかった。熱っぽくて喉が渇く。だというのに唾液は溢れ出て、鼻水も垂れ流しになる。卵を食べ過ぎたせいで腹を壊したのだろう、食中毒ではなければいいけれど、と這うようにトイレに向かったが、便が排出されることはなかった。今まで経験したことはなかったが、これが便秘というものなのだろう、と排泄を諦めた彼はトイレから出た。

 翌日も翌々日も体調が快方に向かうことはなかったが、一度や二度休んだ程度で単位が危うくなるような出席率ではない、と一週間自宅で療養した。


 一週間後の朝、吐き気を覚えた青年はトイレに駆け込んだ。幸いなことに、食欲不振のために前日から何も食べていなかった彼が何かを吐いたところで、周りが汚れるようなことはなかった。

 体調が安定し始め、突然襲ってくる吐き気以外には問題がなくなったころ、これ以上の無断欠席は得策ではない、と思った青年は大学に行くことにした。出席率も心配だが、それ以上に片想いの彼女に会いたかった。

 服を脱ぎ、姿見に映った青年の腹は膨れていた。妊娠だ。とうとう自分も女になったのだ、と達観したような態度で腹を撫でた。あまり大きくなると困るが、今はビール腹の中年と大差ない、と着替えて大学に向かった。


 人間の妊娠期間は十月十日というけれど、青年の腹は三週間もすると臨月を迎えていた。

 臨月を迎えて陣痛がひどくなっていた青年はベッドにうずくまり、多くの女性が経験することを、同じ女である自分が我慢できないはずはない、と何度も気を失いそうになりながら、その痛みに耐えていた。

 つわりと同様の吐き気を催した青年は、来た、と思った。胃からせり上がってくるものには胃液ではありえない確かな重みがあり、青年は喉を破裂させんばかりに膨らませ、頭から順に、肩、胸、手、脚と、逆子ではなかったことを幸いとし、時間をかけて少しずつ吐き出した。

生まれてきた子は片手で抱き上げられる程度の大きさだった。羽毛に包まれていたその子は髪の代わりにトサカを生やし、歯の代用品としてくちばしを持っている、ごく普通の子供であった。

 ただひとつ問題があるとすれば、顔の側面についた目が濁っていて、産声を上げることもなければ、呼吸することもなかったということくらいである。


 赤子が腐る前に焼いて食べた青年は、次は流産してしまわぬように、と細心の注意を払いながら、次の子を宿すためにワンルームマンションの一室で生卵を食べ続けている。

あわよくば、彼女に似た可愛い子がいい。

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妊娠三か月 音水薫 @k-otomiju

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