第4話
私はむかしから、三毛猫先生の声だけが聞こえた。ほかの猫がなにを言っているかはわからない。中学三年生になったとき、受験に対する漠然とした不安をよく話していた。下校の道すがら公園を覗くと、そこに先生は居たし、忙しくて公園に行く暇がないときは自宅まで会いに来てくれた。
ある夏の日の放課後、私はいつもどおり公園で先生に愚痴っていた。
「お母さんが塾行けってうるさいの」
「しゃーないやんけ。赤点とったんはお前やろ」
斜陽を浴びている先生は顔を洗った右手を舐めながらそう言った。私はベンチにもたれ、背を伸ばした。目の前で向日葵が咲き乱れていたというのに、見蕩れることはなかった。歳を重ねるたび、自然の美しさに鈍くなっていく。このときは鈍感のピークだった。
「先生もそう言うんだ。味方だと思ったのに」
「わしは味方やからゆーとんねん。っと」
じゃあの、と言いながら先生はベンチから飛び降り、公園から出ていった。
「もう、まだ終わってないのに」
「にゃんことお話? 楽しそうね」
私が振り向くと、そこには私が通いたい高校の制服を着ている女生徒がいた。見られたことに私が慌てていると、その人は隣に座って微笑んだ。そこはさきほどまで先生が座っていたところなので、茜色の光が彼女に降り注いでいた。一瞬、彼女は顔をしかめたけれど、いまさら席替えするのは格好悪いと思ったのか、上げかけた腰を下ろして私に微笑みかけた。
「にゃんこのことば、わかるんだね」
私は顔が熱くなっていくことを自覚しながらうなずいた。けれど、目を細めていた彼女からは見えていなかっただろう。
「なんて言ってたの?」
「えと、赤点取ってるなら塾に行ったほうがいいって」
その人は私の言葉を聞くと、噴き出して笑いだした。前屈みになり、額を膝に押し付けるような体勢だった。
「にゃんこ、現実的なんだ」
しばらく笑い続けていたが、やがて落ち着き、涙を拭った。そして、ようやく夕日を遮る方法を思いついたらしく、持っていた学校指定の鞄をかざして影を作った。
「よしよし、にゃんこのアドバイスを邪魔しちゃったんなら、受験の先輩であるわたしが助言をあげよう」
えへんぷい、と胸を張ったその人は質問がくるのを期待したような目で私を見た。初めてまともに見たその目は黒の比率が高く、私は吸い込まれてしまいそうで動揺した。
「じゃあ、先輩の高校についてなんですけど」
この人がユリさんだったことは言うまでもない。思い返せば、この時点で彼女は奇人の片鱗を見せていたようだ。
塾で忙しくなった私はあまりユリさんと会うことはなかったが、先生は定期的に私の家を訪ねてきたので、よく悩み相談した。
「英単語、全然覚えらんないよう」
「ボールペン一ダース使いきるぐらい書き取りしたらええんとちゃう?」
先生はいつも冗談めかして、学校の教師以上の難題を吹っ掛けては笑い、私の緊張を解いてくれた。
しかし、受験まであと二か月を切ったころ、私の点数は思うように伸びず、教師やお母さんと喧嘩することが増え始めた。こっちは睡眠不足になるくらい夜遅くまで勉強しているというのに、大人はなにもわかってくれない。
私は塾をサボって、久しぶりに公園に来た。先生を膝に乗せ、愚痴をこぼした。けれど、先生はなにも答えてくれず、せいぜいにゃーと鳴くだけだった。
「先生、なんで喋ってくれないの? 私が駄目だから?」
先生の背中に触れて揺さぶると、彼は私の膝から逃げて行ってしまった。私はひとり、そんな暗い気持ちを抱えながら、ベンチで膝を抱えて泣いていた。
「やっほー。ひさしぶり」
そんな声が降ってきたと思うと、温かい手が私の頭を撫でてくれた。
「こんなところにいたら風邪ひくよ。先生は?」
私が泣き顔をあげると、ユリさんは慌てたようにあたりを見回し、ポケットを探った。ハンカチが見当たらなかったらしく、自分が巻いていたマフラーで私の鼻水を拭った。
「先生じゃないけど、聴くよ? 先輩だからね」
ユリさんは温かいココアを二つ買ってきて、私の隣に腰掛けた。もこもことしたマフラーには、いまだ私の鼻水がてらてらと光っていた。
「はい、飲みな」
缶を受け取った私はタブを開けることなく、冷え切った指を温めた。じんわりと温度が伝わってきて、凍ったものがすべて融けだしていった。
「先生の声、わからなくなっちゃった。私が駄目で、愚痴ばっか言ったからかな」
ユリさんはココアを一口飲み、缶のふちをかじりながら何事かを考えていた。やがて口を離すと、片手で私を抱き寄せ、私の頭を自身の肩にもたせかけた。
「もしかしたら、君が大人になったからかもね。いや、大人になろうとしてるから、かな」
彼女は私の髪をくしゃりと撫で、静かな口調で語り始めた。どこからか漂ってくる甘い香りはユリさんのものなのか、ココアなのか、私には思い出すことができない。
「そういう時期ってさ、いろんなものから卒業していくんだよ。寂しいけれどね。わたしもぬいぐるみなしで眠れるようになったの、そのくらいのときだったし」
「なんで、卒業しようって思ったんですか?」
「引っ越しのときにさ、お母さんが間違えて捨てたんだよ。ぼろぼろだったしね。久しぶりに泣いたよ。生まれたときから一緒にいたからね。でも、その日は普通に眠れちゃったんだよね。寂しかったな、その子を裏切ったみたいで」
あのとき、ユリさんは泣いていたのだろうか。それを見られたくなかったから、私を抱き寄せたのかもしれない。
「悩み真っ盛りの君が先生からすぐに卒業は難しいかもしれない。だからさ、私が代わりになるよ」
ユリさんはそう言って、私を抱く手の力を強めた。私は彼女に身を預け、もたれかかった。
とても単純だけど、私はこのときユリさんに恋をした。女同士で、思春期特有の疑似恋愛と言われても構わなかった。もちろん、本人に告げることはできなかったけど。
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