第3話

一枚のデッサンを完成させたとき、時間はすでに一時間ほど経過しており、もう夕方を迎えようとしていた。

 私が一息ついたとき、橘さんは私のノートを覗き込んできた。距離が近い。

「シャーペンでそれだけ描ければ上等だね」

 橘さんはそう言って親指をたてた。けれど、彼の絵と比べてしまうと見劣りしてしまう。

「そりゃそうさ。大学に入ってから何百枚も描いたんだから、遜色なかったら困るよ」

 彼は白い歯を見せて笑った。それから、デッサンにおける陰影や濃淡の出しかたなど、私ができていなかった基本的なことを指摘し、レクチャーしてくれた。私のノートは少し手を加えただけなのに、見違えるようだった。橘さんは腕時計をちらと見た。

「その猫、飼ってるの?」

 橘さんはスケッチブックを閉じ、道具を片づけながらそんなことを口にした。あきらかに「まあ、雑談ていどの話ですよ」という風を装っていたけれど、目には好奇心が見て取れた。

「いえ、野良ですよ」

「話してたから、仲いいのかと思って」

 見られていた。本来なら、少々痛い子くらいにしか思われないのだろうけれど、私にとってこの状況を知られるのはあまり好ましくない。そう思っていたせいで、私は反射的に勢いよく橘さんのほうに顔を向けていた。

「そんな、目見開かなくても。猫と話すくらいみんなやるって。恥ずかしくない恥ずかしくない」

 私と顔を合わせた橘さんは驚き、フォローしてくれたが、私の場合は事情が違う。

「ああ、百合之江が話してたんだけど、猫と話す後輩ってもしかして君のこと?」

 橘さんは思い出したように言い、笑ってなんとか場の空気を戻そうとした。けれど、私はそれをギャグのように扱うことはできなかった。

 ユリさんの恋人なら、いいのかな。

「私、猫と話せたんですって言ったら、信じてくれますか?」

「ええと、それは親馬鹿ならぬ飼い主馬鹿的な意味で?」

 橘さんは戸惑ったようなようすだったが、笑って流そうとはしなかった。私の真剣さを汲み取ってくれたのだろうか。

「いえ、そのままの意味です。コミュニケーションがとれるっていう意味で」

 橘さんは顎に手を当て、少しの間考えていた。

「夢があっていいよね。面白そうだし。でも、信用するかどうかって言われると微妙かな。ギャグならともかく、君が真剣なら尚更ね」

 私はその言葉を聞いて安心した。この人は真面目に私の話を聞いてくれる。おざなりで同意して適当に扱う人とは違う。私は橘さんに促され、過去の話を始めた。

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