第2話
食事を終えた私たちは三人で、ユリさんの作品を見るために作業室に来ていた。ユリさんはよほど作品を見せたかったのか、私の手をとって作業部屋までぐいぐいと引っ張った。私が通路の段差で転びそうになると、橘さんは反対の手をとって私を支えた。ユリさんがしでかしたことのフォローに慣れているのか、二人のコンビネーションはばっちりだった。いや、私を使ってそんなものを見せつけられても困るのだけれど。
「広い。個室ですか?」
アグリッパやブルータスの石膏像が置かれ、壁には歴代の先輩たちが描いたであろう作品が飾られていた部屋は高校の美術室よりも広かった。けれど、出ているカンバスがひとつだけだったことが気にかかり、あり得ないと思いつつ質問してみた。
「まさか。学年関係なく共同で使ってるよ」
「今回の課題、わたしだけ手間取ってるんだよ。みんな完成させて片しちゃったから、ひとつ残ってんの」
筆が速かったユリさんにしては珍しい。私はその絵に歩み寄った。中心に大きく描かれた花弁の多い白い花が印象的、というか、花以外は背景も描かれていなかった。
「花を中心に置くのはあざといかな」
「締め切り近いのに、まだ描き直す気かよ」
橘さんはあきれたような突っ込みを入れたが、二人は次の瞬間から真面目な意見を言いあっていた。
「花の特性を考えると、目立ち過ぎるのは違くない?」
「でも、だからこそ力強く咲かせたいっていうか。あーでも、儚さがこの子の美しさなのかな」
二人が真剣な議論を交わしあうと、私は置いてきぼりにされてしまった。こんなにも綺麗に描かれているのに、それだけで満足しないなんてさすが芸大生。向上心が高校の美術部ていどとは違う。描いたら描きっぱなしで見直すことさえしない私はここに入ってもうまくやっていけるのだろうか。
私は絵を見つめ、長く描かれた花のがくに触れてみた。絵の具はすでに乾いており、指に色移りすることはなかった。さらさらとした肌触りは自分にとって身近なものとなんら変わりなく、焦燥感に駆られかけた私の心を落ち着けてくれた。
「あ、ほったらかしにしてごめんね」
「いえ。ところで、この花ってなんなんですか?」
もし感想を求められても平凡なことしか言えそうもなかったので、先を制して質問した。
「月下美人。サボテンの花だよ」
聞いたことがある。一年に一度だけ、夜にしか咲かない花だ。
「探すのに時間かかったんだよね。その日の朝にはしぼむから、記憶を頼りに描かなきゃだし。写真見ながら描くのは嫌だったし。けど、変になってないかな」
なぜだかこの花に親近感を覚えた。どこか私に似ているからだろうか。自分が美人だとは言わないけれど。
「育てかた次第では、年に二回咲くらしいけどね」
橘さんはそう言って、月下美人のロマンチックな迷信を台無しにして笑った。ユリさんはその事実を知りたくなかったようで、彼のすねを何度も蹴った。怒っているはずなのに、彼女の顔はほころんでいた。
私が見たことのない笑顔。
蹴られていた当人の目には慈しみがこめられており、今の時間が掛け替えのないものだと思っていることが容易に察せられた。
私もこうして気安くじゃれあうことができたらいいのに。
「こんにちは、先生」
大学の見学に行った数日後、私は行きつけの公園にいた。
多くの遊具に「使用禁止」の張り紙がされており、侵入できないようにロープが巻かれていた。そのせいで近所の子どもたちが遊びに来ない、寂しい場所だった。しかし、この公園は夏になると花壇いっぱいに向日葵が咲く。小学生のときから絵を描くことが好きだった私はよくここでデッサンなんかをしたものだけど、今回はそれが目的ではない。先生に会って話がしたかった。
先生はにゃーと鳴いて、私が腰掛けていたベンチに乗った。先生とは、私が勝手につけた野良三毛猫の名前だ。私が頭を撫でてやると、先生は喉を鳴らして私の太腿に頬ずりした。ひぐらしの声が近くから聞こえたが、私の話を邪魔するほどの音量ではなかった。
「先生あのね、私、この間オープンキャンパスに参加してきたよ。でね、そこでユリさんに会えたの」
先生はいつでも私の目を見て話を聞いてくれる。友達にも話せない私の秘密。
「それでね、絵がすごかった。レベル違うなって思ったし。しかも、それで満足してないの。もっといいもの描こうって、さすがだよね」
先生はにゃーと鳴いて相槌を打ち、先を促した。しかし、私は二の句が継げなかった。
「えっと、それでね、全然追いつけないなあって」
私が落ち込んでうつむいていると、先生は私の膝に乗って見上げてきた。にゃーと鳴くその声はむかしのように、大丈夫や、と言ってくれているようだった。
「ありがと、先生」
「あれ? 先越されちゃったか」
男の人の声が聞こえ、振り返るとスケッチブックを持った橘さんがいた。数日前に見たときと同じ服を着ていた。奇抜な服装が芸大生の特徴だと思っていたけれど、橘さんはその例からは漏れるような地味めの服装だった。白いワイシャツに茶色いチノパン。まるで苦学生だ。先生は私の膝で丸くなった。
「邪魔しちゃったかな」
眠ってしまった先生を起こさないように頭を振って否定すると、橘さんは安心したように笑った。
「隣、座っていいかな。あ、俺のこと覚えてる?」
私は首肯し、少し端に寄った。先生が尻尾で私の膝を叩いた。機嫌を損ねたのだろうか。
「去年も見たけどさ、ここの向日葵すごいよな。ついスケッチしたくなる」
橘さんはスケッチブックを開いた。鞄から取り出した筆箱から鉛筆を選び取り、白紙の上にそれを走らせた。向日葵が描かれ、みるみるうちに紙は黒くなっていく。
それに影響された私は鞄からノートを出し、シャーペンで向日葵を描いた。
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