月下美人

音水薫

第1話

 生卵を食べていた。

 ある夏の日、私はオープンキャンパスに参加するため、自分が志望している芸術大学に来ていた。お世話になった高校の先輩、百合之江さんと構内で再会し、ランチを一緒にすることになった。

彼女がお弁当を持参していると言うので、私は一人で学食の列に並び、カレーを注文した。トレーにお皿を乗せてユリさんが確保した席に向かうと、彼女は生卵を食べていた。

「それ、お昼ですか?」

 私がトレーをテーブルに置きながら質問すると、ユリさんは卵の殻をナイロン袋に入れた。袋の中には一パック六個入りの卵が五つ残っていた。

「好きだからね、卵」

 上手く返事ができなかった私は椅子を引いて対面に座り、ユリさんの動向を見守った。

 彼女は二つめの卵を手に取り、テーブルの角に軽くぶつけて卵にひびを入れた。それから上を向いて大きく口を開けながら、そこに照準を合わせるように卵を顔の上にかざした。片手で卵を割ると、でろんと出てきた中身はユリさんの口に落ちていった。量が多かったのか、白身が三分の一ほど口からあふれ出た。ユリさんは空いていた手を喉元に添え、それを受け止めた。

 彼女は上を向いたまま、卵を飲み込もうと躍起になっていた。うぐ、うぐ、と声ともいえない声を出しながら、咀嚼せずに飲み込んだ。正面を向いたユリさんは息が荒く、目には涙が浮かんでいた。

 彼女は卵の殻を袋に入れ、手にたまった白身を蕎麦のように音をたててすすった。細くて白い指の間に付着した白身を舐めとり、一本一本指をしゃぶっていく。私はその下品極まりない動作から、一度も目を離さなかった。ユリさんがいくら奇行に走ろうとも、見目麗しい清楚系の外装に傷がつくことはない。少なくとも私は、それさえも魅力であると思う。

「もう少し驚くなり、笑ってくれるものだと思ってたのに。ほかの人には結構ウケたんだけどなぁ」

 ユリさんは唾液にまみれた手を見つめながら、私を非難するようにつぶやいた。

 私は惰性で謝り、ようやく自分のカレーライスに手をつけた。そこまで時間は経っていないはずだったけれど、冷房の風が直接当たる位置だったせいか、カレーには薄い膜が張ってあった。

 スプーンで一口すくって食べた。口の中にカレーの味が広がるが、あまり辛さを感じない。私は基本的に甘口が好みなので安心した。大学生が食べるカレーはどんなに辛いのだろう、と心配していたことは杞憂だったようだ。

「美味しい?」

 ユリさんは頬杖をつき、興味なさげに訊ねてきた。彼女の視線の先は自分の手だった。いや、もしかしたらその手を通して、私のカレーを見ているのかもしれない。

 私がなんと返事をしたものかと考えていると、ユリさんは親指と人差し指をくっつけては離しを繰り返し、自身の唾液が糸を引くさまを見て遊んでいた。

「美味しいです。思ってたよりも」

「そう。なら、よかった」

 ユリさんは濡れていないほうの手でおなかをさすった。光沢のある爪がやけに目立つ。

「お昼時はおなかがすくねえ」

明らかに催促されている。あーん、とかしてあげたいけれど、衆人環視のなかでそれをやる度胸はない。

「食堂ですし、なにか買ってきたほうが」

「無駄遣いしたくないし」

 受け狙いで変なものを買わなければいいのに。

 ユリさんは袋の中から殻を一欠片取り出した。彼女はそれを恐る恐る前歯でかじり、すぐさま袋に向かって吐き出した。

「わかりました! カレーあげますから、やめてください」

「汚いもの見せてごめんね」

 私はカレーをすくい、申し訳なさそうにうつむいていたユリさんの口にそれを運んだ。彼女は吟味するように目をつぶって咀嚼した。

「辛さが足りないね」

 ユリさんは文句を言いながら、もう一口をせがんだ。

「後輩にたかるなって」

 高い位置からそんなせりふが降ってきた。その声の主は丸めたチラシでユリさんの頭を叩いた。チラシは気の抜けた音をたてて折れまがった。

「スキンシップだからいいの」

 ユリさんは叩かれた頭を押さえ、少し嬉しそうに後ろを振り返った。チラシを持っていた男の人は彼女の隣、私のはす向かいに座った。

「初めまして。百合之江の同級生の橘です」

 男の人はそう言って、私に向かって微笑んだ。私が高校の制服を着ていたから、見学者だとわかったのだろう。見学者の多くは私服だったので、生真面目に制服で来た私は少しばかり浮いていた。

「もう大学の中は見た?」

 カレーを口に含んだときに話しかけられてしまったので、私は橘さんの質問に頭を振って否定した。

「さっきまで説明会だったんだよ。食べ終わったら研究室とか作業室とかに案内しようかなって」

 咀嚼中の私に代わってユリさんが今後の予定を話すと、橘さんは笑った。

「いいね。今のうちに教授と知り合っとけば、コネで入学できそう」

 変なこと言わない、とユリさんは彼の肩を叩き、じゃれあっていた。私はカレーを食べ続けながら、羨望の眼差しで二人を見つめていた。

 この二人は恋人同士なのだろうか。


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