二、西地区

 なぜこんなすさんだ地区ができあがったのだろう。貯蔵している酒にたまる澱のように、都市ができてしばらくたつとかならず現れてくる。昼よりも夜活発になり、犯罪が多発し、人と人とのつながりが薄い。ここに集まる人間はなんらかの欲を手っ取り早く満たそうとする者ばかりだ。

 しかし、こういう地区が必要な事情は分かる。人間は綺麗事や理想だけでできているのではない。私だって若い欲望をどうしようもなく、ここで満足させたことがある。


 西地区に入る前に乗合馬車を降りた。着替えてきた着古しの服は薄汚れているがそれでいい。街に溶け込むように下を向いて歩く。ここでは人の顔を見てはいけない。そうすれば透明でいられる。

 しかし、私は人を探していた。人の顔を見ずに人を探すにはある種のこつがいる。昆虫採集に似ており、対象がいそうな場所を顔を動かさずに目だけで見回していく。

 探しているのは情報屋で、だいたい立ち飲みの簡易喫茶店にいる。樹液を舐めに来る甲虫のようなもので、格好は目立たないように、しかし、客にはひと目で分かるように装っている。


 茶色の帽子、継ぎの当たった灰色の服。ポケットには小さく折りたたまれた新聞。紙コップを持ったまま、私に向かうと帽子のつばに人差し指を軽く当てた。

「お久しぶりですね、旦那」

 私は頷くと持ち出した写しを見せた。情報屋はその上に賭博投票用紙をのせて受け取り、目を通した。別の紙に内容を書き出すよう促し、作業の間に用紙に丸をつける。

「内容、分かるか」

 写しと汚い字の書き取りを取り戻した。情報屋は新聞を広げる。ドラゴンとの大誓約を破棄し、滅ぼすべきだという過激な社説が載っている。大誓約維持にかかる金を我々に回せという下層民好みのご高説だった。それを流し読みしながら雑談しているふりをする。

「ケルトン教授だけ大儲け、やばい。他の奴らは普通だけど」

「説明しろ」

「この拳闘試合は接待だったんです。親分連中の。で、この教授はどうやってか乗っかっちまったんでしょうね。横から賭けて率を悪くしちまった」

 眉をひそめる。

「そう。旦那の考えてる通り。この賭け屋は大金を払い戻さなきゃならない。でも、親分にそんな報告はできない。間抜けな奴だ。何をどう間違えたら接待試合を売るなんてできたんだろ」

 情報屋は茶を一息に飲み干した。

「そいつ、こそ泥で捕まったんでしょ? わざとかもね。あんたらに保護してもらってほとぼりが冷めるのを待つつもりでしょう。それか……」

「それか?」

「金目の物を盗んで高飛びする気だったかも」

「両賭けじゃないか」

「さあね。あたしにゃ分からないし、関わり合いにもなりたくないね」

 潮時だった。私は現金と賭博投票用紙を渡してその場から去ろうとした。

「旦那。ちょっと」

 情報屋が封筒を差し出した。

「儲け。これまでの賭けの。旦那は勘がいいね。こっちの道に進んだらどうだい」

「取っとけ。また働いてもらう」

 封筒はさっと消えた。


 それからあちこち歩き回り、他の情報屋や貸しのある賭け屋数人に確認したが同様の答えだった。皆、接待試合を売った間抜けのことは良く知っていたが、大学寮に盗みに入った理由はどいつの推測も似たようなものだった。そして、関わり合いになりたくないという点において一致した。

 日は完全に沈み、暗くなってきた。懐が寂しい。さすがに情報屋への支払いは経費では落とせない。奴らは個人で飼っておくしかない。あの儲けを受け取っておけばと思ったが、立場上そうもいかないのがつらい。

 私は薄くなった財布をポケットの上から叩いて西地区を出た。


「じゃ、払い戻しができなくて殺したのか? 教授と揉めたとかで」

 カノウ捜査部長に報告すると、そう言って腕を組んだ。私と同じで納得していない。

「大金ですが、そこまでの額じゃありません。高飛びすれば親分連中だって追手まではかけないでしょう」

「それで窃盗か」

「はい。そう思います。大学寮は警備の割に稼ぎがいい。仮に捕まっても保護されるようなものだから損はない。そんな所でしょう」

 私は後ろの黒板に目を向け、トサ教授の件がどうなったか聞いた。部長は苦笑いしながら言う。

「大学教授という奴はご立派なもんだ」

 捜査官の粘りによって、事件当夜、トサ教授は自宅にいたと証明できた。

 教授は自分に容疑がかかっているとはっきり告げられると何かを言おうか止めようか迷う態度を示した。そこで捜査官が時間をかけて説得し、その夜、教授は西地区のある店に特別なサービスを注文していたことを聞き出した。そして、慎重に確認した結果、証言の裏付けが取れた。

「一晩中ですか」

 カノウ捜査部長は頷いて指を二本立てた。二人もか。

「それはそれは。確かにご立派ですね」


 私は自席に戻り、コーヒーを飲みながら今口頭で報告した内容を書類にし、他の報告に目を通した。

 ケルトン教授の部屋からは何も盗まれていなかった。本などは管理目録の通り揃っていた。

 賭博については別件になり、他部署が担当することになった。大学は関係者を処分する。帳面を取り上げられたコマイはさぞ恨まれるだろう。


 だが自業自得だ。悪事には報いがある。

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