Marigold

 

「甘いな」


 喋りすぎたせいだろう。乾いた口内にドロリとした液体が流れ込む。


 私はある女性と対峙している。ここは私の地元の隣町の喫茶店。彼女はブラックコーヒーを、私はホットチョコレートを注文した。男らしくブラックコーヒーを頼まなかったのは、私が甘い物好きであるという理由と、ホットチョコレートがこの喫茶店の名物だからである。


 そもそも私の予定表にこの女性と会うという文字はなかった。いつも通り親友に留守番電話を入れた後、休憩がてらにホットチョコレートが人気商品だというこの喫茶店に一人で来店する予定だったのだ。


 私の予定を狂わせたのは私自身だったのかもしれない。親友に留守番電話を入れた後、私は思い出したかのようにとある場所にふらりと立ち寄った。


 黒く塗られた一見不気味な小屋。赤いドアを目立たせるには最適な配色センスだ。埃を被った掛時計は意外にも正しく時を刻んでいる。金色のドアノブには『closed』のボードが掛けられていた。


(やっぱり閉まっているか)

そう思いながらも、この建物が残っている事が心底嬉しかった。


 ここは十年前、私と親友が初めて演劇を観に訪れた場所である。原作となった本は書類に埋れた私の鞄の中で息を潜めている。いつも通り親友に留守番電話を入れた後、仕事の休憩時間を利用してこの建物の通り道にある喫茶店でホットチョコレートを飲む。この本を読みながら。それが私のシナリオだった。


 劇場と呼ぶにはあまり相応しくないその風貌の建物に立ち寄ったのは、ほんの出来心である。あくまで偶然だ。期待などしていなかったし、期待していなかったからこそ偶然は起こるものなのかもしれないとこの後私は身を持って実感した。


 ギィと音が鳴り、赤い扉が開かれる。中から誰かが出てくるようだ。その人物の顔よりも先に私が見たものは、赤いハイヒールだった。懐かしい赤色はコツリと大人の音を立て、尖った口先を私へ向けた。


彼女だ。


「マッリさん‥‥‥!」


私は声にならない声で名前を呼んだ。ちなみにマッリさんなどという女性は私自身も知らない。


「私はマリですけれど、どちら様ですか?」


マリさんは出てくるなり、鋭い視線を私に向けた。


 ハイヒールと唇は同じ色。つばの広い帽子とロング丈のワンピースは、彼女の長い髪の毛と同化しそうなくらい美しい夜の色をしている。


「僕です」


 二十四歳の青年は考える。どうすれば思い出してもらえるのか。十年前の話をすればいいだけの話だろう。その通りだ。


 マリさんは今も鋭い目で私を睨みつけている。相変わらず美しいその顔には、しわが入っていた。十年だ。私も相当変わったに違いない。背も伸びたし、声も低い。以前は見上げたマリさんの顔も、今は同じ目線にある。十年経ったのだ。


「あっ」


 十年とはあっという間であると同時に相当な時間なのだなと考えていた私は、マリさんの「あっ」という声で現実に引き戻された。


「オリバーくん?」


彼女は優しい声と表情で私の名前を呼んだ。


「そうです、オリバー・ロウです」


頼まれてもいないフルネームを名乗ってしまうくらいには、私は緊張していた。


「そうね。そうだった」


マリさんはその大きな目を細くして笑った。


「君は最後のお客さんだったよね」


 マリさんはこの劇場の店主の孫娘だ。十年前、ここは夜はバーをやっていて、日が明るいうちは絵の展覧会や職人の販売会の会場として貸し出していると店主が話していた。

 一見劇場と呼ぶには小さすぎるこの建物の地下には、十代の私の心を掴むには十分すぎる空間が存在している。私と親友はそれを知っている。ほとんどの人が何も思わず通り過ぎていくこの建物の秘密を私は知っているのだ。優越感と呼ぶに相応しいこの感情は、育つ事も老いる事もなく、あの頃のまま私の心で生きている。


「おじいちゃんからあの後聞いたのよ。階段のキャンドルを消しに行ったきりなかなか戻ってこないものだから。そしたらあのブラウンヘアの男の子がまた戻ってきたんだって言っていて、驚いたわ」


 あの日親友を先に帰らせて、私はもう一度この劇場に戻ってきた。店主が客を見送り、赤いドアを閉めようとしているところだった。私は彼にある質問をした。あの日初めてマリさんと出会い、少しだけ話をした時からずっと心に引っかかっていた事だった。


「そしたら君、私がメアリー・ハレなんじゃないかっておじいちゃんに聞いたらしいじゃない」


 メアリー・ハレは今まさに私の鞄の中に眠っている本の著者で、その本は十年前ここで初めて舞台化された。当時はメアリー・ハレという女性作家の存在自体知っている人が少なかったし、そもそも小説の話をする事自体タブーな時代だった。


 現在はメアリー・ハレの名前を知らない人はほとんどいないだろう。特に私の働く業界では尚更だ。


「何でそう思ったの?」


「なんとなく、です。本当になんとなく」


「なんとなくか、なるほどね」


 正直なところ心底メアリー好きな人なのだろうと思っていた。地下へと続く階段にメアリーの本の絵が掛けられていたり、名前の響きが少し似ていたり。メアリーが世間に顔を出した事はないが、私の勝手な想像でマリさんのような顔立ちなのではないだろうかと思っていた。

 それからもう一つ。演劇を観て誰よりも泣いていたのがマリさんだったからだ。しかし私の中ではこれら全てが"なんとなく"であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。だから、本当になんとなくだった。


「でもその"なんとなく"が十年前からずっと離れなかったんです」


「なんとなくの魔力だね」


「なんとなくの魔力?」


「ここへ来たのだって、なんとなくなのでしょう?」


「そうですね、仕事の休憩中にこの先にある喫茶店でホットチョコレートを飲もうと思って偶然ここを通りかかったんです」


私は通りの少し先にある喫茶店を指差した。


「驚いたわ。私もそこで一時間後に待ち合わせしているの。折角だし一緒に行かない?」


 心が飛び跳ねそうになったが、冷静を装って「いいですね」と答えた。待ち合わせの相手は、恋人だろうか。


 上手く質問を流された気もしたが、別に良かった。

「やっぱり外はまだ寒いね」と言いながらキャメルのコートを羽織るマリさんが可愛らしかった。


 私とマリさんは喫茶店に着くまでにほとんどの会話を終えてしまった。私が出版社で編集部にいること。マリさんの祖父は数年前他界したこと。もうあの建物は使っていないこと。マリさんは三十六歳であること。彼女が昔猫を飼っていたこと。彼女はブラックコーヒーが好きであるということ。私は甘い物が好きであるということ。友人でもない私達に出来るのは、そのくらいの話しかなかった。いや、十分すぎるくらいだった。


「十年前はこんなお店なかったのにね。凄いよね」


マリさんは喫茶店のドアノブに手を掛けながら、呟いた。


 マリさんの十年間はどんなものだったのですか。心の中で呟く。私は「そうですね」とだけ返答した。


 店内は暖かみのあるライトに照らされており、数人の客がこの店の名物を飲みながら読書をしたり、会話を楽しんでいる。ゆっくりとした時間がここには流れている。そう思った。


 マリさんは慣れた足取りで窓際の席へ向かう。彼女はここに来た事があるようだ。あの建物、つまりマリさんが以前暮らしていた場所からそう遠くない距離の為、無理もない。恋人とはいつもここで待ち合わせしているのだろうか。


 ゆっくりと腰を下ろす。丸型のテーブルには手書きのメニュー表を咥えた小さな黒猫が座っている。そのメニュー表を恐る恐る黒猫から奪う私を見て、マリさんは笑った。

「本物の猫みたいだね」と黒猫を撫でた。


 私はテーブルを撫でる。所々色褪せたそのテーブルは、この店で一番の古株と言わんばかりの存在感がある。ウォールナットの木材が使用されていると思われる。ここのオーナーはセンスが良い。木の温かみも感じられ、落ち着いた店内の雰囲気にぴったりだ。テーブル下から伸びた三本脚は、猫の尻尾のようなデザインが施されている。


 喫茶店の名前が『kitty』というだけあって、店内は猫をモチーフにした家具や置物が所々にある。かと言って、猫達はうるさ過ぎず、静か過ぎる事もなく。勿論鳴く事もなく。店内を優しく彩っている。


「オリバーくんは何にする?」


細く長い指で、マリさんはメニュー表を捲る。


「勿論ホットチョコレートで」


 そう言えば、マリさんは猫を飼っていたことがあると話していたな。どんな猫だったのだろう。黒猫なら、マリさんにぴったりだ。


「そうだよね。私はブラックコーヒーをください。ホットで」


 男性の店員は、マリさんに見惚れていたのか少し間を置いて「かしこまりました」と言って席を離れていった。


「それで。なんとなくの魔力の話なのだけれど」


「はい」


唐突だなとは思ったが、マリさんらしいなとも思う話の始め方だ。喫茶店までの道中で、少しばかりではあるがマリさんの事が分かったような気がする。


「本当はそんなものはないと思っているの」


「なんとなく、などないという事ですか?」


「そう。人がなんとなく偶然を求めて彷徨っている時って、何かしら目的や悩みや迷いがあると思っているの」


「はい」


「それらを達成したくて、解決したくて、彷徨っているわけでしょう。ちゃんと意識して動いているじゃない。だからなんとなくじゃないのよ。私達はいつだって自分で選んで行動しているのだから、それはなんとなくなんて事はないと思うの」


「人はなんとなくで行動する事など、ないとマリさんは言いたいわけですね」


「そう。人はなんとなくに保険をかけているんじゃないかしらって思っているの。本当は少しの期待を抱いて、その行動を起こしたとしても、なんとなくだからその結果が失敗でも成功でもどちらでもいいと思える。良い結果なら、それを偶然と呼んで、都合良く片付けられるから」


「そうでしょうか。なんとなくで行動する事ってあると思いますよ。なんとなく別の道を通ったり、なんとなくブルーのマフラーを着けたり。マリさんが言うように、僕達が毎日意識して行動しているとするなら、疲れきって早々に死んでしまいそうですけどね」


「疲れないために、なんとなくって言葉を使うんじゃないかしら。そうすれば自分の心を上手く騙せるじゃない。それになんとなくやった事で、良い結果が出たり素敵な人に出会えたら、偶然みたいな運命で素敵じゃない? でもそれはあくまで“なんとなく“が引き起こした出来事だから、素敵なのよね。正直なところ私は全部運命だと思っているのだけれど。でもそれじゃあロマンチックじゃないから。運命って言葉を大事な時に取っておく為に、またはより輝かせる為に"なんとなく"や"偶然"って言葉があると思ってるの」


「“なんとなく“は全て自分の意思または意識の上で成り立っていて、“偶然“は全て"運命"ということですね。でも全てを運命と呼ぶとその言葉の意味が薄れてしまいそうだから、僕達はなんとなくや偶然を上手く使って生きている、という事でしょうか」


「その通り。だからと言ってなんとなくが悪いって言っているわけじゃないのよ。きっと私達はなんとなくや偶然という言葉に助けられていると思うから」


「確かにそう言われてみれば面白いかもしれませんね。でも僕はなんとなくや偶然って、その言葉通り本当にあると思います。だから僕はマリさんとは別の意見かな。でもこんな風に考えた事無かったです。面白いです。僕には僕の意見があるし、マリさんにはマリさんの意見がありますよね。当たり前の事なんですけど」


「うん、だからこれこそ“なんとなくの魔力“なのかも」


「どういう事ですか?」


「なんとなくの話題でここまで議論染みた会話が出来るのだから、これこそ“なんとなくの魔力“なのよ、きっと」


 難しい話は正直得意じゃない。マリさんと私は別の世界を見ているのだろうと思う。私が困り果てたような顔をすると、マリさんは意地悪く笑った。


 注文の品をボードに乗せた店員がタイミング良く席へやってくる。話に夢中だったもので、申し訳ない事をしたなと思った。「待ってなどいませんよ」と言わんばかりのスマートな接客に、私はまた感心してしまった。


「ごゆっくり」


 大きめの白いマグカップには、猫の足跡が三つ。店内もいい匂いがしていたが、それよりずっと甘いチョコレートの香りが、鼻から私の体を一周する。


「甘いな」


 喋りすぎたせいだろう。乾いた口内にドロリとした液体が流れ込む。


「それで、何で君はここにいるの?」


 なんとなくです。そう答えようとしたが、マリさんには話していいと思った。話したいと思った。


「いつも通りが分からなくなったからです」


 いつも通り、親友に留守番電話を入れた。いつも通りの声のトーンを精一杯意識したつもりだ。意識している時点で、それはもういつも通りなどではないのだろう。彼にどんな言葉をかけたらいいか分からなかったのだ。私自身も、今自分がどんな気持ちなのかすら分からない。


「親友の妻が亡くなったんです。二週間前に」


マリさんは黙ったまま頷く。


「彼はいつも通りで。いつも通り以上にいつも通りで。相変わらず電話には出ないし、出たと思ったら『腹が空いた』としか言わない。彼が私の前で泣いたのは、十年前マリさんと出会ったあの劇場で演劇を観た時だけなです」


「そうなのね」


「彼が強がっていることなど分かっています。何年一緒に居ると思っているんだか。でもああも強がられると、こちらまで調子が狂ってしまいますよね」


 葬式の場でも親友は涙を流さなかった。泣き崩れる妻の両親の前で、ただ黙って頭を下げ続けた。まるで主を失ったロボットのように、彼は酷くいつも通りだった。いつも通り泣きもせず笑いもしない。しかしながら、私の目に映っている彼は確かに非日常的であった。


「親友って彼の事だったのね。名前はたしか、エドマンド」


 とても美しい少年だったから印象に残っている、とマリさんは言った。心底羨ましい奴だと思った。


「エドマンドの奥様とはあなたも関わりがあったの?」


「ええ。それはもう。私達は幼い頃から一緒でしたから」


 彼の妻、レイチェルはエドマンドの幼馴染みだった。彼女は仕立て屋の一人娘。可愛らしい顔には似合わない強い少女だった。私がエドマンドと仲良くなる前、彼女がエドマンドに嫌がらせをする奴らを追い払うところを見たことがある。気に入りの白色のトートバッグを振り回して、それはもう大暴れで。エドマンドはすました顔をして通り過ぎようとしていたけれど、結局レイチェルといじめっ子の喧嘩の仲裁に入っていた。思い出しただけでも笑ってしまいそうだ。


 エドマンドが私と仲良くしている事をレイチェルに話した時、当時私の顔も知らなかったくせに「本好きに悪い奴はいないから」と私との付き合いを許可したらしい。彼女の許可があの時下りなかったら、私とエドマンドの今はないという事だ。「私に感謝してよね」と彼女はブルーの瞳を細くして私に笑った。昨日の事のように思い出す。


 エドマンドの小説が本屋に並ぶと決まった時、彼とレイチェルのアパートメントで三人で朝方まで酒を飲んだ。レイチェルは手料理を振る舞ってくれた。彼女の料理は見た目はいまいちだったけれど、味は抜群に美味かった。彼女といえば、やはりガトーショコラだろう。十年前、エドマンドと演劇を観た日、彼女のガトーショコラを初めて食べた。見た目は料理と同じくらい面白かったが、甘すぎずシンプルな味で本当に美味かった。彼女はエドマンドがチョコレート好きだと知ってから菓子作りを始めたそうだ。彼女らしい話だと思う。彼女はエドマンドが大好きだったから。大人になってからも彼女のガトーショコラを食べる機会はあったが、彼の小説の書籍化を祝いながら食べるガトーショコラは言葉に出来ないくらい美味かった。


「オリバー、エドマンドを宜しくね」


黙々とケーキを頬張るエドマンドの隣で、彼女は私にそう言った。そういう意味だったのかい、レイチェル。違うだろう。これからも三人で君のガトーショコラを食べるはずだったじゃないか。


 君が居なければ、親友は生きられない。よく知っているだろう? 料理もろくに出来ないし、洗濯だって出来ない。友人も私一人で、アリを眺めて一日が終わるような人間だ。ああ、でも君が庭で育てていたプチトマトだけは上手に実らせることに成功するだろう。君が育て方を教えたのだから。



「オリバー、私達三人はずっと親友よ」



当たり前じゃないか、レイチェル。私だって、エドマンドと同じくらい君が好きなんだ。大好きで、大好きで。心から尊敬していて。君が居なければ、私だって生きられない。車くらい、白色のトートバッグを振り回してはね除けられただろう。あの時みたいにさ。君なら、出来たんじゃないか。





なあ、レイチェル。





 ああ、そうか。私は自分が思っていたよりずっと。そうか。そうだったのか。エドマンド、すまなかった。私は傷ついていたんだ。レイチェルが居なくなって辛かった。お前が無理をしている姿を見るのが辛かった。何も出来ない自分が情けなかった。お前が一番悲しんでいる事を分かっていたから、私は悲しんではいけないと思っていた。エドマンド、お前もそうだったのか。だからお前は私の前で強がるのか。普段通りにしようとするのか。ああ、そうだったのか。


「エドマンドは、君が悲しまないように、不器用な普段通りを演じていたんじゃないかしら」


私が出した答えを口にしたのはマリさんだった。


私の視界は酷くぼやけている。


「二人して、強がりね」


ウォールナット素材のテーブルには、雨粒が数滴落ちている。私が溢したものだ。


 マリさんは私に白いハンカチを手渡す。白は、レイチェルの好きな色だ。


「僕と彼は似ていないようで、似ていますから」


 すっかり忘れていた。彼は優しさの表現が下手くそなところを。そして私も鈍感なところがある。似た者同士なのだ。


「今日ここへ来てよかったです。なんとなくこのホットチョコレートを飲もうと思って、劇場の前を通りかかり、マリさんと出会えたから。先程も言ったように、僕は偶然ってあると思うんです。でも心のどこかで救われたかった。自分の心を知るきっかけを探していたんだと思います」


 ホットチョコレートじゃなくてもいい。マリさんじゃなくてもいい。でも今私が口にしているのは、ホットチョコレートで。目の前にいるのは、マリさんなんだ。それでいい。それが良かったんだ。


「私もオリバー君と会えて嬉しかったわ」


マリさんそう言って、残りのコーヒーを飲み干した。


 私は腕時計と、コーヒーを飲み終えるマリさんを交互に見る。ホットチョコレートは確かに甘いのにどこか苦く感じた。


「ところでオリバー君、私はメアリー・ハレじゃないわよ」


「そうか、そうですよね」


「私の名前、マリルって言うの。男の人みたいでしょう?」


「マリルさんって言うんですね。僕はマリさんにぴったりな名前だと思いますよ。マリさんは綺麗で、少し変わり者で、かっこいい人だから」


「変わり者は余計でしょう」


「誉め言葉ですよ」


「家族以外に、本名を名乗ったのは君が初めてだなぁ」


 マリさんの言葉一つでホットチョコレートが甘くなる。私の世界はそういう風にできているらしい。


 カランコロンと音をたて、ドアがゆっくりと開かれる。ブラウンヘアのツインテールに、赤いリボンを二つ。白のタートルネックにグリーンのチェック柄のスカートがよく映えている。可愛らしい女の子だ。その子は辺りをキョロキョロと見渡し、私達の座る方へと視線を向けた。


「ママ!」


 大きな黒い瞳をさらに大きく開けて、女の子はマリさんの姿を見るなり元気な声を店内に響かせた。


 女の子は店員や客が行き交う店内を、その小さな体でスルスルとくぐり抜け、母親の膝元へ飛び込んだ。


「娘なの」とマリさんが言ったのは、女の子が膝元へ飛び込む数秒前の事だった。


「ライラ、凄いじゃない。一人でここまで来れるなんて。ママ驚いたわ」


「えへへ。わたしがんばったの。もうおとなだから。パ、じゃなくて、ママもふるいおうちのおかたづけがんばってえらいね」


「ありがとうライラ。こちらのお兄さんにご挨拶なさい。オリバーさんよ。ママはお会計をしてくるからね」


「はぁい」


「マリさん! 支払いは僕が」


「娘の自己紹介とても上手なのよ。見てやって」


 私の言葉を遮って、マリさんは席を離れてしまった。マリさんが急に大人に見えた。事実そうだ。こんなに可愛らしい娘さんがいるのだから。十年前、私が一目惚れした女性は立派な母親になっていた。


「ライラです」


私の前に立ち、女の子はペコリと頭を下げた。


「オリバーです。初めまして、ライラちゃん」


私はニコリと笑ってみせた。実は子供が苦手だ。何を話せばいいのか分からない。マリさんを必死に止めたのもそのためである。


「ここのチョコレートのあったかいやつおいしいですよねぇ」


見事な会話の繋げ方だ。私の心配は杞憂だったらしい。よく見ると、マリさんにそっくりな顔をしている。


「うん。美味しかったよ」


「オリバーさんはなんさいなのですか?」


「二十四歳だよ」


「ながいきなんですねぇ」


「はは、二十四歳は長生きなのかい?」


「ながいきですよぉ。そんなにながいきしたら、いっぱいたのしいことありましたよねぇ」


「楽しかったかな。そう思ってくれていると嬉しいな」


「オリバーさんのはなしですよぉ」


独特な語尾が可愛らしい。長生きか。長生きかぁ。


「きょうはママいっぱいわらってるので、オリバーさんのおかげだなぁとおもいます」


「そうなのかい?」


「ママねぇ、ふるいおうちかたづけるのこわいっていってたので。おじいちゃんのおもいでのものがいっぱいあるからっていってたので」


「そっか、そうだったんだね。今日はお片付けの日だったんだね」


 喫茶店までの道で、マリさんは祖父の死を淡々と語っていた。表情には出さないものの、彼女は傷ついているのだろう。そんな彼女の言葉だからこそ、私の心に寄り添う優しさが感じられたのだと思う。慰めや励ましの言葉だけが、人を救うわけじゃない。


「オリバーさんはママのともだちなのですかぁ?」


「どうだろう。友達とはちょっと違うかな」


「ママはここにはわたしとおじいちゃんとしかこないっていってたので、ともだちなんじゃないですかねぇ」


「それはちょっと嬉しいかもしれない」


思わず顔が緩む。素直に喜んでしまう自分は子供だなと思う。長生きなくせして。


 会計を終え、お手洗いを済ませたマリさんがハンカチで手を拭きながらこちらへ向かってくる。その姿を見ながら、女の子は呟いた。



「ママはね、おそとではママなんだぁ」



 その言葉の意味は分からなかったし、聞かなかった。


 喫茶店を出て、マリさんとライラちゃんを見送った。ライラちゃんは姿が見えなくなるまで私に手を振ってくれた。マリさんは一度こちらを振り返って、優しい顔で微笑んだ。


 長いようで短い時間だった。マリさんと通った道を今度は一人で歩く。マリさんとの会話を思い出しながら。ライラちゃんとの会話を思い出しながら。


 ポケットが不自然に膨らんでいる事に気がつく。

(しまった・・・・・・ハンカチを返しそびれた)

 レイチェルの好きな色。白色のハンカチ。マリさんが貸してくれたものだ。返す機会はあるのだろうか。よく考えると、マリさんはハンカチを二つも持ち歩いているのか。なんだかそれもマリさんらしいなと思った。


 十年ぶりに再会したのに、私はすっかりマリさんを知ったような気持ちでいる。それと同時にマリさんは秘密を抱えている人であるという事も分かった。それが何かは分からなくとも、私はいい。赤いハイヒールが似合う事。ブラックコーヒーが好きな事。猫を飼っていたことがある事。なんとなくや偶然を信じない人だという事。娘がいる事。家族としか訪れない喫茶店へ一緒に行ってくれた事。本名を教えてくれた事。それが私の中のマリさんの全てだ。


 携帯電話が鳴る。


「久しぶり。オリバー」


親友の声だ。毎回のごとく、久しぶりの通話になってしまう。私達の世界はそういう風にできている。


「エド、仕事の事なら心配いらないぞ。留守番電話にも入れておいたが」


「ああ、ありがとう。それから、大丈夫かい?」


「こっちの台詞だよ。ちゃんと食べているのか?」


飯の心配をするのも、毎回のことである。


「食べているよ。ところで、話があるんだ」


「何だ?」


「私が今からやろうとしている事は、きっと誰にも理解されないと思う。間違っている事かもしれない。でも忘れたくないんだ。君には話しておこうと思う」


「ああ」


 私は親友の言葉を待つ。それがどんな内容であれ、私は止めないだろう。久しぶりに聞く彼の声は弱っているが、確かに強い意思を感じた。生きようとしているのだと思った。これからどうなるかなんて私にも彼にも分からない。私はただ黙って、彼の話を聞くまでだ。





「これは、極秘事項なんだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

とあるロボットの一日 菫永 園 @swtxy0321

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ