ゴーストライター


 最後の観客が店を後にした。


 履いていたハイヒールをぶん投げて、胡座をかいて地面に座り込んだ。タートルネックの首元ってどうしてこうも気持ちが悪いんだ。首元から手を突っ込み胸の詰め物を強引に抜き取る。それもぶん投げてやった。ワインレッドのロングスカートの右ポケットには相棒が入っている。煙草だ。ライターに火を付け一服する。


 客を見送った祖父が階段の隅に並べられたキャンドルに順に息を吹きかけ消していく。フーッと。それに合わせてフーッと煙を吐く。

 階段を下りきった祖父と目が合う。祖父はいつものように呆れ顔を浮かべた。世話が焼ける孫だと言わんばかりに大きなため息を吐きながら、祖父は言った。


「レディーが台無しだよ、メアリー・ハレ」


 俺をおちょくるような台詞を度々口にする祖父には慣れたものである。

 俺は黒髪ロングのウィッグを自分の頭から引き剥がした。拾い上げたハイヒールと胸元に忍ばせていた詰め物で両手がふさがっている祖父に、ウィッグを高くゆっくりと投げた。


「ナイスキャッチ」


 俺の言葉に祖父はまんざらでもない表情を浮かべた。


「いい劇だったな」


 そう言って、祖父は両手いっぱいに荷物を抱えながら俺の隣に座った。


「ん」


 祖父に煙草を差し出す。カチッと音を鳴らして灯された炎が薄暗い室内を照らす。


「これも必要だろう」


 祖父がポケットから取り出したのは、使い込まれた携帯灰皿だ。それは丸い形をしていて、茶色のレザー生地にゴールドのボタンが一つ付いている。


「まだそれ使ってんの?」


 この携帯灰皿は、俺がこの家に来た時に祖父にプレゼントした品だ。プレゼントというより対価という方が正しいだろうか。あの日行く当てもなく彷徨っていた俺を、祖父は家族にしてくれた。孫と呼んでくれた。子供なりに感謝の気持ちを表したかったのだろう。それと同時に他人から恩をタダで受け取るのが恐かったのかもしれない。誰かに優しくされる事に慣れていなかったから。

 幼い少年は所どころ穴の空いたズボンから、無言でこの携帯灰皿を差し出したらしい。何故ポケットに携帯灰皿が入っていたのかは思い出せないが、恐らく父親の物だろう。父親の顔ももう覚えていないが。


「ずっと使い続けるさ、マリルがくれたものだからね」


 祖父が俺の本名を呼ぶのは、二人きりの時だけだ。七年前、俺が十九歳の頃から始めた事である。秘密を守る為だ。


 俺が女性作家として生きるという秘密を。


「私はずっと思っていたんだよ、マリル。お前を自由に生きられなくしてしまったのは私のせいなんじゃないかって」


 祖父は演者がいなくなった舞台を見つめながらそう呟いた。


「俺は自由だよ。全て俺が望んで選んだ道さ。孫娘として生きる事も、作家のメアリー・ハレとして生きる事も」


 父親や母親の為に金を稼ぐ道具でしかなかった俺に、祖父は読み書きを教えてくれた。温かい食事を作ってくれた。新しい人生を始める機会を与えてくれたのだ。まるでジェットコースターのように俺の人生は目まぐるしい勢いで変わった。


 心から感謝している。でも祖父の為に生きているわけじゃない。


 俺は自分の成すべき事を成す為に生きているのだ。


「娘が、メアリーが死んでからお前はその代わりになろうとしてくれているように見えたんだ」


 初めはそうだったかもしれない。メアリーが亡くなってから、祖父は見る見る内に衰弱していった。そんな祖父を見るのは辛かった。


「その為に女性として生きようとしているんじゃないかって思っていたんだよ」


 そんな風に思っていたなんて。二十六年間生きてきて、初めて祖父の気持ちを知った。


「確かに‥‥‥初めはそうだったかもしれない。俺はじいさんから返しきれない恩を貰ったから。でもメアリーと過ごす内に俺の中で変化があったんだ。俺は男だけど、女性が生きやすくなる為にこんな俺でも何か出来ることがあるかもしれないって」


 それが女装の始まりなんて歪んでいるかもしれない。でも男のままでは説得力に欠ける気がしたんだ。俺は完璧に作り上げたかったんだ。女性作家メアリー・ハレを。


「俺はじいさんの娘にはなれないけど、彼女の残した言葉を世間に届ける存在にはなれると思ったんだ。それが

偽物と呼ばれようが、俺は構わない。自分で決めたことだから」


「私はそんな風に思った事は一度もないよ。娘の言葉に命を与えてくれたのはお前だよ、マリル」


 祖父の言葉に喉の奥が熱くなる。今日ほど室内が薄暗くて良かったと思った事はない。


「この瞳が、声が、色を失い音を無くしても、そこに私の未来があるのなら迷う事など何もありませんわ、お父様」


「急に何だよ」と俺が言うと、祖父は切ない顔で笑った。


「娘が亡くなってからずっと考えていたんだ。私に向けられたあの言葉の意味を」


 祖父の言葉を待つ。煙を吐きながら。


「娘にとって外に働きに出る事がどれほど大切で幸せな事だったのか。もっと分かってやりたかった。生きているうちに、理解してあげたかった」


 祖父は肩を震わせ涙を流した。

 俺は気の利いた台詞なんか言えなくて、黙って祖父の隣にいた。


 メアリーが家を飛び出した日の事は今でも鮮明に覚えている。彼女は生まれつき片目の視力が悪く、女性ということもあり仕事がなかなか見つからなかった。それでもメアリーは諦めなかった。それどころか同じ境遇に立たされている女性達にエールを送り続けた。彼女の紡ぐ言葉にはパワーがあったのだ。学歴がない俺も彼女の言葉に魅了され、救われた一人だ。


 あの日、彼女を止められたら彼女が命を落とす事はなかったかもしれない。後悔は勿論ある。消える事はない。しかし、彼女は選んだのだ。きっと彼女は後悔していないと言い切るだろう。とても強い女性だったから。


 彼女が居なければ、俺が作家の道を志す事はなかった。心のどこかで俺は彼女の偽物なのではないのだろうかと思う事もある。それでも彼女の言葉を残したかったのだ。俺は選択したのだ。自分の意思で。



 だから俺は後悔しない。偽物でも悪者でも、何だって演じてやる。



 沈黙から数分経ち、煙草を吸い終わった祖父はグイッと背伸びをして立ち上がった。


「マリル、いやメアリー・ハレ。初の舞台化の感想は?」


「少し規模が小さすぎるんじゃないかしら」


 俺は得意げに声を変えて言ってみせた。先程とは打って変わって見た目は黒髪短髪のただの男の為、祖父にはフフッと笑われてしまった。



「でも凄く凄く良かった。何よりじいさんが生きているうちに見せられたからな」



 今日くらいは素直になってもいいだろう。少しくらい、いいじゃないか。



「本当におめでとう、マリル。お前を誇りに思うよ」

 

 祖父はそう言って俺の頭を撫でた。もう子供じゃないってのに。


「そういえば今日若いお客さんも二人来てくれていたね。あの茶髪の男の子、"マリ"に気があるように見えたよ」


「あんな子供は御免だね。ま、もう会う事もないだろうさ」


「よく言うよ。若い子が見に来てくれて心底喜んでいたくせに」


 祖父の言葉を遮るように、俺もグイッと背伸びをして立ち上がる。


「そんなことより、冷えてきたし早く上に上がろうぜ」


 俺はウィッグとハイヒールと詰め物を拾い上げる。



「マリル、今日くらい執筆を休んだらどうだ?」



「休むわけないでしょう。私を誰だと思っているの? 作家の‥‥‥」








 名前を言う前にまた祖父に笑われてしまった。俺の大好きな笑顔で。

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