ライク・ア・ドルフィン

 今日は妻との結婚記念日である。車を二時間程走らせ、一度も訪れた事がない水族館へやって来た。妻は水族館が大好きで、若い頃は散々水族館巡りに付き合わされたものだ。


 エントランスを抜けると、館内はほんのり薄暗いライトに照らされ神秘的な海の世界を表現している。通路に沿って小型の水槽が一定の距離で並べられており、美しい色の魚や面白い形をした生き物がゆらゆらと泳いでいる。


 隣を歩く妻に目をやると、館内案内のパンフレットをじっと見ていた。


「何か見たい魚でもあるのかい?」


「ええ」


「時間は沢山あるから、このまま一階から見て回ろう」


「時間は無いんですよ、あなた」


  ‥‥‥時間が無い?

 咄嗟に腕時計に目をやる。閉館まで七時間もある。

 いつもおっとりした性格の妻が見せる一面に、私は少し戸惑った。


 妻はパンフレットの一点を指差し、私の手を取り歩き出した。


 妻と手を繋いだのはいつぶりだろうか。妻のしわが入った小さな手を見つめながら、そんな事を思った。


 見上げるほど巨大な水槽の中には、一頭の美しいイルカがいた。人口の海を生き生きと泳ぐそれは妻を見るなり、まるで同類の仲間を見つけたかのような仕草を見せる。


 はしゃいだ子供をなだめるかのように、小さな手がガラス越しにその体を撫でる。


 その光景に、私は思わず口を開く。



「初めて好きになった女の子の話なんだけれど」



 どうかしている。



「たった一度会って、それきりになってしまってね」


 こんな話をするなんて。



「本当に夢みたいな話で」



 もうすっかり忘れていたつもりだった。



「誰にも話した事が無かったけれど」



 思い出してしまう。



「その人はある言葉を言ったんだ」



 彼女の事を



「私には分からない言語で」



 彼女は確かに



「言ったんだ」



 私が十歳の頃、旅行が趣味だった祖父が連れて行ってくれた街がある。祖父の友人が余生を過ごした街なのだそうだ。もう名前も思い出せないその街は、青い屋根に統一され同色の海に囲まれていた。


  一人で海辺を散策していると、岩場の陰に隠れながらこちらを見ている同い年くらいのブロンドの少女がいた。水に浸かっていない上半身を隠してしまう程美しく長いブロンドは、どこまで続いているのかと思わず目で追ってしまう。


 ゆっくりと近づくと、彼女は急いだ様子で首元まで水に浸かり私をエメラルドグリーンの瞳で見上げた。

 何をしているのか尋ねても、彼女は何も答えない。私は彼女が隠れる岩の反対側にもたれかかり、暇潰しにと持ってきた本を読んだ。彼女は恐る恐る岩の陰から顔を出し、私と本を交互に見ていた。


 私達を包むのは波の音と風の音と、ページをめくる音だけ。心地の良い時間だった。


 物語が終盤に差し掛かった所で、絵のページが現れた。こんな偶然があるものなのかと私はクスッと笑ってしまった。


「君がいるよ」


 私はその絵を指差しながら、彼女に本を手渡した。


そこに描かれていたのは一頭のイルカと、彼女と同じ生き物、人魚だった。


 初めから気づいていた。

 透き通るほど美しい海の水は、彼女の下半身を隠せなかった。パステルピンクにゴールドが散りばめられた彼女の下半身は、言葉では形容しがたい美しさを放つ。

 恐怖や驚きよりも、幼い私の心は宝物を見つけたような高揚感で満ち溢れていたのだ。冷静を装っているふりをしたのは、格好つけたかったからなのかもしれない。


 彼女は瞳を輝かせ、その絵のイルカを指差し私に何かを訴えかけてきた。


 キョトンとする私を余所に、彼女はぴゅうっと指笛を海に向かって吹いた。


 海を切ってこちらへ向かってくるのは、一頭のイルカだった。

 彼女はそれに応えるかのように、尾びれを勢い良く宙に浮かせイルカの元へと泳ぎ出した。


 彼女に切り裂かれた水の破片が私の肌に飛び散って、規則正しく下へと落ちていく。


 不規則に打つ鼓動は、彼女のせいだ。

 切って切って切って。何者にも縛られない野生のイルカのように、彼女は海を切っていく。


 自由で気高いイルカのような彼女から、私は目が離せなかった。


 イルカの元へ辿り着いた彼女は、我が子をあやすかのように優しくその体を撫でた。


 すっかり小さくなってしまった私の方へと振り返り、彼女は大きく手を振って見せた。


「そのイルカは君の友達なんだね!」


 少年は海へ向かって吠える。


「羨ましいよ」


 自由で、気高い君

 

「僕には友達も両親もいないんだ。祖父が死んだら、僕は一人になる」


 強くなりたい。


「ずっと寂しかったし、きっとこれからも寂しい」


それでも


「でも今日君と会えて嬉しかった」


叶うなら


「また、会いたい!」


途端に恥ずかしくなり、私は目を瞑りリンゴのように赤くなる顔を手の平で覆った。


 彼女は今どんな顔をしているのだろう。


 指の隙間から恐る恐る海の方を見ると、彼女の友人だけがスイスイと海を自由に泳いでいる。


 クイッと袖を引っ張られ、真下を見るとそこには先程まで遠く離れた場所にいた筈の彼女がいた。


「うわぁ! びっくりした! 脅かさないでよ」


 彼女は悪戯っ子のようにクシャッと笑った。

 あんなに遠くに居たのに。一体どうやって? 魔法みたいだ。


 彼女は手の雫を軽く払って、私の隣に伏せられた本を手に取った。イルカと人魚が描かれたページをその小さな手でめくった。


 次のページには、先程の人魚と同じ顔をした少女だけが描かれていた。しかしながら、少女には脚がある。人間の脚が。そして不自然に右目だけが塗り潰されていた。


「どういう事なんだろう」


 困惑する私を余所に、彼女はその絵の右端に小さく書かれた文字を指差した。


「これは‥‥‥文字? 何と書かれているか、君には分かるの?」


 彼女はコクリと頷いた。


 そして、彼女は言った。私には分からない言語で。それは聞いた事もない音で。


 当時の私には想像もつかなかった。しかし今なら分かる。彼女は確かにそう言ったのだ。











 彼女は、妻はその言葉を言ったのだ。









「生まれ変わって、会いに行くと」




 少しの期待と不安が込められた私の手は、震えが止まらない。


「はい」


 震えを止めるのは、しわが入った美しい小さな手だ。


 生まれつきだと話していた妻のエメラルドグリーンの片目は、涙を流す私をはっきりと映し出す。


「お互いすっかり歳をとりましたね」


 妻は水族館巡りが趣味という訳では無かったんだろう。


「そうだね」


 今なら分かるのだ。何のために、私を連れ出してくれたのか。


「次は私の片思いの話でもしましょうか」


 今なら分かるのだ。あの絵の少女が何の為に片目の色を失ったのかも。


「是非、聞きたいね」


 全ての線が繋がったかのように、分かるのだ。


「私のはもっと長くなりますよ」


 妻の片思いはきっと、語りきれない。


「じゃあ急がないといけないね。時間は、無いからね」


 私の残りの人生を使い切っても、妻の思いは語りきれない。語りきるには、時間が足りない。


「私の初恋の人は、本好きの少年でね‥‥‥」


 それでも私は、心臓が止まるまで耳を傾けるだろう。


 語りきるには、時間が足りない片思いの物語に。


 生涯忘れる事はない。妻との五十回目の結婚記念日の出来事である。

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