博士が愛した罪
青の街、アメリア・カルセドニ。建物の高さは厳しく規制され、屋根の色はアトランティコ・ブルーで統一されている。街を囲む同色の海も、より一層輝きを放つ。この地を初めて訪れた者は「まるで海の中に居るようだ」と口を揃えて言う。私もその中の1人だった。まさか10年もこの地に留まることになるとは。アトランティコ・ブルーの魅力は、私の心を掴んで離さない。
私の職業は小説家である。「だった」という表現が正しいだろうか。最近はほとんど執筆活動をしていない為、離れた土地に住む担当編集者からの電話が鳴り止まない。電子音に続いて、怒号が部屋を舞う。そんな毎日だ。
木製の質素なキッチンテーブルに孤独に座るロボットは、私が幼少期に作った物である。近所の工場からせしめてきた部品を繋ぎ合わせた工作品だ。歪だが、そこがまた愛らしい。
私は生まれつき身体が弱く、男らしさとはかけ離れた性格と容姿を持ち合わせていた。おまけに人見知り。いじめの対象には最適な人物だったわけだ。
そんな私に手を差し伸べてくれたのが、レイチェルだった。
レイチェルは近所に住む仕立屋の一人娘だ。彼女は人一倍正義感が強く、いじめられっ子の私にも優しく接してくれた。ヘンテコなロボットを笑わず褒めてくれたのは、彼女だけだった。
気付けば彼女に惹かれていた。生涯愛する人はこの人だけだと、幼いながらに私は悟った。
24歳になる頃には小説家として名誉ある文学賞をいくつも受賞した。周囲の賞賛とは裏腹に、私にとって執筆はそれほど重要な物では無かった。レイチェルが喜ぶ姿が何より嬉しかった。書き続けた理由はそれだけである。
当時は何もかも上手くいっていた。小説は出版する度に売れ、レイチェルと2人で暮らすには十分な家も手に入った。幸せだった。幸せすぎて、恐ろしい程に。
「ガトーショコラはチョコレートと卵さえあれば作れるのよ」
何度も聞いた台詞だ。聞き飽きるほど。もっと、聞いていたかった。
「凄いでしょう?」
最愛の人は得意そうに満面の笑みを浮かべる。その笑顔に何度救われたことか。
「卵が切れていたから、買ってくるわ」
生きて欲しかった。それ以外は何も望まない。生きて、生きて、そして。共に幕を閉じたかった。
最愛の人の死はあまりにも突然で。まるで世界が一瞬にして消えてしまったようだった。
あの時私が行くよと引き止められていたら、レイチェルが命を落とす事は無かった。男性勝りな強い女性とはいえ、人が車に衝突されて勝てるわけがない。いや彼女なら。なんて、そんな期待を抱いて。あぁ、私達は何て弱い生き物なのだろう。奪われて、奪って、傷付けて、傷付けられて。それを繰り返して。ここからが人生だなんて、綺麗事を抜かすのだ。
こんな世界、捨ててしまおうか。
「おはよう。何か食べるかい?」
「いらない、です。はかせ」
5年後、24歳で時が止まった最愛の人がそこにはいた。白い肌。私より少し明るい美しいブロンド。海を連想させる深みのあるブルーの瞳。紛れもない、私の愛した君。失敗と成功を繰り返し、ようやくここまで来た。この計画は信頼する友人1人にしか話していない。極秘事項だ。
「何故私を博士と呼ぶんだい?」
「えほんで、はかせとおなじふくきたひと、はかせとよばれていたです」
「はかせ、これはなんですか」
「それはアリだよ。この世で一番神秘的な生き物なんだ」
「しんぴてき」
「アリは晴れの日も雨の日も生きて、生き抜いて。愛する者の待つ巣へと帰っていくんだ」
「さぁエプロンを付けてごらん。君のお気に入りだった物だよ」
「おきにいり?」
「すまない、何でもないよ。白いエプロンは嫌いじゃないかい?」
「きらいじゃないです」
「このあかいものは何ですか?」
「プチトマトだよ。無事育ってくれて良かった」
「わたくしにも作れますか?」
「勿論さ」
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は何をしようか」
「昨日ガトーショコラを作ると言っていました」
「そうだったね。君の、いや私の得意な洋菓子さ。チョコレートと卵さえあれば作れるんだよ。凄いだろう?」
「すごいです」
「日記は書けたかい?」
「書きました」
「よく書けているよ」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
「あれが、星ですか?」
「そうだよ。美しいだろう?」
「美しいです」
「おはようございます」
「おはよう」
「今日は何をする?」
「博士、執筆活動を直ちに再開してください。担当編集者から留守番電話が30件も入っています」
「はい」
「博士、チョコレートはスパチュラで優しく切るように溶かしてください。シンク周りに飛び散っています」
「私の助手は手厳しいね」
「博士、本日の報告書です」
「いい一日だったかい?」
「はい、とても」
「博士、今日はいい天気ですね」
「私は雨の日の方が好きだけどね。君は晴れの日が好きかい?」
「はい、洗濯物が良く乾きますから」
「パンケーキとオニオンスープ、凄く美味しいよ。君はプロの料理人顔負けの腕前だ」
「ありがとうございます」
「温かいスープを飲むと、心まで温かくなる。温かい事は幸せな事だ」
「私にはそれを感じ取る事は出来ませんが、博士がそう仰るなら。きっとそうなのでしょうね」
私が一度捨てた世界を、君は拾い上げるように。ひとつ、ふたつと言葉を覚え、料理を覚え、限られた世界の中で生活を送る。
私の後ろをついてきた君は、もういない。いつの間にか、手を引かれて歩くのは私になっていた。
微かな足音が聞こえ、ノックの音が静かな書斎に響く。
「博士、本日の報告書です。……泣いていらっしゃるのですか?」
私はそっと写真立てを元の位置に戻す。
「欠伸をしたのさ」
「それは涙です。人間は悲しい時に涙を流すのでしょう?」
ブルーの瞳は私を捉えて離さない。
「雨だから涙が出るのさ」
「では、博士は雨の日が本当はお嫌いなのでは?」
「いいや。雨は涙も一緒に地上に流してくれるからね」
「よく、分かりません」
そう言うと彼女は困ったような表情を見せた。その表情は、まるで。
「報告書の出来栄えはいかがでしょうか?」
「毎回の如く素晴らしいよ。いい一日だったかい?」
「はい、とても」
左胸の痛みを、私はグッと堪える。
「この20年、君を作った理由を知りたいと思った事はあるかい?」
「ありません」
ブルーの瞳は揺るがず、即答する。
「私にとって博士は生みの親であり育ての親。それ以上でもそれ以下でもありません」
私は少しばかり抱いた期待のようなものを心の海に沈める。
「ただ、」
沈めようとした。
「ただ、その事実が私にとって全てであり、大切な事、なのです」
賢くなった彼女が紡いだ言葉とは思えない程、その台詞は片言だった。それはまるで、まさしく、私と同じ。
人間のようだった。
心の中で様々な感情がぶつかり合う。私が彼女にした事は、決して許される事では無いと認めざるを得ないからだ。もし彼女に感情が生まれたら。そうどこかで期待していた。しかしそれは同時に、己が犯した罪と向き合わなければならない事を意味する。私は、最愛の人を忘れない為に彼女を作ったのだ。私が憎むべきは世界では無く、身勝手で残酷な自分自身だったのだ。
この20年、何度も罪を告白しようとした。私の命はもう長くないと分かっていたから。消える前に言わなくては、と。しかし出来なかった。君と過ごした日々は幸福に満ち溢れていたから。君の紡いだ言葉が、私に嘘を吐き続ける覚悟をくれた。
「博士、実は取り寄せて頂きたい書物がありまして。私はそれに関する知識が一切無いのです。博士を、いえ人間を理解する為には不可欠な事柄なのです」
そうはさせない。
「ところで、少しの間旅に出ようと思うんだ」
それを知ったら、君はどうなってしまうのだろう。
「旅行ですか?」
「あぁ」
「……そうですか」
死について。
「君を置いて、旅に出る私を許しておくれ」
死について、君には知って欲しくない。
「はい」
どうか、許しておくれ。
青の街、アメリア・カルセドニ。建物の高さは厳しく規制され、屋根の色はアトランティコ・ブルーで統一されている。街を囲む同色の海も、より一層輝きを放つ。この地を初めて訪れた者は「まるで海の中に居るようだ」と口を揃えて言う。私もその中の1人だった。まさか10年もこの地に留まることになるとは。アトランティコ・ブルーの魅力は、私の心を掴んで離さない。
電子音に続いて、担当編集者、いや唯一の友人の声が部屋に響く。いつもとは打って変わって大人しい声だ。
それを聞いた途端、 あれから10年も痛みに耐え抜いた心臓が鼓動を早めて動く。
ありえない。まさか。そんな事が。
私にはそんな資格などないのに。
そんな気持ちを余所に、たった今ドアが2回叩かれる音が聞こえた。
会う資格など無い。
私は車椅子をゆっくりと動かす。
謝る資格も無い。
玄関に立て掛けた杖を支えに、立ち上がる。
愛しているなんて言えない。
それでも、会いたい。
私はゆっくりとドアを開く。
白い肌。私より少し明るい美しいブロンド。海を連想させる深みのあるブルーの瞳。あの頃のまま。
そして、私は
「アメリア」
初めて君の名前を呼んだ。
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