偽りの平穏、そして混沌㊺


 このヴェルデムンド・ウィルスに罹患するのは、あの弱肉強食の世界に渡航歴のない人々に限ったものである。つまり、この『ロング・オブ・メデューサ』と書かれたウィルスの抗体を持たない人々が自らの細胞を食い破られれば、そこで急激なリンパ異常が発生し、たちまちあの醜い姿に変貌してしまうというわけだ。

 先の事例では、このヴェルデムンド・ウィルスに一たびかかると、抗体を持たない人々は必ず症状が出る。かなりの高熱が出ることはあるが、それほど致死率が高いわけではない。

 だが、顔面や脇の下などが異常なほど腫れ上がり、たとえその場所に直接的治療を施したとしても、またそこだけが膨れ上がってしまうという、とても厄介なウィルスなのだ。

 このヴェルデムンド・ウィルスの蔓延を機に、世界の一般的流れが、かのヒューマンチューニング計画に傾倒していったのは言うまでもない。

 それまで生身の肉体を改造することに抵抗を見せていた人々でさえも、この厄介な症状にぶち当たってしまえば、それぞれ方向転換せざるを得なかったわけだ。

 無論、これでスミルノフは巨万の富を得た。各サイボーグ技術を持つ企業の八方に手を伸ばし、この情報を売り、それらと結託した上で事を成し得ることが出来たのだ。

 それ以降スミルノフは、この業界の間で〝墓荒らし〟の異名を揺るぎないものとした。

 当然、桐野博士もこの噂の種を知らないわけではなかった。しかし、残念ながら桐野博士はただの開発者でしかなかったのだ。

 たとえ博士が、スミルノフの愚行を知っていたとしても、もう民衆の心を説得するだけの風の流れを止めるだけの力はなかった。

「墓荒らしよ。貴様のやった行為は万死に値する。人は情報のみに怯える習性を持っているが、これは情報などではない。れっきとした物理的テロリズムそのものなのじゃ……」

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