日常
ぜんまい
第1話
溜息を吐いて靴箱から靴を取り出した。冬の冷気がまだ手袋をしていない掌を刺す。靴を手から放して、地面へと落下させる。上靴を脱いで、靴へと指を滑り込ませるが、うまく履けない。いやいや悴む指で踵の部分を摘み、押さえてようやく履く。生乾きの泥が指に付着して気持ち悪い。両足とも履くと、人工芝に靴底を何度か擦りつけて、泥砂を落とそうとする。ざりざりという音ともに幾分か靴が軽くなったような感じがするけれど、実際はどうなのかは分からない。私は私の感覚を信用出来ない。ポケットのなかから毛糸の手袋を取り出す。もう何年も同じものを使っていて、かなり劣化が目立つ。糸が解れ、幾つか虫喰いのような隙間も出来ている。手袋自体が薄くただでさえ寒いのに、その穴の空いた部分の皮膚は蜂に螫されたような痛みさえ感じる。それでも、そんな痛みは一時的なもので、帰って暖房の前にしばらく手を翳せば消え失せてしまう程度のものだ。気持ち悪い。痛みは消えないでいて欲しい。傷は癒えないでいて欲しい。でも、それは治る。皮膚が新たにつくられて、傷はなくなってしまう。結局、私という存在もそうだ。痛みや傷や皮膚と同じく、私が私であり続けることはない。靴箱から靴を取り出そうとしている私と、手袋を手に嵌めている私は同一の脈絡上にいたとしても、まったく別な存在だ。私はそれがたまらなく嫌だ。私は刻一刻と変化し続ける私なのだ。私の名前は単称ではなく全称なのだ。もう二度と私は私ではない。手袋をきつく、指と指のあいだの水掻きにまで密着させるようにして嵌めて、背負っている鞄と制服を何度か身顫いして整えると、昇降口へ向かって歩き出した。昇降口から見える空には太陽が浮かんでいる。その上に雲が被さっていて、光がぼやけている。実際の高度は太陽の方が雲よりあるのだろうけれど、私の眼には雲が太陽の上に被さっているように見える。そう視認される。私の眼は真実を写さない。真理を映じえない。私は客観的な認識を持ちえない。視座が存在する限り客観にはなりえない。客観は主観を排した存在そのものであり、客観視というものは存在しない。私は私である限り刻々と変化し続ける主観的な存在だ。雲によって遮られ、幾分か和らげられた光が、私の瞳に刺さる。普段の太陽よりは優しいが、白色と檸檬色と橙色の混ざった夕焼けどきの光はそれでも充分過ぎるほどの強さを持っていた。私は左眼を閉じて、右眼を眇めて、視線を太陽から昇降口の鉄扉へと移した。昇降口は硝子張りの緑青色に塗られた鉄扉が半ば開かれており、冬の硬質な風が、生徒達と同じように出入りしていた。私は鉄扉の円く鉄色をした把手を押して扉を全開にして、風を全身に受けながら外へ出た。昇降口を出てすぐにあるプールのコンクリートの基礎部分と、その上に建てられた鉄柵をなんとなく見る。その鉄柵に張られた金網の内側に、一年生の頃クラスメイトだった男子生徒が掃除道具を携え立っていた。一瞬、私と男子生徒の視線が交錯した。目が合ったのは一瞬で、相手も私もすぐに顔を別な方向へやったが、それは妙に印象的な風景として私の記憶に刻み込まれた。真珠母色に耀く夕焼け空と、そこに投影された鉄柵の金網と男子生徒の暗く青い翳。私は相手の名前を思い出そうとして、それが出来ないことに気づいた。一度は席が前後になり、幾度か一緒に昼飯を食べたことがあったはずなのだけれど、今の今までそれも失念していたし、名前も綺麗に忘れ去ってしまっている。私は私が欠陥品だということを痛烈に感じた。他者の名前を記憶するという、人間関係の初歩の初歩さえ出来ず、出来ようとさえしない私に、私は心底うんざりしていた。もう二度とこんな思いはしたくないと思った。けれど、家に帰ればそんなことも忘れてしまうだろう。日に何度同じような後悔をすれば気が済むのだろう。私は私にうんざりしていた。強く、そして冷たい風が吹き、寒さから逃れるために私は歩調を速めた。その行為が私にはまるで人生みたいだと感じられた。苦痛から逃れる方法は幾つかある。苦痛を妨げる。苦痛を忘れる。そして苦痛を感じる器官を取り除く。拳銃が一挺あればいいと思った。顳顬を撃ち抜けば、それだけで寒さも痛みも後悔も感じなくなる。でも、結局拳銃があったところで使わないだろうな、とも思った。今の私は苦痛を忘れる側にいたから。それほど強くない苦痛は、大抵他のなにかで相殺出来る。吹奏楽部の部員達が吹き鳴らす重低音を聴きながら、校舎の白壁とプールのあいだを通り過ぎる。何人かの同学年の生徒とすれ違ったけれど、誰一人として知っている顔を持っていなかった。一年前の私だったら、そのうちの誰かの顔を憶えていたかもしれない。それでも、今の私はそれらのなかに知った顔を認めなかった。中庭に屯した女子生徒達が大声でなにかを喚き立てていた。眉を顰めて歩いているうちに、通用門が見えて来る。門の横にある駐輪場から自転車が絶え間なく飛び出していて、危ないな、と思った。門へ向かって歩いていると、口のなかになにか苦いものを感じて、唾を吐きたくなった。口のなかで泡立つ唾液の感覚を味わわせられながら、私は瞬きを何度も繰り返し、門を見詰めた。門は鉄格子で出来ていた。学校の敷地を囲う鉄柵と同じく、無機質な鉄色をしていて、その上部には有刺鉄線が張り巡らされていた。私はネックウォーマーとイヤホンをポケットから引っ張り出して、歩きながら、ネックウォーマーを被り、イヤホンの端子部分を携帯に挿し込んだ。イヤホンを耳孔に入れ、携帯を操作して音楽を聴こうとした。けれど、どの音楽も不快に感じて、苛立ち、すぐに耳からイヤホンを引き抜いてしまった。その動作をしているうちに、不快なのは私なのだと私は気づいた。私は私が不快なのだ。私は、この音楽達と伍する存在ではないのだ。私の存在が、私にとって生理的不快音なのであり、この音楽達にとって不協和音なのだ。思わず私は笑ってしまった。自嘲の笑いだった。私は私にうんざりしていた。嘲笑は私が忌み嫌うものだった。誰かに嗤われるのが怖かったから。私は私が不快だった。涙が出そうになった。黒板を爪で引っ掻くような幻聴が聴こえた。私は私にうんざりしていた。ゆっくりと、私は溜息を吐いた。
日常 ぜんまい @spring_frog
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