4-9

「犬」の体にしがみついたまま、空の高いところまできてしまった。


 そうは怖くなって足をばたつかせた。その足に何も触れず、余計に怖くなる。


 顔を膝で蹴られた。さらにほこで肩を押される。


 恐れが怒りに置きかわる。蒼は左手に「ランセット」を生成し、突きかかった。


 敵の体を捉える寸前で止められる。「犬」が矛でやりの穂先を受けとめていた。


 顔をあげると、相手と目が合う――ヘルメットに隠れて顔は見えないが、彼にはわかった。そこに浮かぶ怒りの表情も容易に想像できる。彼はにやりと笑った。


「ランセット」を爆発させる。三叉みつまたの矛が吹きとぶ。「犬」が体勢を崩し、頭から急降下する。蒼も逆さになった。


 右腕がぴんと伸びる。背中の装置をつかむ手が引きはがされそうだ。体に当たる風が痛い。


 彼は腕に力をこめて体を引きあげた。相手の体をよじのぼって肩にしがみつく。脚は相手の脚に絡める。これで姿勢が安定した。相手の長いふんに手を当て、押しあげる。黒いうろこに覆われた首が見えた。皮膚ひふなのか服なのか、いずれにせよ、よろいに覆われていないここは無防備だ。


「犬」の手が彼の顔にかかった。押しはがそうとするので彼は頭を振る。だが離れない。爪が肌に食いこむ。


 指が右目に入ってくる。顔を背けるが、相手の指はついてくる。深々と突きたてられて何かが潰れる。


 蒼は悲鳴をあげた。


 激痛に気が遠くなる。生温かい液体が顔を伝う。がんの中で指が動く。そのたびに新たな痛みが走る。


「クソックソックソッ」


 彼は右手に「ランセット」を生成した。めちゃくちゃに振りまわしていると、何かを断ち切る感触があった。


「犬」の体がきりみ回転をはじめた。相手の手が顔から離れた。蒼も振りまわされ、飛ばされそうになる。「ランセット」を爆破し、その勢いを利用して相手の背後にまわった。脚を相手の胴にまわし、腹の前で絡みあわせる。背中の飛行装置が一部欠けている。さっきりおとしたものらしい。そのせいで相手は動きがおかしくなったのだ。


 真っ逆さまに湖へと落下していく。湖面にと立つ波のひとつひとつがはっきり見えるところまで近づく。「犬」がヘルメットの側頭部に手をやる。


 それで何か操作をしたのか、体勢を立てなおした。頭をあげ、湖面を滑るように飛ぶ。衝撃でみず飛沫しぶきがあがる。


 蒼は「犬」の背中の上で顔を拭った。湖の水はすこしなまぐさい。正面に橋が見える。高い塔から橋桁はしげたにケーブルが伸びている。たつ橋だ。「犬」はまだ側頭部に手を当てている。蒼はそこを殴りつけた。「犬」は一度手をひっこめ、またヘルメットに手を伸ばす。蒼はまた殴る。


「犬」が高度をあげた。湖面からすこし離れる。「犬」は体をひねって回転した。背中の蒼は逆さ吊りになる。


 相手の鎧が濡れていて手が滑る。落ちそうになって彼は右手に投げ槍を生成した。相手ののどに差しわたして一端を左手でつかむ。自分の胸に引きつけて思いきり締めあげる。


「犬」も槍をつかみ、押しはがそうとする。蒼の知らないことばでうめく。


「何いってっかわかんねえよ。翻訳機はどうした」


 相手の喉を潰すつもりでさらに力をこめる。胴に巻きつけた脚もきつく絞める。


「犬」がひじを腹に打ちおろしてくる。もう一方の手で顔をひっかこうとする。


 蒼は力をゆるめない。背筋が引きつり、痛む。口の端からえきが垂れる。


 声がやんだ。だらりと垂れた腕が蒼の腰に当たる。気絶したふりでないことは、体を密着させている彼にははっきりとわかった。相手の体からしんのようなものが失われている。


 彼は「犬」の首に腕をかけ、息を吐いた。


 こいつを倒したところで何がかわったというのだろう。上空を「がい」の円盤が暗くおおっている。世界の危機は終わらない。


 それでも、いまのところは死なずに済んだ――ハルカたちも含めて。


「犬」は失神したが、まだ飛びつづけている。


 どうやって降りようかと蒼は考える。ふと気づいて顔をあげ、進行方向を見た。


 龍瀬橋の上に立つ鉄塔がすぐそばまで迫っていた。


「クソッ、マジか……」


 このまま行けば鉄塔と衝突することになる。それを避けられたとしても、斜めに走るケーブルのどれかにひっかかりそうだ。橋桁を支えるケーブルは街灯の柱くらいある太いもので、この速度で接触すればただでは済まない。


 彼は下を見た。一面の水なので高さがわからない。


 橋の方を見て高さを推測する。数日前のがけより高い。15mはある。


 覚悟を決めるため、一度深呼吸する。


 相手の胴に絡めていた脚を緩め、飛びおりようとした。が、腕がはずれない。


「犬」が首にかかった彼の腕を押さえていた。


「放せ!」


 彼は強く腕を引いた。


「犬」が何かいっている。蒼にはことばがわからない。


「バカ野郎! 前見ろ!」


 そう怒鳴って大きな動作で進行方向に顔を向けた。「犬」もそちらに視線をやる。ようやく状況を悟ったらしく、上昇して避けようとする。


 だが間に合わない。鉄塔はもう目の前だ。表面に浮きでたナットの六角形がはっきり見えた。


 蒼はとっさに投げ槍を「犬」の体に押しつけた。


「消えろ!」


 爆発させると、彼の体は下方に吹きとんだ。


 慣性で橋の方に飛んでいく。うしろ向きなのでその先に何があるのかは見えない。


 ケーブルのすぐ下を通過する。思いのほか低い位置を飛んでいるようだ。


 橋の上の道路を飛びこえる。蒼は目をつぶった。道の反対側にあるケーブルをかわせるかどうかは、運だ。


 ずいぶんと長く飛んでいる気がした。


 目を開けると、足の先を橋の欄干らんかんが通りすぎていくところだった。彼はほっとした。これで橋のどこにもぶつからずに済んだ。


 油断しているところに、激しい痛みがやってくる。全身を硬いものに打ちつけ、頭がしびれる。目の前が暗くなる。


 悲鳴をあげそうになるが、水を飲みそうになってあわてて口をつぐむ。無数の泡に視界を塞がれ、何も見えない。


 湖の水は冷たかった。蒼は仰向けに沈んでいた。手で掻いて水面にあがろうとしたが、肩と腰に電流のような痛みが走り、体が強張る。


 泡が浮上し、彼の周囲から去っていく。そのどこまでも上昇していくさまを見て、深いところまで沈んだことを知る。水面から差しこむ光の帯がはるか高いところで揺らめいている。緑に濁った水が、もはや暗い。


 すべてが曖昧あいまいになる――色も、光も、痛みも、いまいる場所も。世界の輪郭が失われていく。


 こうやって終わるのもいいと彼は思った。父も母も町の人たちも、みもりもしゅうすけも「ワイルドファイア」小隊の者たちも、こうやって終わったのだろう。苦しんだ末に行くのと、突然落ちこむのと、ちがいはあれど、最後にはこうして深いところへ沈んでいく。


 満足しているわけではない。ただ、仕方がないとは思う。あとのことは水面の上にいる者たちがやればいい。


 いまはもう何もかもが手の届かない遠くの出来事になってしまった。


 ハルカ――彼女の面影が脳裏をよぎる。一瞬、視界に光が差しこんだように感じる。小さな熱が体の奥に生じ、また湖水に冷める。


 遠くで水面が白く割れた。海獣のような影が暗い水をつらぬき、彼の体をかすめていった。がいの木馬だ。


 高いところで生じた泡が消えずにかえって大きくなる。


 大きくなっているのではない。すこしずつ近づいてきている。中に人のいるのが見えた。


 蒼の体は泡に包まれた。体を圧迫していた力が消える。彼は水を吐いた。そこには空気があった。腹の底まで吸いこみ、その甘さにきこむ。


「ちょっとぉ、水かかったんだけど」


 上から声がした。


 蒼は泡の底に横たわったままあえいだ。左半身が痛くて動けない。ひどく冷えて体が震える。


 光を浴びせられる。


「その目どうしたの」


 短いスカートから伸びるほっそりとした脚が闇の中に浮かびあがる。


 ハルカは「カスケード・シールド」の中心に浮かびながらスマホのライトを蒼に向けていた。


「『犬』にやられた」


「見えないの?」


「ああ」


 開く方の目で彼は泡の外を見た。暗く濁ってとおしが利かない。上に目をやる。ハルカの脚をたどっていくと、スカートの下の暗がりに行きつく。泡の底に転がっている彼からは白い脚の隙間にできた濃い闇が真正面に見えた。


「何見てんだよ」


 ハルカのライトが彼の目を刺す。彼は顔を背けた。


「いや、何も見えないです」


「『シールド』の中にいる取りけすぞ。私が拒否したらまた水の中だからね」


「わかったわかった」


 蒼は泡の内壁をずりあがって座りこんだ。体が痛くて、水中にいたとき以上に息が苦しい。


「『犬』はどうなった」


「湖に落ちたよ」


「あのふたりは?」


 蒼がたずねると、ハルカは一度水面の方に目をやった。


「たぶん逃げきった。あんたのおかげ」


「そうか。よかった」


 彼はほおてのひらで拭った。「それならよかった。本当に」


 掌を濡らす水にうっすら血が混じっている。右目からの出血はまだ続いているようだ。


「私はちまたの人々を救うために戦った」


 ハルカが彼を見おろしていう。「あんたは?」


「俺の救うべき人たちはみんな死んだよ。あえていうなら、復讐のためだな」


「復讐は何も生まない」


「確かに」


 彼女のいうことはきれいごとでしかない。ありふれていてつまらないことばだ。


 だが彼女のきれいごとはすてきだった。いつまでも聴いていたい。この嫌なことばかりの世の中をきれいごとでならしてしまいたい。


 寄りかかる泡が揺れた。ハルカがスマホのライトを外に向ける。暗い水の中で黒いものがきたつように舞う。


「湖の底に着いたみたい」


 彼女がいう。蒼は立ちあがった。


 上を見ても水面がどこにあるのかわからない。湖の底はまったくの闇の中だった。


 ハルカの手にする光だけが泡の内部をぼんやりと照らしだしている。


 蒼はふりかえり、彼女を見た。


 ピンク色の髪が胸のあたりで絡まり、もつれている。膝にはり傷がある。


 彼女の近い匂いがする。


「何?」


 彼女が不機嫌そうな声を発する。


「いや、別に」


 蒼は泡の外に目をもどした。湖底の泥はしずまっている。動くものは何もない。


「静かだな」


「うん」


「まるで世界の終わりみたいだ」


「終わりじゃないよ」


 ハルカのことばに蒼はふりかえった。彼女の手にした光が彼の胸を照らす。


「ふたりいるから、世界は終わらない。ふたりいれば、それははじまり」


 彼はうなずいた。


 光が彼から泡へと移る。


「ねえ、あれ何?」


 ハルカが指差す先に蒼は目をやった。よく見えないので泡にひたいをつける。目をらすと、暗い水の向こうに大きな影が見えた。


 彼女が光を周囲にめぐらせる。ふたりを見おろすようにして立つものがある。


「何これ……家? まわりにたくさんある」


「町だ」


 蒼は顔を泡に押しつけた。「津久見つくみ湖に沈んだ町」


「大むかしの遺跡か何か?」


「ダムを作って沈めたんだ。戦後すぐに」


 この湖の歴史については歴史の授業で知っていたが、湖底に沈んだ町をこの目で見るのははじめてだった。


 ここに住んでいた人たちはどこへ行ったのだろう。住民が土地を明けわたすことと引きかえに、都会の人々が喉をうるおす。


 はんの町に住んでいた人たちも土地を明けわたすことになった――もっと残酷なやり方で。


 くりかえされることなのか。


 安住の地だと思っていてもそれは一時的なものにすぎないのか。


「このあと俺はどこに行けばいいんだろう」


 蒼はつぶやいた。顔をつけている泡が声で震える。


「私の通ってる教会に来なよ」


 ハルカがいう。「困ってる人を泊めること、よくあるし」


 蒼はふりかえり、ほほえんだ。


「それより俺は――」


「何よ」


「いや、何でもない」


 本当は彼女とふたりきりがいい。この湖の底のような場所で誰にも邪魔されずふたり静かに暮らしたい。


 ハルカがスマホのライトを消す。泡の中に闇が流れこんでくる。蒼の夢見た蜜月みつげつも押しながされてどこかへ消えた。

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