3-6

 出発しても集団のペースはあがらなかった。昨日速く歩きすぎたためだろう。短いじゅうたいがのろのろのぼっていく。


 そうも足取りが重かった。すこし熱がある。熱剤ねつざいをかじりながら集団のあとに続いた。あまり踏まれていないルートらしく、蜘蛛くもの巣が顔や脚にくっつく。かなりゆったりとしたペースであるにもかかわらず、息があがる。そのたびに彼は足を止めてふりかえり、杉の幹の間はるかに湖を見た。


 山頂ピークを越え、すこしくだると分かれ道に出た。


 蒼は登山地図を開いた。右に行くとこうりょうさんだ。左は破線ルートで、その先にあるのは聞いたこともないピークだった。


 集団はためらいもなく左の道を進んでいく。蒼は飲んでいた水筒のふたを閉め、走って追いかけた。


「おい、黄梁山はそっちじゃないぞ」


「わかってる」


 沙也さやが足を止める。


「えっ? 黄梁山に行くんじゃないのかよ」


「本当の目的地はこっち」


「でもそっちは破線ルートっていって、わかりづらい道だ。やめた方がいいと思う。正直、俺も行ったことないから自信がない」


「それも覚悟してるから」


 沙也がふりかえらずにいう。さっきまでと雰囲気がちがうので、蒼は何となく彼女を不気味に思った。


「どうしてそんなに自信を持っていえるんだ。おまえらだってはじめてなんだろ?」


「不安なら上原うえはらくんはここから引きかえしても構わない。誰もそれを非難したりはしないから」


 沙也が歩きだす。道は笹藪ささやぶに覆われ、先行する集団の姿はもう見えない。


 蒼は山深くにいることを生まれてはじめて恐ろしく思った。


 彼女たちはがいの居場所を正確に知っているのではないか。


 魔骸とはまたちがった魔物にここまで誘いこまれてしまった。この先に待っているのはきっと、あの町とはちがった種類の闇だ。


 だがもう引きかえすことはできない。あの町を襲った災厄さいやくの中心に飛びこむのは自分が最初でなくてはならない。単に魔骸を皆殺しにするだけでは駄目だ。殺さなければ。


 誰かがかなえた夢など、何の価値もない。


 蒼は歩きだした。尾根を渡る風が笹藪を一度撫でつけて湖へと転げていった。


 硬い葉が道を覆い隠し、先が見えない。ウインドシェルのそでを切り裂かれそうだ。


 すこし行くと集団が停滞していた。見ると岩場がある。高さは5mほどか。くさりやロープはない。


「間隔空けて1人ずつのぼっていこう。手と足で3つの点を確保して」


 蒼が声をかけると由一ゆういちがふりかえり、舌打ちした。


 集団が岩に取りつき、列ができる。蒼はその最後尾についた。ハルカがふりかえる。


「先行かないの?」


「みんながのぼってからでいい」


 彼はエナジージェルを吸い、水を飲んだ。


 沙也の番が来た。岩に足をかけ、斜面を仰ぎ見る。


「うわあ……こういうの苦手だわ」


「3点保持さえしっかりしてれば落ちたりしないから。リラックスして行け」


 蒼はてのひらを強くこすりあわせた。温めて指先の感覚を鋭敏にしておく必要がある。


 ゆっくりと沙也はのぼっていったが、斜面の中ほどで止まってしまった。


「あ~、ムリムリムリムリ。怖い怖い怖い」


「下見ちゃ駄目だって」


 ハルカが腰に手を当て、見あげる。


「斜面から体離せ。その方がバランス崩れないから」


 蒼の忠告に沙也は体を起こし、すこしずつ岩を伝っていった。


「よし、次は私だ」


 ハルカが膝を高くあげて岩を踏む。「こういうの割と得意」


 そのことばどおり、するするとのぼっていく。


 見ていなくてもだいじょうぶなようなので蒼はすぐあとに続いた。


 足が地面につかなくなってから妙な感覚に襲われる――昨日がけから落ちたときの、ふわっと浮いたようなあの感じ。残酷なものの中に自分の命が投げいれられてしまったようなあの感じ。


 いまつかまっている岩から手や足を離せなくなる。すこしでも動いたら落ちてしまいそうだ。高所恐怖症の人をバカにしていたが、いま彼らの気持ちがわかった。


 一度深呼吸し、右手を離して次の手がかりをさぐろうとしたそのとき、頭上でからからという音がした。


 彼はとっさに体を斜面に密着させた。


 握りこぶしくらいある石が落ちてきて肩をかすめる。


「おい! おまえふざけんな!」


 彼の怒鳴り声は岩肌に響いた。「落石のときは下に声かけろよ!」


「ごめんごめん」


 ハルカの返事が軽い調子なのにむっとして、彼は上を向いた。


 スカートの下が影になっていた。暗い林の中でそこはいっそう暗い。だが白い布ははっきりと明るかった。


 ハルカが右足をあげているのでパンツの右半分が割れ目に食いこみ、お尻の半分があらわになっていた。まるく張りつめた肌はパンツのそれとはまたちがった白さだ。脚の間に張りついてれる布はごく細く、下から見ている蒼には、隠すべきところも隠せていないように思えた。


「ちょっと!」


 ハルカが顔を下に向ける。「おまえパンツ見てんだろ!」


「い、いや……見てないです」


 蒼はあわてて目をらした。


 ハルカが右手を岩から離し、スカートを押さえる。


「手ェ塞がったから、おまえ先行け」


 彼女はスカートを脚の間に押しこんでパンツを隠そうとする。それで確かにパンツは隠れたが、お尻や脚の付根はまだ見えていて、何だかスカートの下に何も穿いていないかのようで、蒼はかえって目が離せなくなってしまった。


 斜面をのぼり、ハルカと並んで立つ。彼女ににらまれる。その顔は心なしか紅潮しているように見えた。


「この変態。下からパンツ見て興奮してたんだろ」


「いや……興奮はしてないです」


「おまえ嘘つくとき敬語になるな」


 蒼はこぶしを握り、その中に息を吹きこんで温めた。


「さっきの話だけどさ、落石のときは下の奴に声かけろよ。これは冗談ではなく本当に」


「あんたも上の人のパンツ見えたら声かけるわけ?」


「うん……今度からそうする」


「何がだよ。蹴りおとすぞ」


 怒っているハルカを置いて蒼は岩に手をかけ、体を引きあげた。


 のぼりきった先では沙也が石に腰かけて水を飲んでいた。


「プルちゃんと何しゃべってたの?」


「クライミングの技術についてちょっと」


 蒼は崖の際に立ち、下をのぞきこんだ。ハルカが苦しそうに口を開けてのぼってくる。いまも彼女のスカートの内側が5m下の地面に向けて開かれていると思うと、体がふわりと浮きあがるような感覚に襲われた。


 高所恐怖症の方はいつの間にか治まっていた。




 笹藪の道がくだりに差しかかったところでハルカと沙也がしゃがみこんだ。


 先頭の方から伝言ゲーム式に指示が送られてくる。


「『プローブ』が敵を捉えた。500m先。戦闘準備しろって」


 沙也がリュックをおろし、防護服を取りだす。


「それ持っててあげる」


 ハルカが沙也のリュックを抱えるようにして持った。


 蒼はすこし迷って、やりを出さないことにした。しゃがんだまま移動するのに槍があると邪魔になりそうだ。


 身を低くして進んでいく。視界が笹で塞がれる。先を行く沙也の防護服が白く目立つのではぐれる心配はないだろう。


 歩いていると笹の葉が顔に当たる。へりが鈍い刃のようで、顔をりそうだ。戦いが近づいていると感じる。もうすぐ血が流れる。


 道が直角に曲がるところで大きな岩にぶつかった。その陰で集団がしゃがみこんでいた。遅れて輪に加わった蒼・ハルカ・沙也の3人を由一が手招きする。


「あそこだ。見えるか?」


 岩陰から顔を出す。尾根おねの一番低いところ――いわゆるあんがひらけていて、幕がいくつか張ってある。キャンプ場で見かけるタープのようだ。幕の質感はしゃさんで木の枝にひっかかっていた布に似ていた。


「あの下に魔骸がいるのか」


「全部で54匹」


「プローブ」のくにがいう。由一が仲間たちをそばに集める。


「二手に分かれよう。向こうにまわりこんで挟み撃ちだ。攻撃開始の合図は俺の『ナイトロ・エアリアル』な」


 6人がその場を離れて道をくだっていった。その中にはざわや昨夜青姦アオカンしていたぶちの姿もあった。


 蒼は動かない。由一の部下ではないので、彼の作戦や命令に従う必要などないと思った。


「おまえは俺の目の届くところにいろよ。勝手なことされちゃ困るからな」


 由一のことばを無視して蒼は水をすこし口に含んだ。


「じっとしてると寒いね」


 ハルカがブレザーの二の腕をさする。


「こっちは暑いんだけど。早いとこはじめてほしいな」


 沙也はマスクをあごまでさげてため息を吐いた。


 腕時計を見ていた由一が顔をあげた。


「三国、敵が一番多いのはどこだ」


「手前から2番目のテント」


「よし」


 由一は立ちあがり、左腕を前方に伸ばした。手首から2本、とがった棒が左右に突きでる。2本の棒の間に糸が張られ、弓になった。彼はそれを水平に構え、右手でつるをぎりぎりと引く。


「さあ、キックオフの合図だ」

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