3-5

 山で眠りからさめるといつも自分がどこにいるのかわからなくて混乱する。暗いせいか、シェルターが狭いせいか。


 そうは寝袋から両手を出した。腕時計のバックライトを点灯させる。時刻は午前0時をまわったところだった。


 寒くて目をさましてしまったのではない。寝袋の中は爪先まで暖かい。たっぷり眠って、自然と目がさめたのだ。


 たっぷり眠ったのはいいが、ちょっと起きるのが早すぎた。日の出まで6時間もある。


 蒼は目をつぶった。山で眠ると孤独を感じて、ついついのことを考えてしまう。学校の友達もいまごろ寝ているのだろうか。母はまだ起きているのか。


 いまはもう友達も母もいない。思いは町の外に飛ぶ。健康な人々は健康な眠りの中にいるだろう。横山台よこやまだい市で病気にかかった人は熱にうなされながら長い夜を過ごすだろう。おおはすとうげを封鎖する自衛隊員は交替で休むだろう。


 がいもきっとこの山のどこかで眠るのだろう。


 殺したいほど憎む者も、殺されるほど憎まれる者も、ふだんからやっていることを続けなければならない。ものを食べ、水を飲み、眠らなくてはならない。


 殺し殺される運命が交錯するそのときまで生きなくてはならない。


 蒼にはそれがとてもえんなことのように思われた。


 ぼんやりとツエルトの天井を見つめていると、尿にょうをおぼえた。外に出るのが億劫おっくうでしばらく我慢していたが、これもまた遠まわりだと思い、起きあがる。


 寝袋の下に敷いて枕代わりにしていた靴を履く。外は寒い。ダウンジャケットを羽織る。顔は何だか熱い。力を使ったせいで熱が出たものか。


 ヘッドランプは着けてきたが、点灯しなくても歩くことができた。月の光に浮かびあがるテントの群れが山脈のようだ。鉄塔は夜空が伸ばした手だった。地面をつかみ、もぎとろうとする。蒼はその下を行った。真下から見あげると、黒い影と化した鉄骨が迫ってくるようだ。大きな力を感じる。人の造ったものだが、1人の人間など一捻ひとひねりにできそうな大きな力だ。


 テントの間を抜け、道を横切って林に入る。すこし行くと足を滑らせそうになった。くだり斜面になっている。滑落かつらくはもう御免だ。


 木の陰に隠れるようにして放尿する。杉の落ち葉溜まりを打ってぱたぱたと鳴る。解放感にため息が出た。


 全部出しきって道の上にもどる。静かだった。風の音もしない。テントの下の寝息も聞こえない。どっしりとした闇だけがある。


 このままツエルトにもどるのが惜しいように思った。げんしゅくな山の空気をひとり占めしている。蒼は昼間来た方向にすこし歩いてみた。真っ暗だが不気味には感じない。幽霊や妖怪だって怖くない。もっと恐ろしい修羅場をくぐりぬけてきたのだ。


 口笛でも吹いてみようかと思ったそのとき、彼は違和感をおぼえて足を止めた。


 闇の向こうに何かいる。


 息遣いきづかいが聞こえる。


 なんてことは頭の中から吹っ飛んだ。山の獣は怖い。お化けならびっくりするだけで済むが、熊やいのししの攻撃は命に関わる。


 蒼はその場にしゃがみこんだ。視線を低くすれば闇をかすことができる。


 耳を澄ます。すこし先の方、林の中に気配がある。彼は身を低くしたままそちらに近づいた。


 手負いの獣が立てるような荒い呼吸音が聞こえる。やぶの向こうからだ。彼は体を起こしてのぞきこんだ。


 最初は1人なのかと思った。


 人が地面にっている。小刻みに揺れ、うなり声のような息を吐く。


 よく見るとその下にもう1人いた。上の者に押しつぶされるようなかっこうだ。


 上の者は膝までズボンをおろして尻を出していた。下の者は何も穿いていなかった。太腿ふとももが闇に白い。上の者の腰を抱えこんで足首で交差する。


 ネットで見た動画とちがってふたりはお互いしがみつき、尻だけを震わせるように動かしていた。動画のあれは人に見せるための演出だったのだと蒼は悟った。


 動画だと女優は甲高かんだかい声をあげるが、目の前の女は押し殺したような声を漏らしていた。


 蒼はしばらく観察していたが、体が冷えてきたのを感じてその場をあとにした。


 来た道をもどりながらいま見たものについて考える。


 人間、生きていればそういうこともするだろう。ものを食べ、水を飲み、眠るだけでは足りない。彼はなぜだか空腹をおぼえていた。


 自分のツエルトのそばまで来たとき、何かに足を取られた。倒れそうになり、地面に手を突く。


「ギャーッ!」


 近くのテントで悲鳴があがった。


「どうした、沙也さや!」


 その向こうのテントからハルカが飛びだしてくる。ブレザーを脱いだ制服姿で、ローファーをつっかけている。


 沙也がテントから這いでてきた。服装は昼間のままだ。


「何かいまテント揺れた」


 蒼は彼女たちのところに行き、手を合わせた。


「すまん。俺がガイラインに足ひっかけた」


「『足ひっかけんな』っていったの、そっちだよね?」


 ハルカが腕を組み、にらんでくる。


「いまそこですごいの見ちゃってさ。それでちょっとぼんやりしてた」


「何よ、って」


「ねえ、中で話さない?」


 沙也が腕をさする。「ここクッソ寒いんだけど」


 テント内にLEDのランタンがともされ、中は明るくなった。沙也とハルカは寝袋の上に座る。蒼は靴を履いたまま、土間のそばに腰をおろした。


「誰か知らないけどさ、林の中でセックスしてる」


「は?」


 ハルカににらまれる。「何そんなことでビビってんだよ。童貞かよ」


「きっとぶちくんとくにさんだね、うん」


 沙也がひとてんし、うなずく。


「まったく……そんなことで起こすなよ」


「それはホントごめん」


 蒼はハルカに頭をさげた。


「もうおしっこして寝るわ」


 ハルカが小さなマグライトを手にテントから出ていった。蒼は沙也とふたりきりになった。


 彼女は眼鏡をはずしていた。そのせいか目が大きく見える。ツインテールに結っていた髪はおろしてある。昼間とはすこし雰囲気がちがった。


 寝起きの者の立てる熱っぽい匂いが1人用テントの中に充満していた。沙也の尻が寝袋のダウンを押しつぶしている。床に置かれたランタンの光がふたりだけを照らしだし、それ以外の世界は暗い。


 沙也が手を突き、こちらに迫ってきた。髪が肩から滑りおちる。匂いが濃くなる。蒼は息をんだ。


 彼女の匂いは彼の脇をとおりすぎた。ザックのフロントポケットをさぐる。


「吸う?」


 煙草のパックを差しだされ、彼は首を横に振った。沙也はテントから出て煙草に火をける。


「プルちゃんが嫌がるから、なかなか吸えないんだよね。『煙草は人の魂をらくさせる』とかいって」


 彼女が笑うと口から煙が漏れ、闇に溶けた。「あの子すぐ『ちまたの人々が~』とか『悪魔が~』とかいうでしょ? あれ、宗教」


?」


「そう。あの子のお母さんがハマってて。『もうすぐこの世は終わる』みたいなこといってんの。無職で貧乏なのに毎日近所まわって布教してる。もうすぐこの世は終わるから働かなくてもいいって発想らしい」


「それで魔骸が来たって?」


「どうかな。でもまあ、『堕落した世界に天罰がくだる』っていってんのは聞いたことあるから、そう思ってんのかもね」


 沙也は笑い、天に向かって長々と煙を吐いた。


 蒼の中で宗教というものがハルカとうまく結びつかなかった。母方の祖父の葬式だとか近所の家の敷地内にある墓だとか、彼の知る宗教的な光景にあのピンク髪でスカートが短くて不機嫌そうな彼女を置いたら浮いて見えるだろう。


「いま思いだしたけどプルちゃん、小学校のときに1回――」


 沙也が煙草を携帯灰皿にねじこんで新たな1本をくわえたとき、悲鳴が聞こえた。


「うわあああああああああああ」


 蒼と沙也は顔を見合わせた。あれはハルカの声だ。


 沙也が火の点いていない煙草を投げすて、駆けだした。蒼もテントを飛びだす。


「声どこから?」


「林の中だ」


 彼はさっき自分が行ったところを念頭に置いて答えた。


 道を横切り、林の中に入る。


「プルちゃーん、どこにいるのー?」


「来るな!」


 ハルカの声が返ってくる。


「意外と近いね」


「いや、夜は声が遠くまで届くもんなんだ」


 蒼はヘッドランプを点けた。「俺が行ってくる。おまえは誰か呼んでこい」


 足元を一度照らし、思いきって斜面に飛びこむ。腕をひろげバランスを取りながら、靴の底で滑っていく。


「いや、だから来るなって!」


 意外に近くで声がした。蒼は止まろうとして足を滑らせ、尻餅をついてしまった。


 手を突いたところにランプを向けると、見おぼえのあるローファーが闇に浮かびあがった。


 脚が藪の中から突きでている。蒼は立ちあがり、ちくちくする葉を掻きわけた。


「だいじょうぶか? 何があった?」


 藪の向こうには白い布があった。膝の間でパンツがぴんと張って、できそこないのマスクみたいになっている。


 地面にひっくりかえったハルカが脚の間を手で覆う。スカートがめくれあがって、彼女の下半身はきだしになっていた。ヘッドランプの光に白く輝き、その曲線を明らかにする。


「来るなっていったろうが!」


 ハルカが蹴りを放つ。脚の間の暗がりに光が当たり、そこに気を取られた蒼はローファーの爪先を胸に食らって斜面を転げおちた。


「プルちゃん、だいじょうぶ?」


 沙也がハルカのところまでおりてくる。彼女の足に押しながされた土を蒼は顔に浴びた。


「おしっこしてたら足元ズルッといった」


 ハルカは沙也の手を借りて立ちあがる。


「人騒がせにもほどがあんだろ」


 蒼も近くの木につかまり、起きあがった。


 ハルカが足をあげてパンツを脱ぎさり、谷の方に放った。白い布が蒼の頭上を越え、闇に呑まれていく。


「おい、ゴミ捨てんな。山が汚れる」


「あのパンツはもう80%が土だ。ほっときゃ土にかえる」


 ハルカはローファーを脱いで中の土を掻きだした。


 蒼はキックステップで爪先を斜面に食いこませ、のぼりはじめた。今日はやたらと斜面に縁がある日だ。


 ハルカが沙也に向けてお尻を突きだしている。


「ねえ、りむいたっぽいんだけど見てくれる?」


「どれどれ」


 沙也はしゃがみこみ、ハルカのスカートを下からのぞきこむ。「あっ、ちょっと血が出てる」


「マジか。最悪」


 ふたりを横目に見ながら蒼は柔らかい土を踏んでいく。沙也のライトでハルカのスカートが内側からぼんやり光った。


 のぼりきった先には人が集まっていた。みなライトを持っていて、何かの宗教行事のようだ。


 由一が大きなランタンを手に提げていた。


「何があったんだ?」


「本人にきいてくれ。下にいる」


 蒼はてのひらについた泥を払った。


 一組の男女が他からすこし離れて何やら話しあっている。その横をとおるときに蒼は男の方を指差した。


「ゴムんとこ、ひっくりかえってる」


「え? ああ……」


 男はジャージのウエスト部分がめくれているのを直し、Tシャツのすそをひっぱりだす。そのかたわらに立つ女の顔を蒼は見つめた。昼間「プローブ」を使っていた女だ。


 彼女たちのときには暗くて見えなかったものが、ハルカのときは見えた気がした。彼女が手で押さえる前に一瞬目に入ったものは、ランプの光が作りだした影か、あるいは――


 自分のツエルトへと歩く蒼の脳裏に「堕落」ということばがこびりついていた。


 町にひとりでいたときはすべてがもっとぎすまされていた気がする。こんなサマーキャンプじみた雰囲気ではなかった。しゅうすけやみもりといたときだってこれよりはましだった。魔骸を倒すという目標以外は生活からぎおとしていかなければならないのに、ここには余計なものが多すぎる。


 蒼はねつざいを規定量の3倍、口に放りこんだ。みしめると砕けて苦い。それを堕落した自分への罰だと思い彼は、えきとともに口の中に溜めつづけた。




 朝方すこしまどろんでしまったせいか、目ざめたときにはかえって体が疲れていた。


 蒼は朝食をエナジージェルとビタミンのサプリで済ませ、ツエルトをたたんだ。


 他の者たちはのんびり朝食をりテントを片づける。蒼はそれを地面に座ったまま眺めていた。


「ああさむ


 ハルカが脚をさすりながらペグを地面から引きぬく。制服なんかではなくもっと暖かい服を着ればいいのにと思いながら蒼は見ていた。


 沙也がニヤニヤ笑いながら彼のもとへやってきた。


「まだ下に何も穿いてないと思ってる?」


「え? いや……」


 そんなに彼女の尻ばかり見つめていただろうかと蒼は反省した。


「残念ながらもう新しいの穿いてるから」


 沙也は笑いながら自分のテントにもどっていった。


 これ以上誤解を招かぬよう、蒼は彼女たちに背を向けた。遠くの山間やまあいで湖が朝日にえていた。

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