第3章 夢について

3-1

 チャイムが鳴って、そうはシャープペンを置いた。


 試験監督の教師が解答用紙を集めはじめると、教室内はどっと騒がしくなる。


 前の席に座るとうがふりかえって蒼の机にひじをかけた。


上原うえはら、昼飯どうする?」


 蒼は眼鏡をはずし、目薬をした。


「別に何でもいい。そんなことよりいまのテストだけどさ――」


「やめろやめろ! その話はすんな!」


 伊藤が耳を塞ぐ。「せっかく忘れようとしてたのに!」


 そうはいうが、伊藤は蒼よりもずっと成績がよかった。この学校自体、彼のかつて通っていた高校よりレベルが高い。


 今年度からこの学校に編入したが、彼は自分が特別枠に入れられていると感じていた――という特別枠。他の生徒を差しおいて大学の推薦がもらえそうなのもきっとそのためだ。


 だが彼はそのことで気がとがめたりしない。どうしても入りたい大学、入りたい学部がある。夢のためなら自分の過去を利用することもいとわない。


 解答用紙を回収しおえた試験監督が去ると、生徒たちは移動をはじめた。出席番号順の並びから元の席順にもどろうとする。


 伊藤の席にいつもの仲間が集まった。蒼もそこに交じる。


「なあ、夏休みになったら海行こうぜ海」


 伊藤がいつもの大きな声でいう。仲間たちは笑った。


「おまえ、受験どうすんだよ」


「1日くらい遊んだってだいじょうぶだろ。1日遊んで落ちるくらいなら、そいつどうせ駄目だって」


「上原も行くでしょ?」


 肩を叩かれふりかえると、いずみかわが立っていた。伊藤を中心とするグループには女子も交じっているが、彼女は女子側の中心人物だった。


「ああ、行くよ」


 蒼はうなずいた。


 伊藤が泉川に目をやる。


「おまえどんな水着着てくんの?」


 その視線に野球部のみなみが割りこむ。


「俺はボーダーの――」


「いや、オメエにはきいてねえから」


 伊藤が南の坊主頭を叩き、仲間たちが笑った。


 笑い声に囲まれて蒼は、肩に残る手の感触に気を取られていた。こうして気安く触られることが不思議だった。


 あの病気はもう他人に感染しない。全世界でワクチンが接種されてみなが免疫めんえきを持つようになった。いわばすべての人がうっすらと病気に感染しているようなものだ。蒼は特別ではない。だから触られたところで病気をうつしてしまう心配はないのだが、それでも彼の方から他人に接触することはためらわれた。


 感染しても発症しなければ問題ない。だが、いまでもまれに発症してしまう者がいる。あの――大槻おおつきのように。完璧なワクチンなど存在しないのだ。発症してしまうと、いまのところ治療する手立てはない。対症療法だけだ。


 大槻は運が悪い。いまさら発症するなんて。「なんで僕が――」なんていっても仕方がない。運が悪いのだから。


 みんな運が悪かった。両親も、となりの和田わださんも――和田のおばさんはあの夜、富士谷ふじや中学校に運ばれる途中で亡くなったそうだ。


 みんなあのときあの町に住んでいなければ死ぬこともなかった。


 みもりもしゅうすけも運が悪かった。決して弱かったために死んだのではない。


 ハルカも沙也さやも運が悪かった。あの町に来なければよかったのだ。


 がいもいま考えてみれば不運だった。


 自分自身はどうなのだろうと彼は考えた。彼を残してかわってしまった世界に生きつづけることは幸運なのか不運なのか。


 教室の声が遠く聞こえる。あの町で死に、いまも死につづけている自分の視線を彼は肌の表面に感じていた。




 みんなでファミレスに行こうという伊藤の誘いは断った。


 家とは逆方向の電車に乗り、鶴浜つるはま駅で降りる。平日だというのに観光客であふれかえっていた。商店街を歩いて花とお菓子を買う。それから自分の昼食用にパンを買った。


 病院に行こうと決めたのは急な思いつきだった。おかげでハルカに食わせる不味まずいスイーツを見つけられず、まともなものを買ってしまった。


 海沿いを走る電車の中でパンを食べて腹ごしらえを済ませた。


 いつもの駅で降りて海沿いの国道を歩く。防波堤の向こうは砂浜になっている。あの町の湖はダム湖なので砂浜がなかった。海のそばに住めば毎日浜で遊べるだろう。彼はそうした生活を想像してみようとしたが、具体的な絵は何ひとつ浮かんでこなかった。


 病院の守衛が彼の制服を見て不思議そうな顔をした。


 受付カウンターの事務員も物珍しそうに彼を見る。


「蒼くん、学校の帰り?」


「今日テストだったんで」


 彼はえりをうしろにひっぱり、汗まみれの背中に張りつくシャツをがした。「ハルカ呼んでもらえますか」


 いつもとちがって連絡せずに来たので、彼女を院内放送で呼んでもらう必要があった。


 ソファに腰かけ、いつも彼女がやってくる廊下を見つめた。だが彼女はその手前にあるエレベーターの中から姿を現した。


「何か女子っぽい袋持ってるな」


 車椅子に乗った彼女がいう。彼は驚いて立ちあがった。


「おまえ……どうした。だいじょうぶか?」


「だいじょうぶだよ」


 彼女は電動の車椅子を操作してこちらにやってくる。「ちょっと微熱が続いたくらいで安静にしてろって。この病院、過保護すぎる」


 彼は彼女の体を見まわした。先週とかわったところはない。顔色も悪くない。


「本当にだいじょうぶなのか?」


「だいじょうぶ。でもこの車椅子は気に入った。移動めっちゃ楽だし。これであとスマホ充電できたら最強だった」


「いうほど最強か?」


 ハルカが元気そうなので彼はすこし安心した。いつも彼女はぶっちょうづらで、口を開けば辛辣しんらつなことばばかりで、はかなけなな「病人らしさ」はまるでない。そのために彼女の病のことをつい忘れてしまう。寛解かんかいした彼とはちがって、いつ病勢が進むかわからないのだ。


 エレベーターに乗りこむと、ハルカは彼の持つ花のかごに視線を寄越した。


「私、花に興味ないっていわなかったっけ?」


「いいんだよ。俺が好きで買ってんだから」


 エレベーターの乾いた照明の下で花だけが場ちがいにうるおいを含んで咲いている。


 病室のベッドに沙也はかわらず横たわっていた。肌には血の気も水気もなく、枯れる間際の白い花弁のように見える。


「今日は調子よさそうだな」


 彼はそういって彼は花をサイドテーブルに置いた。


 大槻が飲み物を運んできた。蒼にしゃくして、彼の持つ紙袋に目を留める。


「そのマカロン、有名なお店のだよね」


「そうなんですか? 適当に買ってきたんですけど」


 紅茶の入った紙コップを受けとり、箱を差しだす。大槻はチョコ味らしき茶色のものを取って箱をハルカにまわした。彼女はピンク色のものを取る。


 蒼は彼女のそばに寄って箱の中をのぞいた。色とりどりの丸いお菓子が並んで、まるでがんか文房具のようだ。バニラ味だろうと見当をつけて白っぽいのをつまんで取る。


「あっ……これ美味おいしいね」


 大槻が顔をほころばせる。「さすが有名店なだけある」


 蒼ははじめてマカロンを食べたが、こんなものかと思った。とにかく甘くて、それ以外の細かい風味がよくわからない。ハルカもわずかに顔をしかめながら食べている。


 大槻がふたつ目のマカロンを箱から取った。


「ハルカちゃんももう1個どう?」


 彼女はかぶりを振った。


「不味い菓子ばっか食べさせられてきたから、美味しいのは体が受けつけない」


「それは悪いことしたな」


 蒼は口に残る甘ったるさを熱い紅茶で洗いながした。


 彼女の病状が気にかかっていた。本当はすごく悪いのではないだろうか。食欲がなくなったり、自分で歩くこともできなくなるくらいに。


 医者や看護師にきいても本当のことは教えてくれないだろう。彼らは蒼の入院中も親切にしてくれたが、それは表面上、職業上のことだ。この病院はハルカたち患者のためにあるのではない。彼女たちを世間から隔離するため、つまり外の人たちのためにあるのだ。


「先週、どこまで話しましたっけ」


 彼は大槻に声をかけた。しいたげられた者どうしなら隠すことなど何もない。病を得た者にしかできない話がある。


「敵に囲まれてめそめそ泣いてたとこでしょ」


 ハルカがいう。


「そうだったな。それでおまえがパンツ見せてくれたおかげで泣きやんだんだった」


 彼がいうと、ハルカが車椅子を急発進させてパンチしてきた。勢いがついているので痛い。彼は殴られた尻をさすりながらいつものソファに腰かけた。


 正面には沙也のベッドがある。この中でもっとも虐げられている彼女は何も明かさず、ただ眠っている。


   ◀▶   ◀▶   ◀▶


「で、ここからどうやって上にもどるわけ?」


 ハルカが泡の中心に浮いたままがけを見あげる。泡をとおして降りそそぐ太陽の光が彼女の髪のピンクをより鮮やかに見せていた。


 3人は谷の底にいる。


 蒼は左手で頭を掻いた。川に落ちたせいで濡れた髪からしずくが垂れる。


「俺は知らん」


「何だそれ。じゃあどうやってここに来たんだよ」


「あっちの崖から落ちてきた」


「うわ、使えねえ」


「うちらも人のこといえないけどね」


 沙也が笑う。


「おーい」


 崖の上から声がした。「下流の方にすこし行ったら上にのぼる道あるってよ」


 沙也とハルカは顔を見あわせる。


「だってさ」


「じゃあ行くか」


 ハルカが泡を消し、地面に降り立った。


 川を渡る風が焦げ臭かった。魔骸の死体が焼けた臭いだ。崖の上にいる何者かは炎を起こす力を持っている。


 ハルカと沙也が並んで歩きだす。地に足を着けたハルカは背が高かった。165cmはあるだろうか。一方の沙也はやや小柄だ。


「歩きにくいねえ、ここ」


 川原の岩に足を取られた沙也がハルカの肩につかまった。ハルカの方も足元がローファーなので、斜めになった岩に足を滑らせている。


 彼女の服装はこの場にそぐわなかった。山に制服で来るなんておかしい。ましてやいまは戦場でもあるのだ。


「おまえら、どこから来たんだ?」


 蒼が声をかけると、ふたりは足を止め、ふりかえった。


「私たちは横山台よこやまだい市」


「生まれも育ちも横山台市だよ。私とプルちゃんは保育園から中学校までいっしょ。高校は別だけど」


 横山台市は東京の西端だ。ここ津久見つくみあおい区から見れば、山ひとつ向こうに当たる。


「向こうはどうなってるんだ? 病気はひろがってるのか?」


「何千人かが入院したよ」


 ハルカが岩のとがったところにローファーの底を当てた。「まるでこの世の終わりだった」


「さっきの何とかシールド、あれは病気にかかったから出せるようになったんだろ?」


「そうだよ」


 ハルカが蒼の右腕を見る。「そっちもそうでしょ?」


 蒼はうなずいた。やりは魔骸と戦ったときのままだ。


 ハルカが風で暴れる髪を押さえる。


「最初熱が出て、気がついたら体のまわりに何かできてた」


「キターッて思ったよね、そのとき」


 沙也が大きな岩を踏みのぼる。「ちっちゃいときから憧れてたからさ、そういう特殊能力みたいなやつ」


「あんたはアニメの観すぎだよ」


 ハルカは手を差しのべ、岩の上でバランスを崩しそうになっている沙也の腕をつかんだ。


 彼女たちは昨日までいっしょだった脩介やみもりとはちがって見えた。脩介とみもりは病が蔓延まんえんする地域の中にいた。彼らには蒼と共通している部分があった――同じものを失い、同じことを願った。


 ハルカと沙也は外から来ている。蒼は彼女たちの身にまとう空気にあいれないものを感じた。


「どうしておまえらここに来たんだ。何が目的だ」


 蒼は槍の先を足元の岩に当てた。


「さっきもいったでしょ。ちまたの人々を救うため」


 ハルカがいうと沙也が吹きだした。


「プルちゃんって『人々を救う』とか『地獄にちる』とか、いうことがおお袈裟げさだよね。アホのくせに」


「うるさいな」


 ハルカは沙也の腕を突きはなした。


 このふたりと話しているとどうも調子が狂う。そういうところも脩介やみもりとはちがった。


「ふたりとも魔骸と戦うのははじめてじゃないな。前はどこで戦ったんだ?」


?」


 ハルカが首をかしげる。「何それ」


「ああ、すまん。俺たちが名づけたんだ。悪魔の骸骨がいこつとか蜥蜴とかげとか呼ぶよりいいかと思って」


?」


 ハルカが首を傾げる。「あれ、蜥蜴っていうより河馬かばでしょ」


「いうほど河馬か?」


 沙也がふたたび岩の上にあがる。「あんな河馬なら動物園の人気者になってないって」


「でもっていうのはいいかもね。あいつらきっと悪魔の手先だし」


 うんうんと一人合点しながらハルカが歩きだす。沙也も岩から飛びおりてそれに続いた。


 蒼は槍を杖のように突いて彼女たちのあとを追った。


「で、魔骸をはじめて見たのはどこだ」


たかさんだよ」


 ハルカがふりかえらずに答える。


「あんなとこまで来てるのか……」


 津久見市と横山台市の境目に高天山はある。そのあたりは自衛隊によって封鎖されているはずだが、山道の方は自由に入れるのだろうか。あの山は登山客に人気なだけあって、ルートもたくさんある。


 沙也がふりかえりほほえむ。


「私たち、力を試すためにあの山に入ったんだよ。そしたら偶然その……マガイだっけ? あいつら見つけて、それは全滅させたんだけど、もっといるかもって思ってここまで来た」


 崖の上にのぼる道は細くけわしかった。上からおりてくる者がいたらすれちがうこともできないだろう。蒼は右腕の槍を崖の岩肌にあてがって歩いた。槍を消す気にはまだなれない。上にいるのがどんな連中か、まだわかっていないからだ。


 のぼりきった先は砂利道になっていた。白っぽく乾いて、ふつうの山道には見られないとげとげしさがあった。浅いわだちが走っている。近くに工事現場でもあるのだろうか。


 20人ほどの男女が蒼たちを待ちうけていた。彼らはみな若く、高校生くらいに見えた。

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