2-7
「ここまでか……」
不思議と心中は晴れやかだった。
やるだけのことはやった。両親を亡くし、ひとりぼっちの町で暮らし、仲間を失い、それでも戦いぬいた。そのことは誇りに思っていい。
それはそれとして、この結果は受けいれる必要がある。
蒼は右手に
川に向けて1歩踏みだし、
「おーいおーい」
谷間に奇妙な声が響いた。
蒼は上流と下流を見渡した。川岸に人影はない。
「ドッカンドッカンうるさいから何かと思ったら、こんなことになってんのか」
はっとして彼は背後をふりかえった。
「いま行くから、そこで待ってな」
そういうと彼女は宙に身を
落下する彼女の体を大きな泡のようなものが包んだ。泡には弾力があって、地面にぶつかり跳ねる。岩が積みかさなった
泡の中心に彼女は浮いていた。崖から飛びおりたときのまま、頭を下にしている。ピンク色の長い髪が垂れさがって泡の内側に触れる。紺ブレザーの
魔骸の1体が彼女に向けて発砲した。
泡に当たると表面が赤と青に光って波打つ。内部には何の変化も起こらない。あの泡には攻撃を無効化する力があるようだ。
「こっち来なよ。入るの許可するから」
彼女は脚を勢いよく振り、反動をつけて球を転がした。逆立ち状態だった彼女が頭を上にする。
魔骸が一斉に銃を撃った。彼女の泡が赤と青の波に包まれる。蒼は走っていって、銃撃の陰になる側から泡に触れた。何の抵抗もなくすりぬける。
中にすっかり入ってしまうと、彼女に見おろされた。相手は泡の中央で浮いているため、目線が上からになる。
彼女の背後で赤と青の波が無数に交差する。
「この程度の攻撃じゃ『カスケード・シールド』は破れない」
そういってピンクの髪を1束、指で
泡は直径3mほどの球体で、中の空間はファミリー用テントよりも広い。だがそこに謎の女子とふたりきりでいるのは何だか
目を細め、彼女は蒼の右腕を見つめる。
「何その槍みたいの」
「俺の力だ」
蒼は槍を顔の前に
「ふうん」
彼女は魔骸の方を向いた。「やられっぱなしじゃむかつくな。そろそろ攻撃するか」
「どうやって?」
蒼がたずねると彼女はふりかえった。
「もうすぐ来る」
「何が?」
「ほら来た」
そういって彼女は天を仰ぐ。つられて蒼も上を見た。
何か白いものが頭上から落下してきていた。
「うわっ」
彼は驚いて跳びすさった。背中が泡に当たり、柔らかく
白いものは泡をトランポリンのように使って大きく跳び、川を越えていく。白いものは人だった。全身が白い布に
「まず1匹ィ!」
白い人は黒い剣を持っていた。自身の身長より長く、胴体より幅広の刃だ。川を飛びながら空中でその剣を振りかぶり、着地と同時に魔骸の
残りの4体が白い人を取りかこむ。銃を捨てて光る棒を出すものもいた。
「めんどくさい。いっぺんに片づけてやる」
白い人は片手で剣を振りまわした。魔骸の腕が飛び、胸が斬り裂かれる。
剣が赤と青に光る。刃から液体が
「あの子の『セプティック・デス』は毒の汁を出す」
泡の中の女子がいう。「自分にも被害があるから、それで防護服着てんの。あんたも近づかない方がいい」
白い人はうずくまる魔骸たちを一体一体突き刺してまわった。すべてにとどめを刺してしまうと、長い剣を川の中ほどに突いた。棒幅跳びの要領で川を渡り、こちらの岸にやってくる。剣は崩れおち、砂となって水に沈んだ。
マスクを取りはずし防護服のフードを取ると、眼鏡をかけたツインテールの女子が現れた。ふうっと息を吐き、フードで潰れた前髪を直す。ジッパーをおろし、上下一体になった防護服を脱ぐと、その下はフリースのジャケットとジャージのパンツだった。
彼女は脱いだ防護服を丸めて向こう岸に放った。
「プルちゃん、私が入るの許可して」
眼鏡の彼女がいうと、ピンク髪の女子はうなずいた。彼女が入ってきて泡の中がいっそう窮屈になる。
「あれっ? この人も能力者なの?」
眼鏡の女子が蒼の槍に視線をよこす。
「らしいね。ただの右腕が長い人かもしれないけど」
ピンク髪の女子はうなじを掻いた。
眼鏡の女子が左手を差しだしてくる。まっすぐな視線が蒼を射た。
「はじめまして。私は
蒼がその手を取り握手すると、彼女はにっこりほほえんだ。「それでこっちが私の
「プル……何だって?」
蒼は不思議な響きの名前にとまどってしまった。プルーデンスは彼をにらみつけた。
「ハルカ」
「え?」
「プルーデンスは本名だけど、みんなはハルカって呼ぶ」
「そのハルカってのはどこから来たんだ?」
「は?」
ハルカは首を伸ばして蒼の目をのぞきこんできた。「おまえは初対面の人みんなに名前の由来きいてまわってんのか? 名前博士か?」
甘い香りが近かった。真っ赤な唇が目の前で動くと、蒼は触れてもいないのにその柔らかさや湿り具合を指先に感じられるような気がした。
「プルちゃんはさ――」
沙也がハルカの腕に触れる。「口は悪いけど根はそこそこいい人だからね」
「そこそこって何だよ」
ハルカが眉間に
蒼は落ちつかなかった。泡の中で男は彼だけで、3人だと狭く感じて、居心地が悪い。そもそも戦いの途中でどうして女子とおしゃべりなんかしなければならないのだろう。
これからどうするつもりなのか、ふたりにたずねようとしたとき、川の向こう岸で炎の柱が立ちのぼった。
炎は岸いっぱいにひろがり、魔骸の死体を巻きこんでいく。熱風に舞いあげられた沙也の防護服も赤い舌に絡めとられて
燃えさかる炎はやがて川を越えてこちら岸にも手を伸ばすが、泡に
沙也は涼しい顔で
「派手だねー、『ナイトロ・エアリアル』」
「あの悪魔どもには
ハルカが吐きすてるような口調でいった。
炎は起こったときと同じように突如として消えた。自然現象ではありえない。
「おーい、おまえら無事かー」
崖の上から声がする。見ると、10人ほどの男女がこちらを見おろしていた。
蒼はハルカに目をもどした。
「おまえら……何なんだ、いったい」
「私たちは救世主」
ハルカが泡の中心で浮遊したまま彼を見おろす。「
◀▶ ◀▶ ◀▶
「ハルカちゃんはギャルだったのか……」
「ギャルじゃないし。ちょっと髪染めてただけ」
彼女はそういっていまは短い後髪を手でくしけずった。
「本名がプルーデンスっていうのも知らなかったな」
「病室の名札も『ハルカ』にしてあるからね」
「ひょっとしてハーフか何か?」
「親が馬鹿なだけ」
ハルカは椅子の上で膝を抱え、足の爪を見た。「いや……会ったことないけど、お父さんが外国人なのかも。外国人でおまけに馬鹿って可能性もある」
彼女が裾のはだけていることに気づいて直す。蒼は見ていないふりで眼鏡をはずし、目をこすった。
「続きはまた来週」
そういって彼はソファから立ちあがった。
「うん、また来週」
大槻も立ち、空の紙コップを回収する。
蒼はベッドのそばに寄った。
「また来るからな」
沙也の顔をのぞきこんでいう。薄く開かれた目は動かない。
「沙也もきっと喜んでるよ、やっと出番が来たって」
ハルカがベッドサイドの花を見つめる。
彼が病室を出ると、彼女もついてきた。ずっと無言で、ぱたぱたとサンダルの足音だけを響かせる。
階段をおりる途中で、彼女は
蒼は彼女の背中をさすった。厚い病衣と薄い肉をとおして咳の振動が
咳がやんで彼女は顔をあげた。長い
「中学のときの担任を思いだした。いっつも私の背中に手を当ててブラ
「えっ……」
彼は手を引っこめた。「ブラジャーって乳ない人でも着けんの?」
「ないと乳首
彼女は涙を
彼は掌を見つめた。彼女の背中をさすったとき、ブラ紐の感触がなかった。そういえば彼がここに入院していたときも病衣の下はパンツ1枚で、上半身にTシャツなどは着なかった。検査が
彼は前を行く彼女の背中に目を
「何やってんの?」
彼女が踊り場で足を止め、
「さっきの話で嫌なこと思いだした。俺、明日から期末試験なんだ」
「こんなとこ来てる場合かよ」
「まあ、やるだけのことはやったし、何とかなるだろ」
「最初会ったときはこんないいかげんな奴だと思わなかったな」
「最初どんな奴だと思った?」
彼がたずねると、彼女は唇を
「えー? 何か……やばい奴って感じ。戦いのことばっかで他のこと頭に入んない、みたいな」
「いつまでもそんなふうでいるわけにはいかない。戦いは終わったんだから」
彼がいうと、彼女は唇を尖らせたままうなずいた。
1階の廊下を行く者はふたりの他になかった。彼女は壁の手すりを
「さっきの話で思いだしたけど、あんた最初会ったとき私のパンツ見たよね? あの崖の下で」
「いや、見てない」
「見たでしょ。私『カスケード・シールド』の中で逆さになってて」
「見えてたとしても俺は見てなかった」
「は?」
「何しろ戦いのことばっかで他のこと頭に入んなかったからな。いまはパンツとブラジャーのことばっかだけど」
「マジキモいんだけど」
彼女が顔を
ロビーを抜けてエントランスで彼は彼女を置いてひとり外に出た。病室の空調に慣れた体が外気の暑さで膨張するように感じる。開いたままの自動ドアから吹きこむ風に彼女はすこし顔をしかめた。
「明日のテスト、がんばりなよ」
「ああ」
彼はうなずいた。「パンツとブラジャーのことはいったん忘れる」
「あんたのキャラ変更、マジついていけないわ」
彼女が病衣のポケットに手をつっこんだ。
彼もショートパンツのポケットに手を入れ、うしろ歩きをはじめた。
「ハルカは最初に会ったときからかわらないな」
「そう?」
自動ドアが閉まりかけてまた開く。
彼は彼女の胸を指差した。
「咳、続くようなら先生にいえよ」
「わかってる」
彼女は手をひらひらと振って、廊下の方へもどっていった。
彼は前を向いて歩きだした。
彼女と過ごす時間はいつもあっという間に過ぎさってしまう。思えば、あの戦いもわずかな期間だった。
あれから3日ですべてが終わった――いや、はじまったのか。
道路脇の線路を走る3両編成の電車がゆっくりと彼を追いこしていく。走れば逆に追いぬいて先に駅までたどりつけそうだ。
それでも彼は走らなかった。これを逃せば次の電車まで20分待たなければならないが、動こうとはしない。
彼は足を止め、海を見た。一日の終わりの陽光を浴びながら寄せる波が防波堤の向こうで砂浜を洗う。暮れる色を滲ませはじめた空の奥に星の光が準備されている。
何もかも、見えないところでかわらずに起こりつづけている――沙也は眠りつづける。ハルカは咳をする。花は枯れる。死者は口をつぐむ。戦いの記憶は薄れていく。
潮風が彼の体を撫でていく。掌に残る彼女の体温を奪いさられると思い彼は、痛いほどに固く拳を握った。
大事なものの手触りがいまここにある。もう二度と空っぽにはなりたくなかった。
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