2-4

 夜、そうは静かに家を出た。


 みもりとしゅうすけは階上で眠りについている。いまからすることを彼らに知らせるつもりはなかった。自分でもなぜこんなことをしようと思うのか、わからない。


 斜面をおり、川に向かう。いつもの水音が濃くなる。彼は自分が歓迎されていると感じた。


 岸辺で服を脱ぐ。


 がいの返り血はタオルで拭った。汚れた服は着がえた。それでもなお体がぬるつき、臭う気がする。


 裸になって川に入った。冷たさに爪先がじんと痛む。昼間よりも流れが強いように思える。


 彼は川の中まで進んだ。流れが膝を洗う。しゃがみこみ、肩までかった。凍るような冷たさだ。肌に打ちつける水の中でもはっきりとわかるほど体が震えていた。


 耐えがたいが、その冷たさが体を清めてくれると思う。流れの厳しさが心を正してくれると思う。


 恐怖と後悔が彼の心にこびりついていた。


 あのとき、みもりが壁で敵の光線を防いでくれなかったら、彼は死んでいた。興奮していてその場では感じなかったが、あとになって恐ろしくなった。命を奪いあっているのだということをあらためて思いしらされた。


 そして殺しあいの中で自分を見失ったことに悔いが残った。すでに動けなくなっていた魔骸の体を吹きとばしたとき、彼は楽しんでいた。本来持つべき怒りも復讐心もそこにはなかった。これではまるでこの町に死をきちらすあの魔骸のようではないか。


 彼はその身を押しながそうとする川に祈った――どうか自分に揺れぬ心、すくまぬ体を与えてほしい。


 かわの高さに目を置いて眺めると、闇の底をかしてはるか上流まで見とおすことができた。


 水音が近くて、耳を塞がれたようになる。その絶え間ない響きに混じる音があった。彼は川岸に目を向けた。


 斜面をおりてくる者は暗い中で影と化していた。足を滑らせ、尻餅をつきそうになる。


若宮わかみや……?」


 彼は立ちあがりかけ、裸であることを思いだしてふたたびしゃがみこんだ。


 みもりは水際に立った。黒いウインドブレーカーの上下を着ているため、顔だけが闇に白く浮いて見える。


 蒼は川底に手を突き、岸の方に寄った。まるでかえるのようなかっこうだ。


「どうした」


上原うえはらが川に入るとこ、窓から見えたから」


 みもりがくすっと笑う。「なんで裸なの? 修行?」


 せせらぎの中で彼女の声ははっきりと聞こえた。


「まあそんな感じ」


「寒くないの?」


「別に」


 そうはいったものの、川面を渡る風が当たると濡れた肌が冷えて身震いがする。


 ひとりのときは気持ちがたかぶって、彼女のいう「修行」ではないが、何か崇高すうこうなことをやっているつもりになっていた。それで水の冷たさにも耐えていたが、彼女とことばを交わしていると現実に引きもどされて、急に寒く感じられてきた。


 みもりがしゃがみこみ、水に手をつける。


「あっ、冷たい」


「そうでもないよ」


 歯の根が合わぬのをみ殺して蒼はいった。


 みもりがポケットから白いタオルを取りだした。ひろげて水にさらす。流れに持っていかれそうになり、あわてて手を伸ばす。蒼もはっとして腰を浮かせかけた。


 彼女はタオルを絞り、顔に押しつけてしばらくそのままにしていた。


「ああ、気持ちいい。ずっとお風呂入ってないから」


 そういって顔をこする。


 その姿が蒼には泣いているように見えた。


「ちょっと体拭いてもいい?」


 みもりがいった。蒼は流れにされてバランスを崩した。


「ここで?」


「暗くて見えないでしょ?」


 彼女はウインドブレーカーの上着を脱いだ。下に着ているジャージは学校指定の、蒼も持っているものだった。ジッパーをおろすと白い半袖Tシャツが現れた。


 蒼にはすべて見えていた。白いTシャツも白い肌も、光の消えた町に慣れた彼の目には闇の中でも鮮やかに映った。


 みもりはTシャツを脱ぎブラジャーをはずし、その胸を夜気やきにさらした。覆うものが何もなくなった乳房はかさを増したようだった。高く盛りあがった部分のいただきにはうっすら闇が吸いついて見える。


 彼女はふたたびタオルを川に浸け、首をこすった。したたる水が肌を伝う。蒼の胸ならそのまま腹へと落ちていくところだが、みもりの場合は乳房の斜面をくだり、その先から滝のように流れた。ウインドブレーカーの膝に落ち、玉となって弾ける。


 柔らかそうに見えた乳房は上から押さえつけてこすっても形をかえない。その下の陰となった部分を拭うと、ぐっと持ちあがり、弾む。円を描くようにして彼女はその丸みを清める。


 そことくらべるせいか、肩や腕は細く見えた。彼女が腕をあげ、わきにタオルを当てる。滑らかなくぼみを蒼に向けて開くとき、彼女は目を伏せた。


 蒼はすべてを見ている。硬くなった性器を川がなぶっていく。


「背中拭いてくれる?」


 彼女がうしろを向く。ポニーテールが蒼を指す。背中は平らで、腰に向けて細くなっていく。その細さはウインドブレーカーが黒いせいで闇に紛れた尻の膨らみを予感させた。


 蒼は立ち、わざと乱暴に水を蹴立てて川を歩いた。


 彼女が肩越しに差しだすタオルを受けとる。タオルは彼女の肌に温もっていた。川に浸けると、いま蒼が肌に感じる冷たさに染まる。


 きつく絞って彼女の背中に当て、両手でこすった。力が強すぎるのか、彼女が前のめりに倒れそうになる。蒼は左手で彼女の肩をつかんだ。川の水で手が冷えているせいか、彼女の肩は温かい。


 片手でこすってもまだ強いのか、彼女の頭が揺れる。蒼は力をゆるめた。タオル越しの感触は骨張っていた。左手でつかんでいる肩も肉が薄くて硬い。


 その向こう側に柔らかいものがあると思うと、彼は落ちつかなくなる。指を滑らせて腋の下を潜らせたら、あの丸い、おそらくはまだ水滴のついたみずみずしい膨らみに触れることができるのだ。彼の体は熱くなった。濡れた肌から湯気が立ちそうだ。求めるものの代わりに彼は指を彼女の肩にきつく食いこませた。


「上原の力――」


 みもりが低い声でいう。「あのやり、上原に合ってると思う。せきくんのもだけど、何ていうか、よね」


 槍がどうのか、蒼にはわからなかった。


「私は上原みたいには戦えない。あんなふうに敵のところにつっこんでいくなんて。私は人を守る力でよかった。その方が私には合ってる」


「ああ、そうだな」


 蒼は彼女の背中を拭いつづける。すこしずつ呼吸がみこめてきた。彼女が息を吸うとき、タオルを下へやる。息を吐くときは上へ。自分の呼吸も彼女のそれに同調してしまう。拭う者も拭われる者も、同じひとつの動きをしていると思う。


 みもりが天を仰ぐ。髪の毛が蒼の手を撫でた。


「もしかしたら、全部私の願いが引きおこしたことなのかもしれない。あの町で最後の人間になったこと、人を守る力を手に入れたこと、それに――」


、何?」


 蒼がたずねるとみもりはふりかえり、ほほえんだ。


「まあ、いろいろとね」


 彼女は立ちあがり、ブラジャーを着けた。Tシャツを着、ジャージに袖をとおし、ウインドブレーカーを羽織る。その現実的な手続きが、ついさっきまでこの場に見られた光景の非現実性を際立たせた。


「タオル」


 みもりが手を差しのべる。蒼はタオルを手渡した。


 彼女はくすっと笑った。


「この距離だとさすがに見えるね」


「え? あっ……」


 蒼はあわてて前を隠した。手の中から飛びでようとするので、ぐっと下に押さえつける。


「気にしないで。看護師になったら何度も見ることになるし」


 みもりは笑いながら斜面をのぼっていく。


 蒼は川に体を沈めた。肌を撫でていく水がみもりの胸の柔らかさを想像させた。闇は白い肌の残像を映しだす。体は彼女を求めて火照ほてる。


 彼は川底に爪を突きたて、砂を深く穿うがった。川はびくともせず、彼の体と力を受けとめた。

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