1-6

 その夜は寝袋で眠った。


 ベッドに入る気にはならなかった。さわ家の人たちなら知っている。娘がそうの3つか4つ年上で、小学校がいっしょだった。父親が実業団で陸上をやっていたとかで、運動会の父兄参加リレーでとても速かったのをおぼえている。


 朝、目がさめると蒼は、寝室の窓から自分の家の様子をうかがった。自衛隊はもう来なかった。


 午後になると、犬を連れて家を出た。何となくここを離れていたかった。自衛隊と出くわしては困るので湖の方は避け、谷の奥へと向かう。


 道に沿って建つ家が次第にすくなくなっていく。土砂崩れで道が埋まることのないよう、谷の斜面をコンクリートで固めてあるが、それを乗りこえるようにして木々が枝を伸ばし、影と葉を道に落とす。


 道の両側も路面も紅葉で染まる中、鋭いすいな光が目を刺した。


 駐在所の入り口についている赤色灯が回転している。建物の中をのぞいてみたが誰もいない。裏が住居になっていて、警察官の家族が住んでいるはずだった。


 さらに行くと、蒼の卒業した小学校が見えてきた。全校生徒40人ほどの小さな学校だ。


 前をとおりすぎようとしたところ、犬が低くうなりだした。はっとして蒼は身を低くした。


 ふりかえり、来た道を見る。車の姿はない。谷の奥にも異状はなかった。


 犬は四肢ししを踏んばり、牙をいている。目は小学校の方に向けられていた。


 蒼は低い姿勢のまま道の反対側に行き、木の陰に身を隠した。犬の方を見る。小学校の方にいる何者かを犬の鼻が嗅ぎとったのだ。また自衛隊だろうか。だが車は見えない。なぜこの避難区域に入ってくる者があるのだろう。この町にはもう何もないというのに。


 ひょっとして自分が目当てなのか、と彼は思った。スマホを奪われたことが思いおこされた。


 何者かの思惑おもわくがこの土地にある。この町を自分だけの世界と思いこんでいた彼の慢心に冷水を浴びせようとするものが存在する。


 犬が校門の内に向けてえだした。声がとがっている。何かの脅威を感じとっていることが明らかだ。


 蒼はを見た。犬の鼻は必要なかった。


 昇降口から出てきたは、かがめていた腰を伸ばした。


 背が2階の窓まで届くほどになった。


 鼻が尖っていた。大きく裂けた口から牙がのぞく。クリーム色の肌は人間のそれとちがって、滑らかなうろこのようなものでおおわれていた。一対の小さな目が吠えたてる犬に向けられている。


 大きな頭から肩にかけてくびれはなく、矢印のようなシルエットをしていた。腕は人間のそれに似ている。全体的に蜥蜴とかげのような見た目だが、尻尾はない。


 黒いよろいのようなものを着ている。蒼はそれに見おぼえがあるように思った。


 なぜそう思ったのかはすぐにわかった。


 昇降口からさらに2体のが姿を現した。1体はその手に何冊かの本を持っている。他の2体に向けて本を差しだしたは、鎧を光らせた。赤と青の光がの胸にいくつも浮かび、点滅した。


 蒼はそれを見た。はっきりと見た。あの夜にも、同じものを見ていた。


 父と母の体を覆った金属に浮かんでいた光。蒼の腕についていた金属の光――あれと同じだ。


 奴らは山からおりてきた神か妖怪か。蒼にはわからなかったが、あれがこの町の災いに関係していることは明らかだった。父と母、この町の住民たちは奴らの姿すがたと化し、死んだ。


 蒼は胸を押さえた。息が苦しい。体温があがってきていると感じる。


 は3体ともに胸をまばゆく光らせていたが、犬の気配に気づくと光を消した。


 犬が校庭を横切ってに向かっていく。その背中と尻尾の張りつめた様子から、じゃれつく気ではないことがはっきり見て取れた。


 最初に校舎から出てきたが腰に吊っていた棒のようなものを取り、犬に向けた。


 閃光せんこうが走った。突然のまぶしさに蒼は目をつぶった。


 掌に木の幹が触れていた。ざらざらとした、現実の手触りがある。彼はそこにひたいをつけ、深く息を吐いてから目を開いた。


 校庭の中央で細い煙が立ちのぼっていた。犬の姿は見えない。風が吹いて、焦げた臭いが蒼の鼻をいた。


 3体のが校庭の中央に集まった。額を寄せあい、地面を見つめる。胸が光っている。


 しばらくそうしていたあとで、は谷の奥へと去っていった。


 蒼は恐怖と怒りで動けなかった。


 あんなものは見たことがない。いったい何者なのか。


 どうしてこの町にはおかしなことが起こるのか。どうして自分ばかりこんな目にうのか。


 あたりが薄暗くなるのを待って彼は校庭に入った。


 地面にたきをしたあとのようなすすがついている。


 犬の体は消しとび、2本のこうだけが落ちていた。


 そういえば、この犬の名前を知らない。あしだけしかないこの犬を何と呼べばいいのだろう。記憶の中にしかないあの顔、あの声、あの仕草を何と名づければいいのだろう。


 彼は歯を食いしばった。つらいのは生前の犬を思うからなのだと考える――そんなものは忘れろ。いまここにあるものを見つめろ。


 グラウンドを取りかこむ木々にからすが集まってきていた。耳障りな声をあげて邪魔な人間を追いはらおうとする。


 彼は犬の肢を束ねて持った。断面から粘り気のある黒い血が流れでた。


 手に提げて歩くと、血が点々と地面に落ちた。


 涙が出そうだった。


 湖の方に向かって歩きながら彼は、川の中で誓ったことを思いだしていた。


 もう泣かない。泣いている暇などない。


 早くこの胸の思いを形にしたい。


 奴らを殺す。あの蜥蜴ども。


 奴らが病気の元凶だ――赤と青の光、黒い金属。まちがいない。


 つぐないをさせる。あの金属を引きはがし、腹を裂いてやる。けがされたこの土地を奴らの血で清める。


 みしめる下唇が切れて血が出ていた。彼はそれをめた。ふだんならいとわしいその鉄臭かなくささがいまは自分の決意を祝福してくれているように思えた。




 犬の肢を和田わだ家の庭に埋めてから蒼は川岸におりた。


 夕闇の底を水が流れる。彼は目をらしその底までをすかそうとした。


 あの蜥蜴どもを殺すには武器がいる。


 ナイフと包丁ならある。だがそれではリーチがない。


 身長3m近いあの化け物のふところにうまく入りこめるとは思えなかった。


 ならばをつけてやりにするというのはどうだろう。それならば遠くからでも――


 ということばが彼の記憶を呼びおこした。


 あの夜、目ざめたら手が金属に覆われていた。まるで槍のようだった。先端が鋭く、椅子の背に触れたら簡単に切り裂いた。


 あれなら奴らを殺せる。だがどうすれば出せるのか。


 彼は右腕を突きだした。握ったこぶしを見つめ、出ろ、と念じる。


 しかし何の変化も起こらない。


 あのときと何がちがうのか。彼は考えた――あのときは熱があった。頭が痛かった。病気だった。


 それが再現できるだろうか。


 彼はあの夜のことを思った。


 目を見開いたまま息絶えていた母。その人とわからぬほどかわりはてていた父。臨時の救護所になっていた校庭。死体が並べられていた体育館。何も映すことのない瞳。何のことばも発しない口。動かない足。帰り道で流した涙。絶望。怒り。


 彼の体は熱かった。内側が燃えている。


 震えが走った。


 ひじの内側に引きつるような感覚があった。


 黒子ほくろのようなものが柔らかい肌にぽつんとひとつできる。


 それがいくつも、じんしんのようにぶつぶつと浮きでた。


 やがてひとつひとつが膨れ、となりのものと融合してさらに大きくなった。


 肘がすっかり覆われる。手首に達する。手が隠れる。


 先へ先へと伸びていく。鋭く尖っていく。彼がそれを望んでいる。


 もっと先へ、と願う――やつらの命に届くほどに。


 もっと鋭く、と祈る――奴らの肌を裂けるように。


 伸長が止まる。肘から徐々に細くなり、先端まで見事に張りつめている。彼の意志を凝固させたかのようだ。


 赤と青に光る。彼の息遣いに呼応しているかのようだ。


 彼は虚空をった。重さはまったく感じない。


 かわを斬る。細い飛沫しぶきが向こう岸まで届く。


 コンクリートブロックを積んだ護岸にゆっくりと刺してみる。力をこめると肘まで入った。引きぬくと槍にはきずひとつついていない。


 目をつぶり、と念じた。


 右腕に衝撃が走った。と腹に響く音がする。風が胸にぶつかってくる。後方に吹きとばされそうになるのを踏んばってこらえる。爆風に体を押される。尖った砂粒のようなものが顔に刺さる。


 槍は跡形もない。という思いにこたえて弾けとんだのだ。


 目を開けると、いつもの右腕がそこにあった。


 彼はこらえきれずに、笑いだした。


 これでやれる。奴らを殺せる。


 そのときが待ちどおしかった。まるでサンタクロースが来るのを待つ子供のようだ。


 これが本当の夢なのだと彼は悟った。


 早くこの力を試したい。早く奴らを殺したい。居ても立ってもいられない。


 そのあとで自分がどうなろうと構わない。何を失おうと関係ない。


 これが夢だ。全身に力がみなぎる。夢がそれを与えてくれた。


 彼はしゃがみこみ、川の水をすくって顔を洗った。この熱を冷まさなければ頭がどうにかなってしまいそうだ。冷たさに肌が引きしまる。それでも彼はこみあげてくる笑いを抑えきれずにいた。

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