1-7

 あのときと同じように熱が出た。


 そうは寝袋から起きだして薬をんだ。このところ治まっていたが、また悪化したようだ。


 どうやらあのやりを出すと病勢が進むらしい。


 その程度の代償ならいくらでも払ってやる、と彼は思う。これくらいの熱でダウンしていた過去の自分が情けない。根性論は嫌いだが、気持ちが入っていれば、目標があれば、夢ややりたいことがあれば、すこしの病気などねかえせる。


 さわ家から自宅にもどり、仕度をする。


 物置から父のポンチョをひっぱりだす。深緑色をしているので、これをかぶって林の中に身をひそめれば敵に見つからない。


 下にはフリースジャケットとレインパンツを着る。ウエストポーチに水筒と食料、薬を入れて家を出た。


 曇り空で、いつもなら気分が沈むところだが、今日は足取りも軽い。


 川岸におり、水筒に水をむ。ふたを閉める前に一口飲む。お守り代わりになってくれる気がする。


 谷の奥へと進んでいく。川が道に沿って流れている。その水音が彼には自分を後押しする声援に聞こえた。


 駐在所が見えてきたところで林に入った。川が道かられて、そこに狭い林が挟まれている形だ。


 彼は木の陰に座りこんだ。すこし顔の位置が低くなっただけで土の匂いが濃くなる。地面の湿り気を近く感じる。


 動いているとそうでもなかったが、じっとしていると頭が痛くなってきた。薬をむことにする。水筒を出すのが面倒なので、錠剤を口に放りこんでそのままかじる。渋さに口がゆがむ。


 冷気が地面からいあがってくる。それにあらがうかのように彼の体は熱い。口の中が乾く。


 川の音が意識から消える。代わって耳に入るのは、頭上の葉擦れの音、幹の間を抜ける風の音、飛びまわる虫の羽音だった。


 胡座あぐらをかく彼の膝に緑色の羽虫が止まった。ポンチョの色に溶けこんで、4枚の羽根だけが浮いて見える。


 彼は動かなかった。心の内で、おまえはだ、と問いかける。なのか、なのか。


 自分がずっとこの林の底にんでいたような気がした。木や石と同じ種類の存在だと思う。熱い息を吐く口だけが動いている。


 彼はそこに錠剤を押しこんだ。みくだくと、渋い粉が口いっぱいにひろがる。気がつけば、ここに来てから1シート全部呑んでしまっていた。それで腹が膨れたのか、食べ物は欲しくないし、のども渇かない。


 林床の落ち葉を踏む気配があった。


 蒼の足のすぐ先を大きなへびが這っていた。口吻こうふんの先端から出入りする細い舌、真ん丸で意外とかわいらしい目、輝くうろこの一枚一枚が彼の目にははっきりと見えた。


 心の中で問いかける――おまえはだ。自分の側につくのか、あの蜥蜴とかげの側につくのか。


 思いが伝わったのか、蛇は動きを止め、しばらくじっとしていたが、やがてやぶの中に這入はいっていった。


 がやってきたとき、遠くからでも蒼の目にははっきりとわかった。山や空や林や町はで、大きな蜥蜴はだ。の奴はの世界に溶けこめない。


 は道の真ん中を堂々とやってくる。警戒心はないようだ。沿道の家が小さく見える。大きさの規格がまったくちがっていた。


 蒼は身を隠すことも息を殺すこともしなかった。林の中にいる。にいる。他に余計なことはしない。


 が近づくにつれ、いろいろなものが見えてきた。


 手に指が5本ある。足の指は見えない。肌に近い色の靴を履いているようだ。


 腕や脚にいくつもバンドのようなものを巻いている。


 背筋はやや曲がっている。荒い息遣いきづかいが聞こえた。のどの余った皮が張りだして、喉仏のように上下する。


 が駐在所の前に立った。回転する赤色灯に目を留め、首を傾げる。


 腰をかがめ、建物の入り口に頭をつっこんだ。中をひっかきまわす音がする。


 こちらに背中を見せている。いまならやれる――蒼は腰をあげた。


 地面に手を突き、ゆっくりと這っていく。まるで獣のようだと思う。音を立てぬよう、落ち葉を払い、草は分ける。


 が体を起こし、駐在所から出た。蒼は身を低くした。


 目ざまし時計がの手の中にあった。手が大きいので腕時計くらいにしか見えない。


 腰のあたりに出っ張りがある。が手で触れると、上部が開いた。時計をその中に収める。ウエストポーチのようなものだろうか。


 が湖の方に歩きだした。


 蒼は林の中をゆっくりと進んだ。彼の目から赤色灯の赤が消えた。山々の紅葉も杉の常緑も消えた。すべてが空と同じ灰色にかわり、視界の中心にいるだけが色を持っていた。


 が足を止めた。背を丸めて川を見おろす。


 蒼は道の上に出た。の死を強く願う。右腕が引きつる。ポンチョの下で金属がひじおおい、かつてないほどにとがった。


 は川をじっと見ている。まるではじめて見たとでもいうようだ。


 蒼は走りだしていた。もはや身を隠すつもりなどない。


 がこちらを向いた。小さな目が見開かれるのを蒼ははっきりと見た。


 わきを締め、槍の先をそちらに向けて飛びかかった。ポンチョが風に膨らむ。


 肩からぶつかった。足が宙を掻く。


 蒼は突き刺さった槍での体にぶらさがっていた。


 空いた手での体につかまろうとした。鱗のある皮膚がすべすべして冷たい。槍のついている肘がの血でぬるく濡れていた。


 ぐらりと崩れて、の体とともに宙に投げだされた。斜面を転がり、また投げだされる。かわが迫る。


 飛沫しぶきを浴びた。相手の体が下になって沈む。


 流れる水にの顔がゆがんで見えた。吐きだす息で水面がく。槍の刺さったところからあふれた血が流れに赤くひろがり、水にさらされたポンチョの緑に重なる。


 蒼はの上に乗っている。押しながされそうになるのを脚で相手にしがみつき、こらえる。刺さった槍を動かし、傷口をひろげてやると、新たな血が川を染めた。


 大きな手に首のうしろをつかまれた。すごい力で肉をむしりとられそうになる。


 もう一方の手が水の中から伸びてくる。蒼は空いた手でそれを押しとどめようとしたが、払いのけられてしまった。


 顔をつかまれる。爪がほおに突きたてられる。


 首をひねられ、折れるかと思った。


 下からひっくりかえされ、蒼は水に沈んだ。


 川底に押しつけられる。水を飲んでしまう。流れをはらんだポンチョが膨らみ、視界を塞ぐ。


 重い体にのしかかられる。蹴りはがそうとするが、脚が挟まれ動かない。


 息が苦しい。金属のこすれるような音が頭の中で響く。次第に大きくなって何も考えられなくなる。


 死ぬのか。


 逃げたい。せめてこの槍が奴の体からはずれてくれれば。


 、と蒼は願った。


 槍も蜥蜴も頭の中の音も、すべて消えろ。消えてしまえ。


 何かが水面を打った。


 水が赤く濁る。


 右手が自由になった。顔をつかむ手を押すと簡単に剥がれた。相手の下から脱し、水上に顔を出す。


 飲んでしまった水といっしょに胃の中のものを吐いた。胸に温くまとわりつき、流れていく。


 の体が浮いている。流れていこうとするところを蒼はつかまえた。彼の太腿ふとももくらいある手首をつかみ、岸にひっぱりあげる。


 の胸に大きな穴が空いていた。どんなに大きく強い生き物でも死ぬサイズの穴だ。よろいは割れ、皮膚は裂け、肉は荒れた断面を見せ、骨は砕け、内臓は破れて血を吐いていた。


 蒼の望んでいた形の穴だった。


 自分の右手を見る。槍は刺す・るだけではなく、爆発させることによっても相手にダメージを与えられる。奴らの体を完全に破壊できる。


 病気がこの力を与えてくれた。


 彼は自分がなりたくてこの病気になったのだと思った。


 あの蜥蜴どもを殺してやりたいという夢が病気という贈り物を自分にくれた。


 因果関係は逆だが、そう確信した。


 彼はを見おろした。半開きの目は笑っているように見えた。口の中には鋭く尖った小さな歯が並んでいた。尖った鼻の先にある一対の穴から血が出ている。胸が赤と青に光ることはもうない。


 肩をつかんで体を裏返した。水からあげてしまうとかなり重い。


 ウエストポーチに手をかける。ひっぱったらふたが開いた。中をさぐる。先ほどの目ざまし時計がある。青い液体の入ったびんがある。そこには見たことのない文字が印刷されていた。インスタントラーメンのスープみたいな袋がある。蒼はそれを切って開けた。


 折りたたまれた小さな布が入っていた。厚みはないのに、ひろげてみるとどこまでも大きくなる。最後には彼のかぶるポンチョと同じくらい大きくなった。


 その布は透明だった。下にあるはずの手が透けて見える。力を加えるとそこだけ赤く染まった。


 彼はその布をつかんだ。薄いのに毛布のようにけばだっていた。柔らかくて手の中でけていきそうだ。


「ああ、クソ……そんな……」


 彼は天を仰いだ。


 これはあの布だ――しゃさんからおりるとき見つけたあの布。


 あれはこの蜥蜴たちのものだったのか。


 奴らと最初に接触したのは自分かもしれない。病気は自分の体を媒介としてもたらされたのかもしれない。


 父と母、町の人たちを殺したのは自分なのかもしれない。


 岸辺に布を投げすて、蒼は手で顔を覆った。濡れた体が風に冷たい。その奥でかつてないほど熱いものが燃えさかっているのを彼は感じた。


   ◀▶   ◀▶   ◀▶


「ちょっとぉ、私の出番まだ?」


 窓枠に両足をかけたハルカがふりかえった。かげる日が彼女の肌を暗く見せる。


 蒼はとなりの大槻おおつきに目をやった。


「ネタバレになりそうだからいわないでおく」


 それを聞くとハルカは窓の外に視線をもどした。


 大槻が咳払せきばらいをした。テーブルの上の紙コップを取り、中が空なのに気づいて顔をしかめる。


「あの町で亡くなった人の数は僕も知っていた。でもひとりひとりがどういう人だったのか、どんなふうにして亡くなっていったのか、ちゃんと考えたことはなかった――上原うえはらくんの話を聴くまでは」


 蒼はうなずいた。


 いま語って聞かせたような怒り、憎しみ、悲しみが心の中で薄れつつあるのを感じる。あれからもう半年以上がすぎた。傷はえ、病も薬で抑えられている。


 あの場所、あの時間から彼は遠ざかりつづけている。


 彼はハルカの方を見た。足をあげているためにびょうすそがずりさがり、太腿の付根までがあらわになっている。彼女の肌にはきずひとつない。


 彼女の体は美しい。その奥に病魔が巣食っているなど、とても信じられなかった。


 ベッドの上の沙也さやは彼の話に何の反応も見せなかった。戦いが終わってから彼女はずっとこうだ。


 彼はひとりぼっちになってしまったように感じた。生きて、健康でいるというだけでハルカや沙也やあの町の人々から疎外されている。


「俺、もう帰るわ」


 彼が立ちあがると、裾を直してハルカも立った。


「ずっと座ってたから痛い」


 そういってお尻をこぶしで叩く。


「おーい、俺帰るぞ。また来るからな」


 彼は沙也の肩に触れた。薄く開かれた彼女の目はどこも見ていない。


 大槻が彼とハルカの紙コップを回収し、まとめて持った。彼はその前に立った。


「来週また来ます。話の続きはそのときに」


「うん。また来週」


 彼は病室を出た。あとからハルカがついてくる。


 入院患者のために準備される夕食の匂いが廊下に満ちていた。無言のハルカと歩きながら彼は、小学生の頃、友達の家から帰るときにおぼえた寂しさを思いだしていた。外で遊んでいてそこで別れるより、夕方になって台所で友達のお母さんが夕食を作っている気配を感じながらそこをあとにするときの方がより寂しさがつのった。自分の知らない生活が友達にはあって、自分と別れてすぐ彼がそこにもどっていくということが不思議で、ちょっと裏切られたような気分になって、やるせなかった。


 いま、病院のロビーでハルカと向かいあって立つ彼は、寂しさではなく、心苦しさをおぼえた。


 彼女をこんなところに置きざりにしていいのか。


 この病院は快適だ。彼も入院していたからわかる。かつては結核けっかく患者の療養所だったという古い病院の内部を改装してあって、設備はどれも最新のものだ。スタッフの数は多く、患者のケアは行きとどいている。規則はうるさくなく、自由にすごせる。食事も美味おいしい。


 それでも長く留まってはいけない。ここは出ていくための場所であるべきだ。


 彼女の手を取り、ここから連れだしたかった。


「じゃあね」


 彼女が病衣のポケットに手をつっこんだままいう。彼はてのひらをジーンズにこすりつけた。


「来週また来るから」


「今度はまともなお菓子持ってきて」


 切れ長の目がまっすぐに彼を見る。彼はその視線をまともに受けとめられず、いつもふざけてしまう。


「まあ努力するよ」


 彼は笑い、エントランスに向かった。ふりかえると、ハルカはまだにらみつけるような目で彼を見ていた。


 病院を出ると、彼の夢がまたはじまる。


 次の日曜、ふたたびここに来たい。


 彼女に会いたい。


 いつか思いを打ちあけたい。あのときいえなかったことばの続きを。


 家にいても電車の中でも学校でも、この夢のせいで居ても立ってもいられなかった。


 彼は海沿いの道を歩いた。まるで速度をあげれば次の日曜日が早くやってくるとでもいうように急ぎ足で駅に向かう。


 国道を車が行きかっている。車は彼や海や病院に目もくれず走りさる。海は平気な顔で西方の島陰に夕日を沈ませた。

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