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 家にあったインスタントラーメンを食べ、午後は湖の方に歩いた。


 もともと歩行者を見かけない町だったので、風景に違和感はない。だが道や川に沿って建つ家の中にもう誰もいないのだと考えると、寒々しく映る。山の中を走っていてもこれほどまでの孤独は感じたことがない。


 とんびが空で旋回している。あの高さから見たら町はどんなだろうと思う。


 長いトンネルは歩道が狭くていつも車に気をつかっていたが、いまは堂々と真ん中を歩く。


 わかっていたことだが、駅にも人はいなかった。電車の到着時刻を示す電光掲示板も消えている。自動改札を抜けても反応がない。そうはホームのベンチに座った。犬が黄色い線を越えて線路をのぞきこむ。


 午後のこの時間、いつもなら上下線とも30分に1本は電車が来るはずだが、いまはいくら待ってもやってこなかった。ふりかえると国道があって、そこに車の姿はない。あのトンネルの上をとおる高速道路はどうなっているのだろう。東京と関西を結ぶのは東海道とうかいどうの方が使えるとして、山梨や長野に行くにはどうするのか。


 蒼はすこし考えてジーンズのポケットからスマホを取りだした。これまで「外」の世界についての情報は見ないでいた。どうせ嫌なことを思いだすだけだからだ。


 ニュースサイトを開いてみると、やはり「死者1000人超」「避難指示解除のめど立たず」「世界に衝撃」といった見出しが並んでいた。


 彼は深呼吸して記事を読みすすめた。それによると、たかさんおおはすとうげと山梨のささ峠に自衛隊が展開して道路を封鎖しているという。避難区域に指定されているのは津久見つくみあおい区とくれざわ市、遠月とおづき市――つまり津久見湖の周辺だ。山に囲まれているため、交通を遮断しゃだんするのは容易だろう。


 世間は大騒ぎだ。それはそうだろう。だが同時に、知るかよ、とも思う。


 蒼は両親の死を見た。たくさんの死を見た。その衝撃にくらべれば、死者の数が何だ。世界が何だ。何も見ていない、安全な場所にいる奴らの空虚なことばだ。


 同じ県内のさか市に住む祖父母からメールが来ていた。一家が無事かどうかをたずねている。蒼は返信をしなかった。


 LYNEのメッセージが溜まっている。同級生たちのメッセージはあの夜で途絶えていた。その中で若宮わかみやみもりのメッセージだけが以降も続いていて、生存者がいないか呼びかけている。最新の日付は昨日だ。蒼はメッセージを送った。


 ――若宮はだいじょうぶか?


 犬がじゃれついてくるので、足をおもちゃ代わりにしてあしらう。既読の印はつかない。蒼はスマホをポケットにしまった。


 駅を出て湖の方に向かう。国道を渡りかけて彼は立ちどまった。いつも車の通行が激しいこの道の真ん中に立つのは新鮮だ。


 この国道はかつて江戸と諏訪すわを結ぶ街道だった。東にすこし行けば宿場の本陣が保存されて資料館になっている。


 このあたりの町が街道を行く旅人に必要とされていた時代もあった。宿泊場所や食事を提供し、荷物や手紙を運んだ。鉄道が敷かれ、自動車が普及すると、この町はすたれた。


 小学校の社会の時間に聞いた話だが、富士谷の町は養蚕ようさんが盛んだったという。だがそれは他の地域や外国の製品に押されて消滅した。


 人々の営みは、政治や経済といった大きなものにやすやすと押しながされてしまう。たまたまある土地に住んでいたというだけで、あるいは栄え、あるいは滅ぶ。あるものはさびれ、あるものは水底に沈む。一人一人の意志や努力などは何の力も持たない。


 あの夜、体育館で死んでいた人たちもそうだった。彼らが死んだのはこの土地に住んでいたからだ。それ以外に理由はない。


 日頃から細心の注意を払って生きていても、大きなものの気まぐれで人は死ぬ。


 あらがすべはないのか。


 蒼は長い坂をくだり、月選つくえり大橋のたもとに出た。


 津久見湖にかかるこの橋は立派なアーチを持っている。小学生のとき、写生の時間にここへ来てこの橋を描いた。山々のなだらかなりょうせんや、湖面に柔らかく立つ波や、薄い雲に濁る青空に囲まれて、橋のアーチはくっきりとした輪郭を持ち、その場に確固としてあった。それが気に入ったのだ。


 彼は橋の真ん中まで行って車道に寝転んだ。アスファルトは日が当たって温かそうだったが、実際触れてみると冷たい。仰向けになると、あいかわらずくっきりとしたアーチの鉄骨が生真面目に空を区切っていた。


 こんなところで横になっていて、ふだんならクラクションを鳴らされるかかれるかしているところだ。いま、蒼の意志に逆らう者などいない。


 誰にいわれようと、ここを退く気はなかった。この体、この土地、この命を何者にも奪わせはしない。


 ここで生きることが彼の抵抗だった。


 犬が彼の顔をのぞきこんできた。引きよせ、胸に抱くと、犬は鼻を鳴らし、おとなしくなる。顔をめられ、彼は笑った。アーチの下に笑い声が響き、まるで大勢が笑っているように聞こえた。




 翌朝、ベッドの中で目をさますと、まだ暗かった。


 尿にょうをおぼえて蒼は起きだした。廊下に出て電気のスイッチを押すが、かない。


「あれっ?」


 何度押しても反応がなかった。犬が起きてきて、心配そうに顔をのぞきこんでくる。


「電球切れたか? ……いや」


 蒼は1階におり、サンダルを履いて外に出た。


 もとより数のすくない街灯がすべて消え、谷間の町は闇に包まれていた。


「マジかよ……」


 どうやら一帯の電気を停められてしまったようだ。


 道の上を吹きぬける風に蒼は身震いした。暗いせいか、気温も低く感じられる。


 家の中に入り、トイレに向かう。ドアを閉めると暗いので、開けたまま用を足した。


 済ませてからレバーを押すが、反応がない。


「ウソだろ……」


 何度やっても水は流れなかった。水道も停められているらしい。


 蒼は頭を抱えた。この町で生きていくことの難易度が一気にあがったように思える。


 ふと、中学校で習ったことを思いだした。震災に関するビデオの中にあった、断水したときに水洗トイレを流す方法――


「そうだそうだ。思いだしたぞ」


 蒼は風呂場に走った。


 洗面所にバケツがある。それを取って表に飛びだす。


 道路を横断して斜面をおり、川岸に出た。川の水をバケツ3分の2ほどむ。手に提げて斜面をのぼろうとしたら揺れてすこしこぼれた。


 家に入り、トイレに水を流しこむ。ごぼごぼと音を立てて水が排水口に吸いこまれていく。最後には底にすこし残るだけとなった。


「何だよ。余裕だな」


 蒼は廊下で見ている犬にほほえみかけた。


 台所に行ってガスコンロのつまみをひねるが、点かない。これでライフラインは全滅だ。


 蒼は冷蔵庫を開けた。このままでは中のものが腐ってしまう。いまの内に食べておかなくてはならない。


 ヨーグルトと納豆を食べた。たんぱく質にかたよりすぎな気がして、マルチビタミンのサプリをむ。犬にはドッグフードをやった。


 川におりてスプーンとはしを洗う。流れにけてこすると、川が彼の手の中から奪いとろうとする。箸が川の上流から流れてきて人が住んでいるとわかった、という話があったことを思いだす。いっしょに歯も磨く。狭い洗面所でやるとのちがい、解放感があっていい。空が白みはじめていた。


 バケツに水を汲んでおこうと家にもどりかけたとき、足元から犬が駆けだした。斜面をのぼり、大声でえだす。


「おい、どうしたんだよ」


 声の調子にただならぬものを感じた蒼は、身を低くして斜面をのぼり、道路の上に顔を出した。


 家の前に陣取って犬が吠えている。向こうから車が来た。ヘッドライトが光っている。SUVの親玉みたいないかつい車が2台。色はオリーブグリーン。蒼はあの夜の救急車を思いだした。


 車は彼の家の前で停まった。そこから降りてきた者たちを見て彼は、宇宙人が攻めてきたのかと思った。


 は顔をガスマスクで覆い、灰色をしたレインスーツのようなものを着ている。フードをかぶっているせいでシルエットが人間でないようだった。全部で8人。


 彼らの手には小銃がある。銃身の下にライトが取りつけられている。光景の不穏さに胸が苦しくなる。


 犬が吠える前を通過して彼らは蒼の家の玄関に向かった。無人の家だというのにしっかりと銃を構えている。映画で見た特殊部隊の突入のようだ。


 蒼はゆっくりとあとずさりして川岸にもどった。足音を殺して上流へと走る。すこし行って斜面をのぼり、そばにあった生垣いけがきの陰に隠れた。顔を出してのぞくと、銃を持った者たちが家に入っていくところだった。あいかわらず犬が吠えている。


 蒼は2軒となりのさわ家に侵入した。2階にあがって窓から自分の家を見る。家の外に2人残って周囲を見張っていた。


 あれはまさか外国の軍隊ではないだろうから、自衛隊のはずだ。だが自衛隊がなぜ自分の家に押しいったりするのだろう。あの夜、中学校で救護活動に当たっていた自衛隊員は銃なんて持っていなかった。


 2台の車は湖の方からまっすぐ蒼の家にやってきた。何が目当てなのか。何が目当てなら銃など持ってこようと考えるのか――彼にはわけがわからなかった。


 いまいるところは寝室で、ベッドがふたつあり、間にサイドテーブルが置かれている。その上の時計を蒼は見ていた。15分して、銃を持った者たちは車に乗りこみ引きあげていった。


 蒼は動かなかった。窓から外の様子を観察しつづける。犬がうろうろ家のまわりを歩きまわっていた。不安げに鼻を鳴らす音が聞こえる。


 正午になって蒼は握りしめていた箸とスプーンをテーブルに置き、部屋を出た。


 家の外に出ると犬が気づいてこちらに近づいてきた。それを足元にまとわりつかせたまま、蒼は自分の家に入った。


 電気が点かないので廊下は暗かったが、それでもはっきりわかるほど床が汚れていた。侵入者たちは土足であがりこんだようだ。


 蒼は玄関で靴を脱いだ。


 物置にしている部屋に行き、父の登山用ザックを取った。中にはヘッドランプ・ガスストーブ・寝袋・シェルターが入っている。台所に行き、水と食料を詰めこんだ。犬用の皿は手に持つ。


 2階にあがって着替えを取った。スマホも持っていこうとしたが、見当たらない。彼はいつも枕元にスマホを置いて寝ている。今朝は停電しているのに気づいて外に出て、トイレが流れなくて水を汲みに行って、朝ご飯を食べて――一度もスマホに触っていない。


 彼は床に目をやった。大きな足跡がいくつもフローリングの上に残っている。


 どうやらあの侵入者たちが持ちさったようだ。なぜそんなことをするのかわからず、彼は不気味に思った。


 荷物をまとめて沢井家に移る。犬はドアの前で尻ごみして入ろうとしなかった。蒼はそれを抱きあげた。


「おまえ偉かったな。あいつらから家を守ろうとしたんだろ?」


 声をかけると、犬の顔が心なしか誇らしげなものにかわったように見えた。

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